患難前携挙説への攻撃

先日、教会にいる方が、今、人気のある本として貸してくださったのが次の本です。

「小羊の王国」(岡山英雄著 いのちのことば社)

今、最初のほうを読んでいますが、いや~、びっくりします。神の大患難からキリスト者が救われる、という患難前携挙説を、テモテ第一1章にある「空想話」にまで断定してしまっています。最近、日本の福音派の学者さん、先生方の一部が、この信仰の持ち方を攻撃しています。おまけ反ヤスクニ闘争にあるような世俗にある反政府的行動を聖書的に肯定、後押ししていく文面もあります。逆の振り子、極端、危うさを見ます。

患難前携挙説を、「教会が、・・地上で苦しみを受けることはない」として紹介しているところから、間違っています。聖書には、世が聖徒たちに加える苦しみがあり、そして神がそのような悪や不正に対して下す、裁きとしての苦しみがあります。前者の「患難」の源はサタンであり、後者の患難の源は神ご自身です。キリスト者は、後者の御怒りから救われたという大前提があります。

患難前携挙説は、そのような世からの激しい迫害と苦しみを受けているキリスト者が、この世に対する激しい怒りを終わりの日に神が示されることを、畏れかしこみつつ知って、神の救いを宣べ伝えることに他なりません。復讐を神の御手にお任せする姿勢です。そして、自分たち自身にも神の怒りを受ける要素が多分にあるにも関わらず、それでもキリストの血潮によって洗い清められ、義と認められたのですから、それゆえ、神の怒りである患難から救われる、という神の恵みによる救いを持つ姿勢です。

詳しくは、以下の文献とメッセージをどうぞ。

「患難と教会」(チャック・スミス著)

患難前携挙説の根拠」「患難前携挙説の霊的効果
テサロニケ第一」「テサロニケ第二

昇天してから、地上に再臨される主

そして、「初代教会の聖徒たちが待ち望んでいたのは、死んで天に会うイエスではなく、この地上に来られるキリストであった。」と言っている発言にも、びっくりたまげました。テサロニケ第一4章では、引き上げられるゆえに、「互いに慰めなさい」とパウロが、初代教会に励ましているのにも関わらず、正反対の結論を出しているからです。

イエス様は、ヨハネ14章にあるように、「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と言われています。イエス様がおられるところにいることこそが、キリスト者の切望です。キリスト者の定義は、「キリストに結ばれた者」であります。ゆえに、水のバプテスマは、キリストの死と甦りに私たちが一体になったことを示しています。

マリヤが聖霊によってイエス様を身ごもったように、私たちも神の御霊によって生まれました。イエス様が地上で聖霊によって宣教されたように、私たちも今、聖霊によって宣教します。そしてイエス様は十字架につけられ、甦られました。私たちも、罪の支配された古い人が十字架に付けられ、新しい人にあって、キリストにあって歩んでいます。(注:もちろんキリストは神、私たちは人ですから、決してその御業と私たちの実体は同一ではありません。けれども、結ばれた者として、その霊的祝福に預かっている、ということです。)

そして主は昇天し、地上に再臨されます。キリストに結ばれている者は、同じように天に引き上げられ、そしてキリストと共に地上に現われるのです。キリストがおられるところに、私たちもいるのです。天に引き上げられた後、それから主が地上に戻って来られる時は、神の栄光の中に現れます。

初代教会のキリスト者は、この世の患難を受けながら、キリストのおられる天を仰ぎ見て、この方にお会いする切望(携挙)を抱くと同時に、この世が神によって贖われて、神の国が立てられる(地上再臨)を願っているという、重層的な希望を持っていました。

そして、私たちキリスト者は、集会、聖会、そして礼拝で、その賛美の中で天を味わっているではないですか!その中に招き入れられることが私たちの希望であり、同時に、あまりにも酷くなっているこの世を主が建て直してくださることを強く信じています。「御国が来ますように」と祈れと主は命じられました。この二つは相矛盾するように見えますが、どちらも真実です。一方を強調するあまりに、他方を否定してはなりません。

初代教会と戦時中のキリスト者の証言

本書では、何度も携挙前患難説が「新説」であることを言っていますが、「初代教父たちの声」の記事はそれを否定する初代教父たちの文献を紹介しています。そして、本書に少数の者たちが戦時中、信仰を貫いた例を書いているのですが、当の本人たちは、患難前携挙説に立っていた信仰者たちでありました。

美濃ミッションの信者たちの証言
 ホーリネス教会の教職たちに対する判決

患難前携挙説を信じる者たちが、この世において苦しみを受けないなどという信仰を持っていないことは、戦時中の当事者の証言からあまりにも明らかです。

“説”は”説”、しかし我々は聖書を信じている

しかし、大事なことをお話しさせていただきます。「私たちは、患難前携挙説を信じているのではなく、聖書を信じている。」ということです。聖書を信じている結果としての説であり、「説」と「説」を議論、討論することは有益ですが、一方を「空想話」として断定していくところに、元々の誤ちがあるのです。

