私たちの生きている世代がどのように変わってきたのか?アメリカの教会の状況を追っていると、「ミレニアル世代」という言葉を多く見かけます。
「ミレニアル世代、新世紀世代◆1980年前後から2005年ごろにかけて生まれた世代。10代からデジタル環境になじんだ初の世代に当たる◆【語源】millennium(千年紀)から」
この記事では、ミレニアル世代のキリスト者の紹介をしたいと思います。この用語が使われているのは欧米なので、ミレニアル世代に生きるキリスト者の課題を取り上げてる英文記事を紹介します。
I’m Christian, But I’m Not… (私クリスチャンだけど、~とは違うのよ)
最近、あるビデオが急速に広まったそうですが、それは「私はクリスチャンだけれども、~ではありません。」という題名のものです。
四人の若い女性と一人の男性が出てきて、自分はキリスト者だけれども、これこれではないと言っているのですが、他のクリスチャンだと言っている人々とは違うということを言っています。自分は同性愛嫌悪症ではないし、偏狭な考えではないし、人を裁かないし、高見の見物はしません。けれども自分は同性愛者だし、フェミニストだし、世の中の音楽を聞くし、「信者だからといって、同じクリスチャンにお堅い、閉鎖的な人がいるからといって、すべてがそうじゃないのよ。」と言い、それから、「愛が最も大事なことなんです。」と、会話を楽しそうに話しています。
けれども、こちら記事の記者は、「これはまるで、パリサイ派の祈りではないか?」と、疑問を呈しています。
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18章9-14節)
「私は、~ではない」という否定や比較は、建徳的ではないですね。そのことで自分の存在価値を確かめたり紹介したりする仕方は、まさにパリサイ人と変わらないではないか?ということです。
関連記事:「最近流行りの「新しい福音」 その1」「その2」「格好良く見せようとする教会」
「ミレニアル世代のキリスト者が、止めるべき五つの傾向」5 Trends Christian Millennials MUST STOP Doing
そして、若い人々を牧会している人が、上の記事を紹介してから、若い世代のキリスト者がやめたほうがよい、五つの傾向を挙げています。
1)寛容
「心砕かれる」「聖さ」は求めないで、「寛容こそが一番」と考えています。でも、もし聖さを求めなければ、イエス様がいなくてもできてしまいます。ここにある問題は、人の罪を憎むことは、その人自身を憎むことになると考えていることなのです。ですから、罪こそが神と人を引き離すのですから、これから離れないといけないのですが、「ありのままの姿を愛する」といって、その罪を是認してしまっています。
けれども、イエス様は愛そのもの、その手本ですが、そういった意味の寛容はお持ちではありませんでした。寛容がそのような定義であれば、十字架というものが、全く非寛容なものです。福音は、「そのままのあなたで来なさい、そのままのあなたで大丈夫です。」を教えておらず、「そのままのあなたで来なさい、そして罪を犯してはならない。」と教えています。
関連記事:「『寛容』という名の非寛容」
2)神学の軽視
(「神学」と言っても難しい知識体系のことではなく、「神がどのような方かをじっくりと調べること」ということですが)、今の傾向として、「神を知るという難しいことはよしにして、またそうすると自由が利かない、とにかく愛することを学ばないとだめなのよ。」というものがあります。しかし、本当にそれでよいのでしょうか?神を知ることと愛することは、二つで一つです。どっちかだけというものではありません。もっとイエス様を知れば、もっとこの方を愛し、もっとイエス様を愛せば、もっと知りたくなるし・・。そして、神が愛されているように、神の民を愛したいと願うようになります。
愛するというのは、結婚生活のように、相手を知って、時間を過ごし、仕えることによって培われるものです。それと神との関係は同じです。
ただ愛だけを語ればよいという考えは、そこに何ら変化や回復をもたらさないものとなります。「愛するなら、同性愛になぜ反対するの?」「聖書は、裁いてはいけない、と書いてあるじゃない。それに、彼氏と夜を過ごすことを責めないでよ。」となるのですが、聖書は、私たちに罪が何であるかを明らかにします(マタイ7章24節、1コリント5:9-13節)。けれども、それ以上に、イエス様は、今の貴方との関係以上に、もっと喜び、もっと純潔、もっと親密さが与えられるよう、願っておられるのです!
関連記事:「「人」ではなく「神」」
3)世からの分離
私たちはこの世に属してないのですから、世的に行動してはいけません(ローマ12:1‐2)。「けれども、イエス様は一緒に飲んだり、食べたりしたじゃない?」と言うかもしれませんが、イエス様の飲み食いが、いわゆるこの世の”飲み会”を意味していないことは、誰も知っていることです。キリスト者は、地の塩、世の光であり(マタイ5:14)、この世と異なっていなければならないのです。「この世、世間からかけ離れている」という批判は聞きますが、もし不信者の人が、キリスト者の交わりに違和感を感じないようであれば、何か問題があります!
