「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。」(イザヤ5:20)
これから、今の時代の特徴について、難しい問題を取り組みたいと思います。
自衛行為が聖書の禁じる「復讐」か?
あるクリスチャンの方が、フェイスブックのページを立ちあげて、最近の教会における政治的な偏りに取り組んでおられます。例えば、国防について、憲法九条を守る立場から自衛隊は無くす方向に持っていくことが”御心”であるとすることに対する違和感を表明しています。最近は、神学者や教役者の中にも、例えば家に変質者が襲ってきたとしても、”抵抗しない”という発言まで散見されます。
このことについて、しばしば引用されるのが「殺してはならない」「敵を愛しなさい」「剣を鞘に収めなさい」「国は国に向かって剣を上げず」・・というようなものです。しかし、これらの神の言葉が自衛隊不要論、国や家族を守ることの否定にまでつながるのか?という問題提起をしておられます。
私も、同じ葛藤を抱いています。このような平和絶対主義を聖書が言っているのか?と聞かれれば、私は、はっきりと「否」と答えます。以下、山上の垂訓にある主の命令に対する問いかけを、同じページで、ある牧師さんがされていたので、それぞれの問いかけに私なりに応答したものを、下に紹介します。
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(1) 山上の垂訓(説教)において説かれた「平和」や「非暴力」「無抵抗」に関して、それはどのようなカテゴリー、レベル、状況にまで適用すべきでしょうか?
イエス様は段階を踏んでいると思います。
①当時のユダヤ人の信仰や置かれた政治的状況
彼らはローマの圧政の中に生きていました。そして歴史的にバビロン捕囚移行、異邦人の支配の中で虐げられていました。ですから、第一にローマに願わくば政治的に、軍事的に抵抗する機会があればしたい、第二に、それゆえの預言書にあるユダヤ人の解放、神の国の建設を熱望していた。
しかしイエス様は敢えて、それと真逆のことを言われました。
②福音は、私たち自身からの解放、御国への服従
イエス様は真逆のことを敢えて言われて、むしろ彼らの内面を取り扱われています。政治的なことを語っていても、心の動機がおざなりにされている。実は自分というものの虜にされている。天の王国ならず、自分の王国を私たちは持っている。この姿をあぶり出されます。神を王として迎えること、つまり主イエスご自身の前でひれ伏すこと。これを願われていたと思います。
③神の国は、反ローマではなく「超ローマ」
ユダヤ人の当時の状況は、「ローマに媚びる」対「ローマに対抗する」との空気でした。これは圧政的な状況の下にいる人間であれば、当然どちらかの反応をします。しかし主が語られていたのは、「超ローマ」です。イエス様は、全ての権威は神から来ているとして、静かにローマの力に服従されました。しかし、そこにローマを圧倒的に凌駕する聖霊の力が働いています。(旧約時代であれば、その姿勢をダニエルに見ました。)ゆえに、迫害、受難を受けながら、なおのこと御国は前進します。そしてローマでさえ、その力と権威にひれ伏すことになります。
この様子は、最近日本で上映された「復活」の映画によく表れていました。
むしろイエス様が激しく対峙され、迫害を受けられたのは、内が変えられていない肉のままの宗教権威、ユダヤ人の指導者らでありました。世俗よりも宗教が、ある意味でキリスト教の敵とも言えるかもしれません。
結論:今の教会内における反政府的な動きは、「平和」「非暴力」「無抵抗」という言葉を使っていますが、その前提「反政府」であることで、正反対のことをしています。「平和」という名による「対立」を、「非暴力」という名で「無視などの実力行使による暴力的行為」を、「無抵抗」ではなく何でも反対していくという「無条件抵抗」をしています。当時の反ローマのユダヤ社会と同じになっています。
そして日本は多分に「異教」であり「世俗」なのですが、それに対抗しているために、「教会」という宗教の中で「心の動機、内面」がおなざりにされています。まず、ここを取り扱うことこそが先決。ゆえに山上の説教は、私たち日本の教会の最近の傾向に直接当てはまるでしょう。
(2) 無制限にすべてのカテゴリー、レベル、状況に適用することは、他の聖書の教えと矛盾しないでしょうか?
人間の罪の始まりがアダムからで、その現れがカインの殺人にあり、それを抑制するために、洪水後にノアに対して、「人の命を取る者は、人によって命が取られる」という制度を神が立てられました。これが政府の原型です。政府があるということは、そこに殺人のような悪を抑制するための剣の役目が与えられています。
イスラエルという神が立てられた国の中には、「殺してはいけない」という戒めを守らせるために、「殺した者は殺される」という戒めを立てられました。殺すことそのものを禁じているのは、あまりにも杜撰な釈義です。この釈義が成り立つなら、ローマが十字架刑にしたその暴力に反対することになり、キリストを十字架から引き下ろすことに他なりません。
私たちは聖書全体を見る時に、神のご計画のにある御旨の高さと深さをもっと見つめるべきではないでしょうか?つまり、「神は悪をさえご自分の栄光のために用いられる」という御心です。
神の救いのご計画の中で、戦争や病、その他のあらゆる災いを滅ぼされるのは、主が再臨される終わりの日です。それまでは、神はご自分の恵みと憐れみによって、そうした悪のある中でも、むしろそれらの悪を用いられてご自分の栄光を示すという逆転を行なわれています。十字架がその頂点にあります。「銃がいけない」と無条件に言ってしまえば、教会堂のにある白い十字架が、銃以上のむごたらしい暴力装置を掲げていることに気づかないといけないと思います。
バビロンをイスラエルや周囲国のための神の裁きの器として、ローマをユダヤ人のメシヤ拒否の対する裁きとして用いられました。病を、ご自分の業が現われるために用いられました。「戦争がなくなればよい、病がなくなればよい」と災いを無くすることを安易に考える考えは、その現実でご自分の御国を進ませるための御心を損なっています。それはしばしば、「自分の快適さが損なわれてほしくない」という自己中心的な思いから来ています。
(3) これを様々なカテゴリー、レベル、状況の問題に適用していく場合に、そのコンテクスチュアリゼーションにおいて踏むべきプロセスがあるのではないでしょうか?
