「平和活動」対「キリストの平和」

この頃、「平和」についての話題の記事が多くなっていますが、このことは、キリスト者に関わるいろいろな平和や和解の働きに関わっているので、強く考えさせられています。次の言葉の紹介から始めましょう。

多くの人が平和活動に対して強く躊躇する理由の一つは、平和活動家自身が求めている平和を、その人たちの中に見出せないことにあるのです。しばしば目に映るものは、恐れと怒りを抱く人が、自分たちの抵抗の緊急性を他人に説得しようとする姿だけです。悲劇なのは平和活動家がもたらそうとしている平和よりも、戦いを挑んでいる悪魔の姿しか見えないことです」(「平和への道」(ヘンリ・ナウエン著)92ページ

次のビデオは、パレスチナの町ベイト・ジャラという所で、分離フェンスに反対している、クリスチャンのグループが撮ったものです。

Non-Violent Resistance met with Lethal Force in Beit Jala from Stephen Sizer on Vimeo.

私はここに、上の文章にある「戦いを挑んでいる悪魔の姿」を見ました。撮影している本人たちは、非暴力の抵抗であると豪語していますが、私は吐き気を催すほど悲しくなり、怒りが込み上がってきました。その銃をもっているイスラエル兵の若者をこのようにカメラに晒し、名前や出身まで聞きだして、世界中に暴いているのです。物理的な暴力は使っていませんが、はっきり言って心理的なリンチです。

このイスラエル兵の若者がどれほど、心理的に卑しめられ、虐げられか知れません。上官から厳しい叱りを受けたかもしれません。これは「平和」という名の下で、敵対する者に復讐や怒りをぶつけている何物でもありません。この兵士が、このことを通して、キリストや福音から遠ざけられないことを切に祈ります。キリストの御名は、確実に汚されたことでしょう。

このデモを撮影し、また兵士に語っているのは、この前の記事で紹介した「検問所におけるキリスト(Christ at the Checkpoint)」というベツレヘムで行われた会議に参加している欧米からの牧師や神学者です。彼らは、いわゆる聖書を信じていないリベラル神学の信奉者でありません。一人はイギリス福音派の牧師であり、もう一人は有名なアメリカの福音派神学校の教授であります。しかし彼らは、自分たちの神学的立場から今のイスラエルは御心にかなわないとしており、パレスチナ人の民族感情を利用して、イスラエルという国そのものに反対するように仕向けています。

そして、その会議に関わっている人々ですが、パレスチナ人を名乗っていながら、イスラエル国籍を持っている、アラブ・イスラエル人が主体となっています。しかもパレスチナ自治区ではなくイスラエル領に住んでいます。自治区もイスラエルも、アメリカにも、自由に行き来できる人々です。しかも、メシアニック・ジューとして壇上に上がった人も、実はユダヤ人でもユダヤ教改宗者でもないと、現地のユダヤ人信者が報告しています。つまり、その会議そのものに、自分たちの語っている「実体」が、かなり欠けているのです。

今、この彼らの動きに反対したいから書いたのではありません。これが、しばしばキリスト者が「平和」と称して行なっていることに、世における「平和」や「人権」などの人間的な考えが混入している良い例として挙げたからです。日本においても、韓国においても、どこにおいても、外面的に平和を求めながら、実は内面から来る、まことの平和を引きちぎっている動きがあることを、憂えざるを得ません。

「反対運動」のからくり

いくつかの観察ができます。

①反対運動している人は、しばしば「自由」で守られている

私たちが目にする「人権蹂躙」を訴えている映像や写真、記事は、実は、そうしたことが公にされるほどに「自由」が与えられているからこそ、公表されているのです。この点をしっかり踏まえないといけません。パレスチナの人権問題にしても、何にしても、おおっぴろげに、はっきり分かる形で容易に手に入れることのできる情報には、それが表に出てくる自由を当局が与えているから、出ているのです。

もちろん、そこに苦境の現実が全く映し出されていないということを言っているのではありません。そうではなく、反対運動や活動をしている人々は、自分たちに反対する自由が与えられていることを確信しているから、敢えてそれを利用して、一つの誇張されたイメージ、虚像を作っている面があるのです。そのことをわきまえて、そこに出てくる映像や写真を批判的に見なければいけないのです。

②反対運動している人は、本当の当事者ではない場合が多い

本当の当事者は、声なき声となっています。苦しんでいる人、痛んでいる人々は、反対運動をしている暇などありません。毎日の生活があるし、反対するという気力もないでしょう。ある程度、金銭的に余裕があり、教育を受けているからこそ、そんな活動ができることが多いのです。