患難前携挙説を取っている者として、その弱点は知っています。それは、本書に書いているような内容ではありません。(元々、事実誤認あるいは歪曲して紹介しているのですから。)そうではなく、他の説にも言えることですが、”自分に都合の良いように適用させていく”という問題です。「聖書を丹念に読んでいって、それを素直に受け入れ、信じている。」という作業をすっ飛ばして、安易に携挙について語り、信じていることの内容が実際のものとずれて行くことです。

ですから、聖書を丹念に読んでいけば、患難前携挙であると私は強く感じると同時に、なぜ他の説が存在するのか、その理由は理解できるようになります。他の立場を取っている人々の根拠もなぜ、そう結論を出しているのかが、少しずつ分かってきます。仮に、患難前携挙でなく患難期に入ったとしたら、私はただ立場を変えるだけです。「説」のために命をかけるつもりはありません。命をかけるべきは、私の罪のために死んでくださったキリスト、そして神の言葉です。

参考記事:「聖書をしっかり読む基本に戻ろう

もっと深い議論を望む

基本的に私は、聖書解釈や神学体系に命をかけているような、一方を肯定するばかりに、他方を排除していくような議論がとても嫌いです。これは西洋キリスト教にある弊害であり、そして純粋な、日本の福音派系の教役者がそういった議論あまりにも真面目に取り組み、命をかけてさえいるように見え、拍車をかけています。本来、神学議論にあるべき「軽快さ」や「余裕」を無くしてしまっています。だから、距離を置きたい気分になっています。

参考記事:「距離を置きたいような神学議論

けれども、上記のような本に一般の信者の人が、「携挙はないことが分かった」などという断定的な発言を読んだので、「これは、言っておかないといけない」と思って書かせていただきました。お偉い先生が言っているので、「神学界では否定されたけれども、未だ一般信徒では信じられている」と言っていたのを見て、やれやれ(汗)、と思いました。

私は、ぜひ邦訳されてほしいと願っている本が次です。

Rapture(An Introduction to the Blessed Hope of the Church) by Don Stewart
携挙(教会の祝福された望みへの導入)ドン・ストュワート

携挙の定義から始まり、携挙に関わる説の、これまで教会に出てきたほとんどあらゆるものを網羅して、それぞれ短く紹介しています。その一つ一つの説に、著者の聖書的見解を紹介しています。そして、著者は結論として「やはり、患難前携挙だ」と言っています。それぞれの説に聖書的根拠を見いだしつつ、それでも最も一貫しているのは前携挙だということです。私は、こういう議論が好きですね。

「患難前携挙説への攻撃」への7件のフィードバック

  1. 私は患難中の立場に妥当性を感じますが、やはり健全な議論ができないと感じています。
    明石さんが紹介しておられたbalienさんもおっしゃてました。

  2. 艱難期の前、中、後
    どこかで携挙される。
    これで充分です。あまりにも説が多いので、その違い云々で 日本の数少ないキリスト者が喧嘩するのは、敵のおもうつぼ。

    ヨハネの黙示録は、時間的な時系列が混濁しているかもしれませんし。
    (起きる事は、正しく書いてあったとしても、その順番が曖昧にされているかもです)

    なので、なるべく正しい聖書をつかい(おそらくネストレアーラントではない)
    そこに書いてある事を理解できるように祈り求めるのが一番だと思います。

    欽定訳 KJV の底本をリンクしておきます。
    http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Greek_Index.htm

  3. フェイスブックにおける投稿:

     今の世界、また国内状況の揺れを見て、もう既に患難期に入っているという意見が、キリスト者の間にある。私はとんでもない見方だと思っている。聖書の、大患難における破滅的出来事を読めば、今、起こっていることは序章にすらなっていない。今は一リットル程度の水で、後は何百トンの水がやってくるようなものだ。むしろ今は、神がご自分の怒りを下される大患難の前に、それが来ることを注意喚起している前兆である。

     もし、ノアの時代における大洪水が歴史事実として起こったと信ずるなら、これから同じような世界的な天変地異が起こらないという事は決してできない。いや、ペテロ第二3章によれば、過去は水で裁かれたが、これからは火による裁きが来ると、明確に使徒が語っている。そして、火による裁きも、既に歴史的出来事としてソドムとゴモラに下ったのだ。

     我々キリスト者は、これらの裁きを受けるに十分に値する者だ。しかし、神はその怒りをすべて御子の十字架の上に置いてくださり、ただその十字架に拠り頼むことによって、救いを受けている者である。あの小さな、ローマの処刑台に自分の全ての人生の安寧がかかっているのだ。そして十字架の言葉を逃す者は、そのまま神の怒りの杯を飲みほし、災いの霰を受けなければなくなる。

     そして私はロトのような者であり、心が鈍くなっており、世に妥協してしまっている者だ。けれども、それでも主はロトを救われた。その火を降す前に、彼が出て行くまで待ってくださった。同じように、主は憐れみによって、来る患難から救ってくださる。だからこそ、主を畏れかしこみつつ、人々に罪の赦しを与える福音の言葉を伝え、また正義の住む都に将来住む者として、生活の中で証しを立てていきたい(2ペテロ3:13‐14)。

  4. JD牧師による、患難前携挙の教えの重要性の説教

  5. 患難期前携挙説です。
    聖書から、神はいつでも患難の前に人を救っておられます。ノアの時もロトの時も。

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