ご利益ではないキリスト教

未信者からの質問にどう答える?

礼拝後にした、ある人との会話がとっても良かったのでシェアします。ちょっと脚色つけていますが、ほとんど同じです。

「もし、こんな質問を信者でない人から受けたらどう言えばいいですか?『結局、キリスト教だって、「信じれば天国に行ける」と思っているから信じているんじゃないですか?ならば、それもご利益と変わりないですね。』」

私:「私たちキリスト者が『信じる』というのは、意味が違います。下から上に行けるのではなくて、天から地に来られた神が十字架で死んでくださったことによって、その愛を受け入れること、その応答が『信じる』であって、天国に行けるというのは飽くまでも結果なんですね。天国に行けるから信じるのではなく、罪を赦すために血を流して愛してくださったその愛に応答するのが、信じるですね。」

「なるほど、日本人の『信じる』という言葉の意味自体が、違っていますよね。」

私はこの会話の中で、「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3:13)を思っていました。

私たち人間の心には、「~をすれば、祝福を受ける」という行ないによる救いが媚びりついています。けれども神のご計画は、「~をしてくださった」という恵みしかないんですね。その中に留まるために、自分に死ぬ。そうすると、神の恵みによる祝福が留めもなく流れてくる、ということなんですね。

「~をしなさい、そうすれば~なる」という約束

けれども、「「~をしてくださった」という恵み」を、「何もしなくてよい」ということでもありません。なぜなら、聖書には数多く、「~をしなさい、そうすれば~となる」という約束があるからです。例えば、こうあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7-8)

先に申し上げたとおり、神の恵みの祝福に応答することが私たちの信仰です。神の恵みによって救われた者が、何も動かないでいることは不可能です。無尽蔵の神の愛と恵みを受けた者が、その愛に駆り立てられて、キリストの命令に従おうとします。つまり、神の愛に留まる者は、兄弟を愛します。神の聖さにあずかった者は、聖めの中に生きることを強く求めます。神の正義を受けた者は、神の正しい関係にいること、他者との正しい関係にいることを求めます。これらのことを行なったら神から何かをいただけるのではなく、神の祝福を受けたのであれば、その中に留まる者は必ずその人から祝福の御霊が流れ出てくださいます。

そして神との交わりを保っているなら、そのご性質に反することはできなくなってしまいます。したとしても、それを自分の霊は悲しみ、その罪を捨てたいと願います。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます(1ヨハネ1:7)

もし「~をすれば、~なる」という約束を単なるご利益であると受けとめれば、イエス様の山上の垂訓、御国の宣言も「ご利益」になってしまいます。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3-10)

御国を受け継ぐために、心を貧しくするのではありません。慰めを受けるために悲しむのではありません。地を相続するために、柔和になるのではありません。そうではなく、御国に近づいた者は、必ず心が貧しくされ、罪に悲しみ、悪に対して仕返ししない柔和さが備えられ、義に飢え渇きます。神の憐れみを他者にも実践します。次の祈りも、理解に困難を感じるのではないでしょうか?

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 (マタイ6:12」

これでは、罪を犯した人を自分が赦すことによって、自分の罪が赦されるという、行ないによる救い、ご利益に聞こえます。いいえ、全くそうではありません。マタイ18章23節以降にある、一万タラントの負債を帳消しにしてもらった僕の喩えにあるように、既に罪が赦された者は、赦しの中に生きなければ、赦しの神と一緒に生きることはできない、という”交わりと結びつき“の話をしています。神の赦しを経験しながら、兄弟に憐れみを示さないでいることは不可能です。必ず赦しへと導かれるはずです。このように、私たちが神の恵みを知って、その中に留まれば、必ずその恵みの豊かさを知るようになっていきます。

「もう祝福された」と言って、祝福しない人たち

そこで補足として次の記事を紹介します。ある人が下のように書きました。

「イスラエルを祝福する者は、祝福される」ということを聖書的原則のように強調する団体がある。団体は、祝福の根拠に次の聖句を引用している。「 あなた(アブラハム)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)しかし説明がない。パウロは「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と前もって福音を告げたのです。」(ガラテヤ3:8)パウロは、祝福を「神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださること」であると教えている。さらに、パウロは「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13、14)と説いている。祝福は「信仰によって義と認めてくださる」(3:8)「信仰によって約束の御霊を受ける」(3:14)ことである。旧約の祝福に自分の概念(ご利益主義)を持ち込んではならない。イズムやムーブメントを持ち込んでもならない。大切なことは新約で取り上げられ、説明されてある。お題目を唱えるような信仰から卒業すべきである。今の「イスラエルを祝福する者は、祝福される」に取り組んでいる教会は、見当違いなことを実践している。すでに、イエスをキリストと信じる信仰によって、私たちクリスチャンは義と認められ、約束の御霊を受けている。その他の祝福を求めるのであれば、それは的外れである。祝福を求めるのではなく、祝福はもう与えられているのである。
引用元