③反対している人には、本音を言えない理由がある

さらに、何かに反対しているということは、その反対を後押ししている力に対しては、ことさらに話すことをしない、いやむしろ支援する発言さえする、という現実を知らないといけません。

そのベツレヘムの会議に出席した、ある宣教師は、ハマスのジハードを肯定するかのような発言をしました。私はその宣教師が、ハマスの指導者に福音を伝えたという事実を知っていますから、そのような変な発言になったことを彼の著書から知っています。自分に本当に危害を与え、迫害するかもしれない力の中で生きる時に、その力にある程度、迎合するように振る舞わないと、やっていけない、生き延びていけないという現実を知る必要があります。ちょうど、人質がカメラの前で話しているような、そこまでいかないですが、同じ構図があります。

ですから、問題はこの場合は、語っている人よりも聞いている者たちです。そういった事情があるのだと思って聞き、決して鵜呑みにしないことです。

④反対運動している人は、他の反対者と一致する

自分が本当に反対していることがあって、そしてその反対している人を後押ししてくれる人がいたら、その人からの支援を受けて反対します。しかし、その支援者は決してその人たちの事を本当に思って支援しているのではなく、自分自身の目的のために利用しているにしか過ぎない時があります。「同床異夢」が起こっているのです。ちょうどそれは、ヘロデとピラトが敵対しているのに、イエス様のことに関わって味方になったようなものです。

⑤教会の政治化

つまり以前、紹介しました「教会の政治化」が起こっているとも言えます。キリスト者の平和が、キリストの福音、すなわち内側から外側に出てくるものであるのに対して、世の平和は、外側から変えようと思っています。罪があるから変わるわけないのですが、変えようとするから、かえってひずんだ、歪んだ、偽りの平和や正義が生まれ出てくるのです。

キリスト者のあり方

では、キリスト者の求めるべき「平和」とは何でしょうか?

①本当に自由がない人のところに行く

主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・(イザヤ61:1)」

イエス様は、ローマの中で苦しんでいるユダヤ人の中でも、ローマに反対しているユダヤ人の近づかれませんでした。そうやって民族感情を駆り立てて反対を仕向けるユダヤ人ではなく、むしろ、そうしたユダヤ人からさえ疎外されている人々のところに行きました。らい病人、女、罪人、などです。そして、富んでいる、力を持っているとして嫌われていた者たちのところにも行かれました。取税人ザアカイ、そしてローマの百人隊長です。

イエス様の平和は、表面的な平和ではなく、もっともっと、私たちの存在の核になっているところから出てくるものです。私たちに根本的な心の砕きを与え、そのへりくだりから出てくる心からの癒しに基づいています。

②当事者に寄り添うため、目に付かない

彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。(イザヤ42:2)」

イエス様は、上のような真実に苦しんでいる人々に近づいているため、人目に付かないこと、注目を浴びないところに行かれています。そして、その状況が公然になるとご自身が助けた意味がなくなるため、多くの者に対して「他の人たちに言わないように」と戒めも与えられました。

本当に働きをしている人たちは、皆さんが本当に祈って、強い関心を持って、実際に足を運んで接しない限り、その人たちの姿を見ることはないでしょう。そして、実際に苦しんでいる人々にも届くことはできません。まず、私たちは祈りから始めてみましょう。本当にそういった人々に届くように召されているなら、必ずそうした人、団体、動きに主は導いてくださいます。

③福音のため、他の背景の信者と協力する

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:11)」

イエス様のところに来る人は、数多くいます。そして数多くの人々がいるので、いろいろな背景を持った人たちがいます。それでもなお、彼らは一つに集められ、イエス様を喜ぶことができるのは、自分たちの民族感情、政治的志向、特定の神学体系、そういったものを横において、ただキリストの福音の中に立っているからです。

「検問所」ではなく「分岐点」

ベツレヘムの「検問所におけるキリスト」会議では、ユダヤ人と異邦人を一つにするキリストの平和は実現されず、むしろ、イスラエル人や多くのクリスチャンと亀裂を作ってしまっています。それは、一方的な神学的、政治的立場によって、この世の価値観が入ってしまっているためです。

しかし静かに、目立つこともあまりなく、中東の現場にいる人たちが集まって、「分岐点」という会議を先月、東エルサレムにある「クライスト・チャーチ」で行なっていました。

At the Crossroads

テーマとなる御言葉は、なんとThreeTogether東アジア青年キリスト者大会)と同じです。

その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエル人はエジプトとアッシリヤを並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。万軍の主は言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。 (イザヤ19:23⁻25)」

isaiah19

この三国を東アジアに私たちは適用させているのですが、こちらは本物、文字通りです。中東を、神のご契約、約束、預言にある契約として見ていき、そこでクリスチャンの働きをしている人々が集まるというところに意義があるようです。当然イスラエルが中心ですが、そこは「分岐点」にしか過ぎません。イスラエルだけのものではなく、これだけ周囲に、その広域を主はご自分を礼拝する場として選ばれています。そしてイスラエル人だけでなく、かつて敵の強国であったエジプト人やアッシリヤ人とも共に主を礼拝するのです。

