「クリスチャン・シオニズムに対する誤解」、そして前々投稿「「平和活動」対「キリストの平和」」と前投稿「「パレスチナ人クリスチャン」の異論と希望の証し」の続きです。
「検問所会議」のまとめ
「検問所におけるキリスト」会議について、これまでの内容とかなり重なりますが、まとめみたいと思います。
先週は、かなり悶々とした時間を過ごしました。とても苦しくなり、なぜそうなのかはっきりしたことが分からずに悩んでいましたが、ようやく分かりました。それは、とても単純な真理です。「神はこよなくイスラエルを愛され、その愛をキリストにあって異邦人にも押し流してくださった。」という流れを否定されたからです。神が一方的に、ご自分の憐れみによってイスラエルを選ばれたからこそ、キリストにあって私も一方的に神の憐れみを受けて、愛され、選ばれているのだという、このつながりがあるわけで、イスラエルへの神の選びを否定したら、自分たちにも愛がなくなってしまう、ということです。
私が、個人主義的な信仰から世界に向かう御国の幻を広げたきっかけは、イスラエルへの祈りがあり、それから世界宣教がつながっていることがあります。聖霊はエルサレムにいる弟子たちに注がれ、シオンに王が来られたという良い知らせから、地の果てにまで神の救いが及ぶという宣教の情熱は、イザヤ書によって預言されていました。その幻は、主に聖書通読から得られたものですが、ジョエル・ローゼンバーグという、聖書預言に基づく小説を書いている人の講演や著書の影響は大きいです。彼は”Epicenter(震央)”という神の幻を頂いており、神はイスラエルを中心にして世界を動かされているが、その周囲の国々にその祝福は広がっているという重荷があります。それでJoshua Fundという団体を設立しました。それはイスラエルのならず、パレスチナ人、周囲のアラブ人に及ぶ広範囲な、霊的、物質的支援を行なっているところです。
その彼が、”Inside the Revolution(革命の内部)“の中でパレスチナ人クリスチャンの紹介をしていたことがあります。ベツレヘム聖書大学や、ハマスの指導者に伝道したブラザー・アンドリューの紹介をしていました。(関連記事:「過激な愛とその宣教」)そして、聖書大学の校長であるジャック・サラ氏をジョエルは自分の会議に招き、証しをしてもらっていましたが、その個人的救いの証しは真実で、救霊とに富んでいました(ビデオ)。そして、2010年の聖地旅行でベツレヘム聖書大学出身のガイドが、ベツレヘム訪問時に案内してくださり、とても福音的な姿に好印象を持ちました。
その聖書大学が主催している会議であるということ、その主な内容が、パレスチナ人のクリスチャンの切実な願い、福音宣教の幻と、また平和と和解を主題にした会議だと思って、それでメッセージを聞いていった次第です。ところが、聞いているうちに、自分の心の中がずたずたにされていったことに後で気づきました。平和や和解の言葉に騙されていたからです。もちろん、パレスチナ人クリスチャンですから、自分の聖書の見方やイスラエルへの見方は異なって当たり前だと思って、心備えをしていました。しかし、それ以上のものでした、実は、思想的、政治的な意図や思惑を隠し持っていたのです。
それは一重に、「クリスチャン・シオニズムを攻撃する」ことに他なりません。「クリスチャン・シオニズムを悔い改めて、クリスチャン・パレスチナ主義に立ち返りなさい。」というメッセージです。シオニズムを信じる兄弟姉妹を云わば、「あなたは手ではないから、体の一部ではない」と宣言しているに等しいです。平和と和解とは正反対、御体から切り離す試みをしているに他なりません。この本質を見抜くまでに時間がかかりました。
それぞれの立場からの批判的考察
いろいろな情報を読んでいきましたが、「パレスチナ人クリスチャン」、「クリスチャン・シオニスト」、「メシアニック・ジュー」のそれぞれの批判的考察がとても参考になりました。
①パレスチナ人クリスチャン:「誤った教え」The Misguided Teachings of the Christ at the Checkpoint Conference
②クリスチャン・シオニスト:「福音派テロ」Evangelical Terrorism
③メシアニック・ジュー(アラブ・イスラム専門の歴史学者):「クリスチャン・アラブ主義」(47頁以降のChristian Arabism, Christian Zionism)
たくさんの内容が豊富にありますが、自分が教えられた部分をかいつまんで話したいと思います。
一つは、「自分の感情や考えを、聖書に押し付けている」ということです。パレスチナ人クリスチャンの指導者スティーブ・コーリーさんも同じことを言っていて(音声)、検問所会議に出ている人々は「感情が聖書を導いていて、聖書が感情を導いていない。」ということです。聖書が何と言っているのか、聖書そのものに謙虚に向かって、それで結論を出すのではなく、その反対をしているということです。聖書の帰納的な読み方が必要で、演繹的に読んではいけないとも言えます。