確かに、創世記12章3節の祝福の最大なものは、ガラテヤ書3章にある信仰による義、そして約束の御霊です。全世界の民がキリストによって霊的祝福を受けること、これが今の時代、アブラハムへの約束の実現になっています。

けれども、私は終わりの日を見据えることこそが、キリスト者は今の時代を生きることができると堅く信じています。それは新約時代の教会の姿勢でした。つまり、キリストが再臨され神の国が立てられた時は、目に見えない霊的祝福だけでなく、目に見える祝福があります。すなわち荒野に水が流れるとか、獅子と羊が同じ所で草をはむであるとか、武器を国々が捨てるであるとか、土地が豊かになるとか、キリストを王として諸国民が集まって礼拝に来るであるとか、そうした至福も含んでいます。そして終わりの日に近づいている今、神はこの御国に向けたプログラムの前兆を、少しずつユダヤ人の帰還やイスラエル建国に関わるところで、お見せになっているということを確認しています。

貧しいユダヤ人帰還民のために、食料や生活用品を準備しているクリスチャンたち。
貧しいユダヤ人帰還民のために、食料を準備しているクリスチャンたち。

そして私自身は、そのような働きにキリスト者が関わることについて、神の働きを見ることができる、豊かな祝福にあずれると思っています。この原則はイスラエルに限らず、キリスト者の多岐の活動に当てはまります。例えば、東日本大震災や熊本地震後の救援や復興に関わっている人々は、どうでしょうか?キリストの愛に駆り立てられて行ない、確かにそこに主がおられることを知る幸いにあずかっています。そして現地の人々が慰めを受け、その中にはキリストを知る人も興されます。つまり、私たちはキリストにある霊的祝福にあずかりながら、なおのことキリストの命令に従って、その祝福の豊かさを知るという営みがあります。そういった意味で、「祝福する者は、祝福される」のです。あるいは「与える者が受ける」のです。なぜ、そのような団体が、他の異なる原則によって動いていると言えるのでしょうか?

関連記事:「イスラエルを祝福するとは」「イスラエルを愛する(原稿音声)」

イエス様の寛容さ、恵み深さ

ある人々を祝福する者たちを見て、「このように神の恵みは拡がりをもって世界に働いているのだ」と認めることができる、寛容さが必要です。「もう祝福された」のだと言って慢心している姿勢は、何かパリサイ派の人たちが、イエス様の、取税人や罪人のところで食事をしていることに腹を立てている姿勢にもつながっているのではないか?と思います。もちろん、そのような活動に関わらないと祝福を受けられないと考えれば高慢であり、確かにご利益主義に陥っています。しかし、神の御国にある祝福は多様であり、いろいろ広がっているということを認めない姿勢は、閉鎖的、排他的であり、キリストの愛を阻んでいると言えます。
九州キリスト災害支援センター
一つの祝福の原理に生きている人は、他の領域にも恵み深くなるし、祝福したいと願うようになります。上に挙げたイスラエルを祝福する団体であれば、アラブ人の祝福のためにも祈っていることでしょう。熊本地震の被災地を教会を通して支援していることでしょう。他の地域で海外宣教に行っている団体であれば、近くにいる人々にも伝道熱心です。なぜなら、どこかの特定の人を愛していけば、他の人々に届きたくなるように導かれるからです。このように「祝福しなさい」という命令は、何かを受けるための手段ではなく、神とキリストご自身に触れていくことであり、多岐に広がっていくものであり、その恵みの豊かさにあずかることであります。

神の恵みによる祝福は、いろいろな形で現れるので寛容であり、自分の考えや趣向や考え、主義で引き止められるものではないのです。私たちにはへりくだりが必要であり、「私は、神の恵みによって救われた、赦しを得た罪人だ」というところに留まって、そこから流れる御霊の働きにいかに自分の身を委ねることができるのかに掛かっています。

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまの恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(1ペテロ4:10)

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「ご利益ではないキリスト教」への5件のフィードバック

  1. 明石 牧師

    こんにちは、

    私ごときが言わなくてもきっと御存知と思いますが、おそらく村上 牧師が関わっているカルト化した教会でひどい目にあった方の中に、
    「幕屋の祈りの回復」を強調する教会や再臨カルトでイスラエルに行って携挙を待っていた人々がいたので、つい行き過ぎた見解を書いてしまったのでしょう…。

    ビリー・グラハム師の件といい、忙しさのせいでしょうか…。残念な見解が散見されますね。

    間違った反カルト化した教会に対する感情によって、バランスを失ってしまいそうな信仰姿勢を修正させて頂いた思いです。

    この記事と書いて下さった明石 牧師に感謝します。

  2. マッキーさん、

    貴重なコメント、大変ありがとうございます。そうですね、イスラエルを祝福すると言っている教会や団体、動きの中に、いろいろな変な動きや教えをしている所は、わんさとありますね。ただ、おっしゃるように、まともなところまでを一緒くたにして、一般化しすぎて書いているのに危惧を抱いています。

