昨夜、マラナサ・グレイス・フェローシップの牧者、菊地一徳さんのブログを覗いていたら今日の教会の問題点を取り上げる記事を読みました。私もずっと長いことこの問題にもどかしさを感じて、以下のエッセイを書き記していました。
「人」ではなく「神」
伝えられない地で伝える宣教
韓国に弱い日本の教会
ロゴス・ミニストリーと日本の教会
疑問を抱いていた情報の断片が、昨日拝読した論説によって一気に解明できた気分です。
非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 その栄枯盛衰の狭間で翻弄される日本の弱小教会
「積極的思考」「第三の波」「教会成長論」「繁栄信仰」「目的主導(Purpose Driven)」「新興教会(Emerging Church)」「韓国の教会」「教会のカルト化」などなど、様々な教えや集会の流れがやってきては過ぎ去っていった(あるいはこれから過ぎ去る)のですが、これら一つ一つ取り上げて、一つの底流を見つけています。それは、
「非聖書的」であり、そして
「人間主導」です。その結果、教会が
「世俗化」します。これが
「教会成長」という目的の中で起こっています。
これらを一つ一つ検証し、批判するのは比較的容易です。けれどもこの流れに対抗して、健全な教会形成が果たしてできるのか、その模範を見ることができるのか?となると話は別です。それで、菊地さんは次の論を展開しておられます。
非聖書的人間主導型世俗化教会成長論 vs 聖書的聖霊主導型聖化教会成長論 THIS IS IT 決定版
あっ、そうか。カルバリーチャペル運動の流れにあるではないか!と今更ながら改めて思った次第です。
「非聖書的」に対抗して「聖書的」に、
「人間主導」に対抗して「聖霊主導」です。その結果、
「世俗化」に対抗して「聖化」されていきます。その結果
「教会成長」は目標ではなく自然に生み出される実として結ばれます。
後記注:私は、この記事によってカルバリーチャペルをことさらに持ち上げたいと思いません。なぜなら私たちも同じ人間の集団であり、いろいろな罪や過ちをこれまで見てきました。そして、持ち上げることによって「カルバリーチャペル」という名前のみが突出し、誰がカルバリーチャペルでそうでないかの議論に容易に発展してしまいます。
大事なのはカルバリーチャペルではなく、私たちがクリスチャンであるということ、そしてカルバリーではなくイエス・キリストを宣べ伝えることです。
それでも私はカルバリーが好きです。ここにいると自分の家に戻ってきたような、ほっとした気分になります。だから離れることができません。教会はもともと神の家族です。家族ですから、優れているかどうかで測られるものではなく、「分かち合って」「助け合い」「仕え合う」所として求められるべきだと考えます。
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