「パレスチナ人クリスチャン」の異論と希望の証し

前投稿「「平和活動」対「キリストの平和」」の続きです。

「不条理」の中で「平和と希望」を保つ兄弟

実際に西岸に住んでいる、生のパレスチナ人の兄弟がいます。その人は、6年前にガザから西岸に移り住みました。ガザでは、クリスチャンということで圧迫を受けていました。そして、イスラエルを憎む教育を受けていましたが、今は思いを改めています。けれども、西岸は大きな刑務所のようであり、移動の自由が分離壁や、検問所によって制限されています。エルサレムに行く一日許可を得て、学校に行くための許可証を得ようとしていますが、面談について音沙汰がなし。さらに、最新の投稿ではイスラエル軍から、「あなたはガザから来たので西岸においては違法だから、自治政府からの許可を得なさい。」と言われたそうです。もう複雑で滅茶苦茶ですね。ちなみに、この兄弟のためにイスラエルにいる、ユダヤ人信者やクリスチャンが祈ってあげています。

けれども、この兄弟は希望を捨てていません。これをイスラエルの占領のせいだと言っていません。そうではなく、「この状況の中でイエス様は何を教えておられるのだろうか。」といつも問い、自分の心を平安で守ろうとしています。イエス様が、ローマに対するユダヤ人の不満に対して、その不正を正すように動いたのではなく、むしろ自分たちにある罪を見つめることを問いかけたという、ルカ13章1‐3節の言葉を引用しています。いつも、自分の心が平安であるようにすること、その不公正の中で主のみを頼りにしていくことを学んでいます。

これが、真正なキリスト者のあり方であり、このような兄弟の苦しみは真実であり、祈っていくべきです。

「民族差別」ではなく「聖書・福音理解」の問題

The Misguided Teachings of the Christ at the Checkpoint Conference
(「検問所のキリスト」における誤った教え)

上の記事を書いている人は、Matt Hanna(マット・ハンナ)さんというパレスチナ人クリスチャンです。上の兄弟と同じ境遇におられます。ガザ回廊で生まれ、ギリシヤ正教徒の家庭で育ちました。西岸に移り、そこでイエス様に出会って、人生が変えられました。今は、様々なクリスチャンの働きに従事しており、福音をムスリムに伝えています。

彼もまた、同じことを基本的に言っています。彼はパレスチナ人クリスチャンとして、この会議の内容には同意できないそうです。多くのパレスチナ人クリスチャンが、キリスト教パレスチナ主義(Christian Palestiniasm)に付いていけない理由があるそうです。

あるいは、「パレスチナ解放神学(Liberation Theology)」とも呼んでよいでしょうが、それはイエスが、国の権威による不正義を前にして沈黙しておられなかった指導者だった、ということです。ゆえに、我々が国家権威に対してその不正を正すべく声を上げるべきだ、という考えです。

けれどもマットさんは、「イエス様はそんなことを、信者たちに教えられたのか?」と疑問を呈しています。ローマに対してその不正に声を上げ、ユダヤ人を非暴力の抵抗へ呼びかけたのか?イエス様はそんな政治的なことに関心はなく、ユダヤ人に対して、「カイザルにはカイザルに、神には神に返しなさい。」と命じられました。新約聖書によって、神の役割と、地上の国の役割を理解できるのだ、ということです。

イエス様の使命は、人々の命を救うことであり、誰かの政治観を変えることではありませんでした。そして上のパレスチナ人の兄弟と同じく、ルカ13章を取り上げています。ガリラヤのユダヤ人に対してピラトがとんでもない残虐なことをしました。イエス様の返答が、マットさん自身も驚かせるそうです。「あなたも悔い改めなければ、同じように滅びるのです。」というものでした。

そしてローマ13章においても、不正義に満ちたローマに対して、使徒たちはローマの権威に反対の声を挙げよとは言われませんでした。なぜなら、神の主権があり、その政府を置かれたのは神ご自身だからです。

そしてペテロは、御言葉を語るなと言われたときに、「人ではなく、神に従うべきだ」と答えましたが、聖書は「政府には従い、反対することは言うな。使徒ペテロが言ったことは、御言葉を伝えることについてのことであり、それが政治以上に私たちが優先すべきことだ。」ということです。

これがマットさんが、検問所会議に同意できかねる理由だそうです。

その他、イスラエルとパレスチナの間にある真実を一方的、一部しか言わないために、非常に不公正な取り扱いとなっていると言っています。ユダヤ教過激派がキリスト教会を放火した話をしても、ベツレヘムの教会を放火した事件については触れず、前者の犯罪者はイスラエルが逮捕、投獄されているのに、パレスチナ自治区内では後者の事件の犯人を捕まえたという話は聞いていない、など、多くの例を挙げています。

最後にこんな謙虚なことを言っておられます。「私は弱く、罪深い者です。キリスト・イエスによって、神の恵みによって救われたものです。キリストを神は死者から甦らせ、使徒たちに現れてくださいました。この方は私たちの罪の赦しのために死なれ、義と認めるために甦ってくださいました。」

“福音的”ですね~。

検問所会議の内容:「置換神学・置換歴史・置換政治」

ところで、私はこの会議について、またこの神学「キリスト教パレスチナ主義(Christian Palestinianism)」について、非常に苦しい、矛盾を感じています。つまり彼らは、彼らが罪、不法だと非難する「キリスト教シオニズム(Christian Zionism)」をまさに置き換えて、パレスチナ版にしていることです。神学的、歴史的、政治的に、全てを「イスラエル」から「パレスチナ」に置き換えています。

ユダヤ人がアブラハム、ダビデの時代からその土地に住み始めたということを、パレスチナ人がそのように住んでいたとします(歴史的)。そして、キリストにあってイスラエル人への契約や約束は成就し、今や、教会によって全ての民族や全ての人々に広げられているとしています(神学的)。しかも、聖地に何千年も住み続けた自分たちパレスチナ民族が、その約束について特別な役割を果たしている、という選民主義を主張しています(政治的)。

しかしこの誤謬を、「被害者意識」という隠れ蓑によって、他者にも自分自身にも気づかせないようにしているのです。

「聖書信仰、福音信仰」に留まるパレスチナ人クリスチャン

しかしながら、パレスチナ・アラブ人という環境の中で、イスラム教の中で「二流市民」として生き抜かなければいけない道をずっと辿って来た人々の、生きる道であったこということは否めません。したがって、大多数が少なくとも表向きは、こうしたパレスチナ版の置換神学を信じています。けれども、それをさえ表立っても、福音主義また聖書信仰に留まっている方で少し知られているのが、ナイム・コーリー牧師とその息子スティーブ牧師です。

From Bethlehem to the World

エルサレムに生まれ、ベツレヘムで育ち、教会を東エルサレム、ベツレヘム、エリコで開拓しているという働きをしておられます。ナイムさんたちは、聖書の言っているようにユダヤ人たちに対する神の約束と契約は今も有効だと考えています。この方々も、熱心にパレスチナ人への福音宣教にいそしんでいます。

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