    どうか、カルト化してしまったところだけに焦点を当てていただければ・・と思うんですね。大変貴重な働きをしているだけに、とても残念です。そして、私がこのような批判的なことを書くのも、心が痛んでおります。でも、影響力のある方だけに、書いておかないと、健全な伝道団体や支援団体までに偏見を持たれてしまうのではないかと心配です。

    また、そうした諸団体の方々は、心を痛めていても、表立っては話せないという、当然ながらの事情もあります。批判の暴走によって悪意ある者が中傷しつづけ、一部には心身に支障が来ている方もいらっしゃいます!

    村上先生には、きちんと、カルト化に反対する動きまでが、特にオンライン上で、すでに一種の流行になってしまっているという事情を知っていただきたいです。ですから、ご自身の行き過ぎた発言が、大きな影響力をもって人々の心に浸透してしまっているかを知っていただきたいです。そうすれば、ついに、本当にカルト化の中で苦しんでいる人々を助けられなくなるという事態も憂慮しなければいけなくなるのですから。

    ・・と勝手に訴えてしまいました。改めてコメント、ありがとうございました。<(_ _)> 

  3. 村上先生は、5月30日付けでまた記事をお書きになって、私のこちらのブログ記事を意識してか、さらにご自身の主張をしておられます。

    「イスラエル」を「アブラハム」という個人のみに限定している読み方は、アブラハム個人もその一つですが、民族や国には当てはまらないというところに、著しくその釈義に問題があります。創世記を読み進めればアブラハムへの祝福が、イサク、ヤコブにも同じように継承されているのであり、そして創世記の終わりで十二部族にまで拡大していきます。

    さらに、特定の民族だけへの祝福はおかしいということを話していますが、これは神の選びそのものへの挑戦であり、深刻な問題を孕んでいると思います。神は確かにイスラエルという特定の者たちへの愛が注がれたことによって、今度はその子孫キリストにあって全ての民族に祝福が注がれていきます。

    神はいつも、「だれかを選ぶ」→「その選ばれた者によって遍く祝福する」という方法を取られます。神はモーセを選び、イスラエルの民が建て上げられました。そしてキリストご自身が、「選ばれた方」と呼ばれます。その選びに反発したのが、あのコラの反乱であり、キリストにある選びを妬んだのが、当時の宗教指導者です。

    そして、異邦の諸国への福音の祝福と言っても、主は全ての人を救われるのではなく、選ばれて、その選ばれた、祭司とされた国民であるキリスト者を用いて、さらにアブラハムへの祝福を広げようとされています。もしイスラエルへの選びを否定するなら、それはキリスト者が神の憐れみで選ばれたということも否定することになり、不信者が「選びなどと言うのは、偏狭で選民思想だ」という非難は正当なことになってしまいます。ですから、神の選びという救いの教理までも壊しかねないことになるのではないか?というのが、このような神学を持っている人々への疑問です。

    この神学議論については、以前すでに書いておりますので、下にゆずります。

    関連記事:「イスラエルを祝福するとは」「クリスチャン・シオニズムに対する誤解

    この方の見解は、欧米においては、一つの確立した「置換神学」というものです。(最近、新しい福音派の流れの中で再興してきて、反イスラエル・親パレスチナの立場を鮮明にする神学者が推進しています。)しかし、ご自身の教会はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であり、私は日本における教団内の組織を存知上げないので分かりませんが、少なくともアメリカにおける同教団はその立場を取っておらず、終末論についてはイスラエルの回復を信じる、千年紀前再臨説、かつ患難期前携挙説の立場を取っています。私もアッセンブリーについては、良い意味でそのイメージを持っていました。

    別に、それは教団内のことですから、私は立ち入りません。また私は、置換神学を奉じているからといって同じ兄弟姉妹でないなどと決して思っておらず、神学議論の中で語り合えばよい内容だと思っています。

    しかし問題は、こうした神学的な幅があるはずの違いを、教会のカルト化、偽りの教えなどの警鐘と共に書き連ねていることなのです。もしイスラエルを祝福するという動きの中にカルト化や基本的教理からの逸脱があれば、それだけをご指摘していただきたい。それ以外の普通の団体まで含むような書き方をしないでほしい。キリストの体全体の建徳を少しでも意識していただければ幸いです。なぜなら、読み手にとっては、そうした神学体系までも、他の偽りの教えと同列であるという印象を与えているからです。それが私が敢えて、ブログで取り上げている理由なのです。ご足労は多かろうと思います、お祈りしています。

    関連記事:「実が結ばれない教え

  4. 福音的クリスチャンのイスラエル支援の立場を、分かり易く説明した記事がありました。BFPの記事です。

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