メシヤを信じることで、エジプト、ヨルダン、レバノン、イラク、パレスチナ、キプロス、アルメニア、グルジア、トルコ、イラン、ケニアなどなど、そしてイスラエルにいるアラブ人、ユダヤ人が神殿の丘に近い、東エルサレムの教会で集まりました。そして礼拝と賛美で一つとなり、共に歩み、和解をし、祝福しています。そして、その半分がイスラエル入国を拒否されたという、残念な現実も報告しています。これもまた、上に説明していますように、自由がない人々のところに主はおられるのだということを如実に表しているのです。

英文記事:“At the Crossroads”: Promoting Unity in a Region of Turmoil

キリスト教会には、この時代は特に「商業化」と「政治化」が妥協の産物としてキリスト者の働きに入り込んでしまいます。目立つこと、目立つ人、聞こえのよいものだけに飛びつくことがないように気をつけたいものです。

次投稿:「パレスチナ人クリスチャンからの異論と希望の証し

「「平和活動」対「キリストの平和」」への6件のフィードバック

  1. 【付記】ベツレヘム聖書大学について

    検問所会議を主催しているベツレヘム聖書大学についてですが、私の個人的な感想は、「とても福音的で、宣教に熱心である」という好印象を持っています。けれども同時に、「キリスト教パレスチナ主義」によって今のイスラエル・パレスチナ問題を解決できるという信条もあり、これは極端なキリスト教シオニズムと同じ、キリストの体(ユダヤ人と異邦人が一つになる)を壊してしまうのでは、という懸念を持っています。

    その発足や、校長たちの証しは本物です。そして聖地の中で大きな困難と迫害を受けていることもその通りです。

    Epicenter 2012 – Testimonies

    しかし、検問所会議に、反イスラエル、反ユダヤ的立場で有名な話者が招かれており、また多くの話者から出てくる反ユダヤ的言辞が、ユダヤ人の兄弟たちや、イスラエル人たちを傷つけています。それにさえ気づいていないような感じもし、かえって自分たちを攻撃しているとして被害者意識を募らせているのではないかと懸念しています。多くの心あるイスラエル人やユダヤ人信者、クリスチャン・シオニストを疎外し、攻撃しているような形になっています。今年の会議では、既にユダヤ人信者が皆無になってしまったことがそれを物語っています。

    この懸念について、神学的な立場から問題提起している人がすでにいました。英文ですがここに転載します。(28頁から)

    Addressing the specific issue of political Zionism (pp. 47 ff.), Rood observes
    that opinions on both side can be “one-sided, reflecting opinions in the
    secular world.” She further notes that “there is as yet no sustained study of
    what may be called Christian Arabism to balance [Donald] Wagner’s
    work [his book Anxious for Armageddon] and others in the same vein.”
    Indeed, she writes as follows, speaking of “the determination of Arab
    Christians to remain committed to Arab and Palestinian nationalism in the
    face of radical Islam.”
    Yet the day may have come when Arab Christians have to think
    through the consequences of this position: while secularized
    Christian Arabs have founded, joined, and indeed led Palestinian
    militant groups since the 1960s, it gives one pause to read that
    Christian Arabs have joined the “Islamic” al-Aqsa Brigade in
    response to the failure of the Oslo Peace Process to end the
    occupation of the future Palestinian state. By weakening
    Palestinian Christians, the policies of both Israel and the
    Palestinian Authority have drive them away in search of safety and
    a future — and radicalized those who stay.
    Furthermore, “one of the most difficult problems that Palestinian
    Christians have with American evangelicals is premillennial
    dispensationalism . . . Christian Arabism and Christian Zionism thus
    divide the body and inflame the political conflict.” However, “Christian
    Arab condemnation of Christian Zionism is disingenuous, as it ignores the
    serious injustices permitted by Arab governments. . . . It is difficult to
    convince American evangelicals to be concerned about Arabs and
    Muslims because of their perception of the latter’s unrelenting hatred of
    Israel.”
    She concludes this part of her article: “In defending the failings of
    Israel and Palestine, we do no one any favors. It is critically important that
    we bring these issues to the forefront, so that with prayer and intercession
    we can find effective ways to fight the rabid anti-Semitic images and
    rhetoric disseminated throughout the world by the Islamist media, and
    seek justice for both Palestinians and Israelis.”
    (太字は私が付けました)

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