本ブログではずっと、クリスチャンに対して「教会が政治化」することについての危険性について発信してきました。
この前の日曜礼拝で、エレミヤ書28章において、神の預言者と偽預言者ハナヌヤの対決について説教しました。そこで、神のご計画とは異質の教えが教会に入り込んでいることを言及しました。(下は、原稿からの抜粋です。音声では、24:00から聞いてください。)
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「5 そこで預言者エレミヤは、主の宮に立っている祭司たちや、すべての民の前で、預言者ハナヌヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように。」
・・ハナヌヤの言っていることは、アーメン、その通りであり、主がそのようにしてくださるようにと願っているのです。それもそのはず、神は確かに持ち去られた神の宮の器について、七十年後にバビロンを倒してから戻すと約束してくださっているからです。ハナヌヤは二年のうちにという期限を付けたのですが、エレミヤは七十年という期間が満ちてからと言っています。27章22節にはこう書いてあります。「それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある。・・主の御告げ。・・そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる。」主が顧みる日があって、それから携え上らせてくださるのです。
私たちは、主の御心について、その時を誤ればそれが神からのものではなく、悪魔からのものになることさえあります。例えば、主が再臨されてから地上に神の国を立てられますが、その時は狼が子羊と共に宿るという幻があります(イザヤ11:6)。私たちはそのような平和が来ることを望んでいます。しかし今、「だから、狼を恐れてはいけない。羊が狼と共に暮らすことを進めていかなければいけない。」と言ったらどうなるでしょうか?大変なことですね、羊飼いが敵を追い散らすという行為を取り除いたら、羊はたちまち敵に喰われて、死に絶えてしまいます。
同じように、イザヤ書には「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(2:4)」とあります。では、今、剣を持っている国が軍隊にしろ警察にしろ、それらを今、私たちがなくすのが御心でしょうか?いいえ。だれでもが、戦争なき平和を求めています。しかしイエス様は、人には罪があるから、戦争がなくなるどころか、「国が国に、民が民に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。(マタイ24:7)」と予告されたのです。偽預言になる時は、その願い自体は御心にかなっていても、時を間違って語っていることがあります。
では、なぜ間違うのか?それは、往々にして「キリストの十字架を経ない平和や救い」を求めているからです。アダムが罪を犯したから、人々に戦いがあります。その罪を取り除くことができるのはキリストの十字架のみです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、・・(エペソ2:14-15)」とあります。
イエス様が、バプテスマを受けられてから御霊によって、荒野に連れて行かれました。そして、悪魔の試みを受けられましたが、その一つがこの世の栄華を見せられた時のことです。「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』(マタイ4:8-9)」イエス様は、「神である主だけを拝み、主にだけ仕えよ、と書いてある。」と言われて退けられましたが、主は、いずれ世界の全ての栄華をご自分のものとされるのです。全能者、主権者であられる神ご自身であり、神の御子なのですから、万物を相続される方なのです。ですから、悪魔の言っていることは最終的にその通りなのです。しかし、今それを行なうことは、まさに悪魔の誘惑であります。
なぜなら、イエスさまは、仕えられるために来たのではなく、仕えるために来られたのであり、そして人の罪の贖い金を支払いに来られたからです。今、その時ではなかったのです。そして、十字架を経ない理想は、偽りであり、悪魔から来たものです。
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「時」を間違い、神を待ち望まずに、自分たちで成し遂げようとする煽りが、今日の政治運動に、そしてキリスト教関連の集会の中にあります。若者たちの先導する政治運動の中心がキリスト教とは無縁ではない人々であり、そこに、危険思想を持っている政治団体も接近しています。そして、若者向けに語る賜物のある指導者が、キリスト教の集会でそうした考えを吹き込んでいます。
「愛」「平和」「正義」「命」・・これらはみな、主の与えられた賜物で、とても尊いものです。しかし、それらはあくまでも「賜物」であり、「神ご自身」に取って替えられないものなのです。神あってこその愛であり、愛自体が大事なのではありません。キリストの十字架あってこその平和であり、罪が取り除かれなければ真実な平和は存在しないのです。神とキリスト抜きで求めてはいけません。聖書は、「平和だ」と言っている時に突如として破壊が来ると警告しています。正義も、神ではなく自分の正義となる時に、悲惨な結果をもたらします。いくら命が大切でも、神は命を取る権利を持っておられます。神が主権者であり、これらの良きものは全て賜物にしか過ぎないのです。
「愛」という偶像、「平和」という偶像、というものが存在するのです。愛の名の下で、平和の名の下で、神とキリストさえ悪者とすることさえしてしまうのです。これぞ、終わりの日、現れると予告されている反キリストの仕業です。
ですから、悪魔は巧妙に、良き賜物を使って私たちの心から、神とキリストを締め出そうと躍起になっています。気をつけてください。しかし、そうした指導者の語っていることの全てが誤っているということではないのです。むしろ主の使命に心を尽くしている尊敬すべき方々であり、その講義や説教の全てが間違っているのでは決してなく、普段は大きな支障はないでしょう。しかし、パン種のように”わずかに”入り込んでいて、それが浸透していることも事実です。敬意を払いながら、しかし、主を畏れかしこんで、そうした動きに関わらない、あるいは距離を保つという知恵と勇気も必要になってきました。
参考記事:「この会はどこへ行くのか」
ヒューマニズム
(傷のない善良な人間が持っているところの愛 =アガペーの愛ではない。)
これは、偶像。
もっとも解りにくいカタチで、ココロに、また人間関係に入り込んでくる偶像です。
偶像を警戒しましょう。
そして、ヒューマニズムに固まった人に、真理を宣べ伝えましょう。
自分は問題ない。自分は善い。と信じている人への伝道が、一番困難です。
そして、認罪は、聖霊によらなければ、不可能です。