もちろん、私たちは完璧ではありません、罪を犯してしまいます。けれども、罪を犯しても悔い改め、告白して罪から離れることと、それを正当化するのは全く別物です。
4)教会の批判
ミレニアル世代のキリスト者は、自分も一部であるはずの教会を、簡単に裏切り、切り捨ててしまいます。もちろん、教会を移るという神の導きはあるし、主を自由に礼拝できるところに留まることが大事です。合っていないところに、無理にいることは、自分にとってもその教会にとっても良くないでしょう。けれども、理由になっていない理由で、簡単に去ってしまう場合があります。
ブログ記事も多くなっています。例えば「ユース・グループ(青年会)を離れた三つの理由」などという教会批判があるのですが、自分にも責任があったという内容のはほとんどなく、そのグループやリーダーを責めることに終始しています。
もちろん教会は完全ではないです。けれども、なぜそんなに否定的なことばかりを取りあげるのでしょうか?もっともっと、教会に感謝していること、誇るべきところ、愛していることを取り上げてみてはいかがでしょうか?そして、その批判している点でさえ、「本当にそうなの?」ということが多いです。まず、その前後関係や背景が分からないです。そして否定的に見えるそのことが、実は良いものを生み出しているという両面性もあります。例えば、大型教会(人数の多い、規模の大きい教会)について批判が多いですが、大型教会だからこそできている、大規模な宣教の働きや慈善活動があります。
関連記事:「教会から分離する人々」
5)責任あるつながりの不足
教会について何でも批判するような人は、教会にいる人々について責任を追及するのですが、自分自身が責任関係の中に入っていません。自分が批判しているその矛先が、自分自身にも当てはまらないか点検したほうがいいです。責任ある人間関係に入っていれば、戒めることもあります。けれども、自分のわがままな行動を指摘されると、いちやはく「裁いている」といって相手を悪者扱いし、聖書まで使って自分を正当化します。しかし、聖書はキリスト者は互いに戒めることを教えています。キリスト者であると言うのであれば、神の定められた裁きを受けるのです。しかし、その裁きは、人を正すためのもので、回復のための道です。へと向かわせるものです。ですから、神の憐れみの中に入ることであり、責任ある関係は実に祝福されたものです(ヘブル4章16節)
関連記事:「教会の最大の脅威:「イエス様のファン」」「感情の絶対化」
キリスト者の若者というよりも社会現象
以上、十代から三十代前半の若者を対象にした記事ですが、私はこれを実際に知っているミレニアル世代の兄弟姉妹のことを考えませんでした。彼らの多くは、とてもしっかりした人々が多く、決してこの範疇に入っていません。むしろ、ミレニアル世代に合わせる流れが現代社会にあるのではないか?と強く感じています。多くの人々の心を蝕んでいる傾向であり、その圧力が教会に圧し掛かります。そしてそれを後押しする教えも出回っています。「教会から出ていこう」等という内容の書籍も売られています。一部の欠けているところを取り上げて、全否定してしまっていることが問題です。結果的に、この世的になってしまっている。世と変わらないキリスト教となってしまっているのです。
関連した記事で、次のものはとても役に立つ情報です。→「「教会には愛がない」発言者理解のために」
私たちが願っているのは、「本物でいたい」ということです。それは完璧になるということではありません、むしろ、体当たりで神さまのご計画に入っていくことです。
ミレニアル世代を助ける働き
上のビデオは、英語が分かれば大爆笑。ただ、ひどく苛立つ人もいるかも。このビデオを作成した教会は、ミレニアル世代向けの集会があります。だからこそ、まっすぐに彼らをパロディにすることができている、とも言えます。
話としては、こんな感じ。
「一人の男の子がコーヒー店にたたずんでいて、マンバン(今、流行っている男のヘアスタイル)の格好で、仕事もない状態だけれども、30歳になれば億万長者になれると信じています。」
「ミレニアル世代を愛さないと」
「一人の女の子が、自分のインスタグラムに、たくさんの自撮り写真を、ちょっと感銘の受ける言葉をいっしょに載っけて、ヨガパンツの格好で、自分の夢とエッセンス・オイルの知識で武装し、世界を変える夢を持っています。」
「ミレニアル世代を愛さないと」
「自活しようとしている27歳、親の家を出ないといけないと思いつつ、でもまだ違うか?」
「まあ、いいだろう!」
「批判は、彼らの耳には耐えがたいことで、自分が全部知っていると思いたがっている。また、やってもいないことで自信を持っているけれども、それは、参加賞のトロフィーを受け取ったりしたからです。」
「ミレニアル世代を愛さないと」
「あと一・二年したら世代のバトンタッチ、そしてその中の一人が大統領になる。」
「はは、いいじゃん!・・・あら、やばい・・(汗)。」
「ミレニアル世代を愛さないと、ミレニアル世代のために祈ってください!」
・・簡単に言うと、「役に立たない自尊心が大きい」「傷つきやすい」というところでしょうか。