これは、最近書いた投稿の、「寛容という非寛容」と「感情の絶対化」に関わる内容です。今流行っているキリスト教の教えには、自分の感情や思想を聖書に押し込むようにして読んでいく兆候があり、それで相対主義になっていき、「あなたたちは偏狭である」と言いながら、最も自分たちが排他的なことをしていく、歪んだ攻撃性を持つようになっています。
もう一つは、権威に対する反抗心です。感情や自分の思いが御言葉に先行してしまう傾向は、そのまま神の立てられた権威にも反抗していくことになります。そのために、パレスチナ人のイスラエルに対するエネルギーは、とてつもなく激しく、強いものとなっています。このエネルギーを肯定し、利用しているのが「解放神学」というもので、イスラエルという力と権威に抵抗し解放することこそが、イエスの教えだと奉じるのです。
しかし、私たちキリスト者の存在の本質は「愛による服従」にあります。初めのアダムは神に服従し、キリストは父なる神に服従されました。十字架という処刑に対して、イエスに判決を出したピラトに対して、無罪の者を有罪にするという罪があるが、これが父から出てきたものであると言われたのです(ヨハネ19:11)。この服従にこそ、まことの神の復活の力が現れるのであり、「服従するからこそ、栄化して、支配する。」というキリストの道があるのです。それに真っ向から否定して、人間的に人々を解放しようとしているのが解放神学です。
そして三つ目に、なぜ彼らがそうなってしまうのかについて、「クリスチャン・シオニズム」ならず、「クリスチャン・アラブ主義」があるのだということです。アラブ人やパレスチナ人はイスラエルに対して恐れと猜疑心を持っていると聞いていましたが、しかし実は、最も恐れているのは、イスラム教の中で庇護民に戻ることなのだそうです。
つまり、近代化されたアラブ・イスラム社会の中で、かつてのイスラム教の二流市民に戻ることを恐れており、過激なイスラムに直面している今、自らをアラブ・パレスチナの民族主義に傾倒することによって、過激なイスラムから守られようとする動機が働いているということです。けれども、ここには深刻な問題があります。その民族主義運動の中に既にイスラム主義が混入しているわけで、やがて自分たちも標的になっていくということです。
以上ですが、この会議では、非暴力とかいって穏健にしていますが、以上のような攻撃性を踏襲していますから、愛、赦し、平和を掲げていますが、その言葉の中には目に見えない釘やボルトが入っています。だから、②の記事の題名「福音派テロ」は正鵠を射ているのです。
世界の兆候の鏡
また、今世紀に入ってから、左派的な政治・思想・神学運動や民族主義は世界的な潮流になっています。左派の動きには、「平和」や「正義」が標語となっていますが、先の記事「「平和活動」対「キリストの平和」」にあるように、そこには自分を正しいとする、怒りのエネルギーが隠されています。そして民族主義が、それに対抗するかのように、いや、入り混じって表れており、アラブ主義だけでなく、イスラエルにもユダヤ主義があり、ヨーロッパにもイスラム主義に対抗する極右の台頭、東アジアでは、日中韓にそれぞれに強い民族主義が台頭しています。例えば、韓国は左派と民族主義が一体となっており、年末の日韓合意にさえ激しい反発をしめし、和解を拒否しているのは、右派ではなく左派なのです。
これを乗り越えられるのは、「聖なる国民」として召されたキリスト者たちです。私たちが、まずどこに属しているのかを確認する必要があります。国家でもなく、自民族でもなく、一義的に「神の国」に属する、この世から聖め別たれた国民なのだということです。(1ペテロ2:9)ですから、ある国に対して、侮蔑、嫌悪、憎悪の感情を育んではならないと、いうことです。(参照:キリストの栄光教会の川端光生牧師、BFPハイナイト2015年12月から)東アジアであれば、私たちは日本人、韓国人、中国人である前にキリストの御国の市民であり、一つの民とされていること、そして中東であれば、イスラエルを分岐点にしてその周囲の国々が一つになって神をあがめること、という神の国の幻が必要です。民族に帰属するのではなく、神の大きな幻の中に帰属しているのだということです。
イスラエル・アラブ人のシュムエル・アウェイダ牧師のフェイスブックでも、同じ内容のコメントがありましたので、掲載しておきます。「神はイスラエルを愛しておられるからこそ、全ての人を愛しておられる。」ということです。
クリスチャン・パレスチナ主義について
文書化されたもの:
“Prophets Who Prophesy Lies In My Name”
The Church at Christ’s Checkpoint
著書:
For Zion’s Sake: Christian Zionism and the Role of John Nelson Darby (Studies in Evangelical History and Thought)