ある方のツイッターにて、このブログで書かせていただいた内容に重なるものがあったのでご紹介します。聖書解釈や神学について、言い得て妙です。
ヘブル的解釈について
続)個人的な経験だと、解釈にこだわり始めると、どうしてもこの辺りのバランスが崩れ気味になっちゃうんですよね。聖書をしっかり読み、そしてそれをそのまま捉えて意味を汲み取る(ヘブル的解釈ってのは端的に言えばそういうものです)。これが身についてきたら、適用もとても豊かになってきました。
— balien (@balien_thlg) 2016年5月15日
そう、特段にヘブル的を強調せずとも「聖書をしっかり読み、そしてそれをそのまま捉えて意味を汲み取る」作業していれば、そのままヘブル的です。だから「ヘブル的、ヘブル的!」って強調しちゃうと、かえってヘブル的でなくなっちゃうんです。
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神学の対立について
そうすると、その神学的立場の信条自体が非常に単純化されて論じられ始め、そして泥沼に……カルヴァン主義とアルメニウス主義、いやもっと言えば教父時代からの神学あるあるだと思うf^_^;
— balien (@balien_thlg) 2016年5月16日
「元々の人ほど聖書研究をせず」がポイント。しっかり学んで、それで出てきたものでないから、あとで対立生みます。キリストがあがめられないで、自分の考えや人に付くなど人中心になるからです。
ある改革神学系の教団で親しくしている、本当に尊敬している牧師さんがいます。自分の仲間であろうがはっきりいうタイプ。辛辣にこう言っていました。「カルビン主義者ってカルビン死後に勝手にフォローしてカルビンの名を使ったけれど、カルビン自身はキリストがあがめられ自分が低くなりたいから、どこに葬られたかも分からぬようにした。」(Wikipedia)
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「流行りの神学について」
「神学に興味を持っている一般人」や「神学者ではないが神学校で学んだ人」に広く見られる神学的立場があるとしたら、それはその時々の主流の神学や発言力のある神学者の動きを反映してると言えるんじゃなかろうか。
あくまで推測だけれども。これが事実だとしたら、色々と思うところはある…— balien (@balien_thlg) 2016年5月20日
本当の真理の追求でなくて、簡単に言うと「流行」なんですね。「教えの風」に吹かれないようにしましょうよ。
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最後に、自分のフェイスブックでの投稿を一部紹介します。
素振りをしましょう、もっと素振り!
もちろん、聖書解釈や神学の学びが駄目だと言っているのでは全くありません。その学びがとても信仰の素養になることってあるんです。しっかりと神学を語っている牧師さん、実践に生かせている方々もいるんです。けれども、何か、上みたいな議論って、「自分の一部が脳みそ」なはずなのに「脳みそが自分」みたいなことやっているような気がするんですね。
福音書に出てくる、ユダヤ人とイエス様のやり取りを見ていると分かるのですが、彼らが何かに熱心になってイエス様に尋ねるんですが、イエス様は全くぶれないで、彼らに抜けている部分、本質をつくんですね。例えば、ピラトがガリラヤ人の血をガリラヤ人のいけにえに混ぜたとか報告してきた人がいて、「あなたも悔い改めなかったら、滅びるのだ。」と、彼らの魂の状態に話しを戻された。相続について、何とかしてくれと聞いてきた人には、相続の分配のお手伝いをするのではなく、ずばり「貪欲」について話された。納税についても、「納税はしておきなさい。それよりも、あなたは神に捧げるのです。」と、本質的でない所にずれる彼らを本質に戻されました。