教会として平和を造る始まりとしては、まずは祈り、神を賛美、礼拝する集会を設けることでしょう。これこそが私たちの持っている強力な霊的武器です。国の治安については、警官のために祈ることが必要でしょう。国防であれば自衛隊、在日米軍の方々のために祈ることが必要であり、また国の舵取りをしている為政者のために執り成し、感謝し、知恵が与えられるように祈ることでしょう。
イエス様が治安や自衛を否定されていたのか?否、ルカ22:36にあるように否定されていません。生活に必要なものは携行すべきで、剣もそれに含まれていました。しかし、熱心党員のように剣をもって当局に対抗するのか?否、それはイエス様は「それで十分(38節)」と言われたのであり、御心がなされるために戦うことを弟子たちに控えるように抑制されました。
このような慎み深さと知恵、そして常に自分たち教会は世界から見たら少数派であることをいつも忘れてはいけないと思います。(でないと、必ず教会の世俗化が起こります。)
(4) 例えば、ガンジーやキング牧師の主張や運動は、国内問題が主でした。それを、国家間・世界規模の外交・国際政治・安全保障・軍事・戦争にどこまで適用できるでしょうか?
ガンジーは未信者、聖書は読みましたが、道徳の本でした。キング牧師は、神にその時に与えられていた置かれた状況の中で実践していたと思いますが、彼は銃や武力そのものを否定していたのでは、決してありません。キング牧師は、六日戦争でイスラエルがアラブ諸国に戦った時に、中東における民主主義の飛び地としてイスラエルの行動を支持しました。
米政府がイラク戦争を起こした時に、教会が米国では支持の声が、また日本や他国では反対の声が起こりましたが、私自身は、「『ジェット機で高層ビルに突っ込む』という大量殺戮、尋常でない悪に対して、教会としてどう対応するのか、その衝撃があまりにも強く、当惑していた表れ」だと感じています。そこで反戦を掲げることが、聖書から来た平和主義の実現のように、到底思えませんでした。
むしろ、大きな霊的危機が始まりました。それは道徳の相対主義、聖書信仰の揺れ、人間主義や社会主義の再興が起こったのであり、今も進行しています。
私たちは安易に回答を与えるためにこの世に置かれているのではないと思います。むしろ、寄り添い、祈り、そしてその場その場において、主から知恵をいただき、言葉をかけていく必要があるでしょう。そして何よりも、福音こそが人を救い、癒す力があることをこれまで以上に確信することだと思います。
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以上ですが、今の日本のみならず、世界のキリスト教会に嫌な兆候があると感じています。これはできるならば避けたいことですが、しかし、真正面から取り組まなければならないのでしょう。それは「絶対的な悪」を目の当たりにする時、なぜか「その悪と協調する」という人間の異様な行動がある、ということです。
<絶対的、圧倒的悪>を直視できない人々
聖なる神は、私たちの「罪」の問題を直球で取り扱っておられます。これを取り除かなければならず、それゆえ極刑である十字架の上でご自身の子を付けるという暴力的な方法によって、この方の肉体から血を流し、生贄とされるという残酷さをもって、取り除かれました。これが悪に対する、神の対処法です。これが罪の赦しの神の最終解決法であり、もしこれを拒むのであれば、生ける神の怒りの御手の中に陥らなければなりません。
ゆえに、神は悪に対して報いを与えられる方です。人に与える苦しみ、加害に対して、その苦しみをもって裁かれます(2テサロニケ1章6節)。このことは、キリスト者であれば受け入れている、神のご性質でしょう。しかし問題は、終わりの日に近づくにつれ、その不法がますますはびこり、人間がここまで堕落しているのか?と思われる程の罪を犯していることを受け入れ難いとすることでしょう。
他人(ひと)の罪と悪を見ていくことは、同時に、潜在的、実存的に、自分の内に潜む罪の深さも見つめていくことになります。ある意味で、他人の悪は、自分の悪の一種の拡大鏡のような役割を果たします。したがって、それが直視できず、「自分はそこまで罪深い”はず”がない」という前提を掲げてしまい、内側で反発しています。それで、悪に対処することを放棄してしまいます。
外部に悪を設定する責任転換
そして、そのような悪を行なうのは、「なにか他に原因があるからだろう」として、その人がそうなってしまったであろう環境的要因を探そうとするのです。それが、「貧困の結果」であるとか、「家庭環境」であるとか、「遺伝的要因」であるとか、「差別構造」であるとか、いろいろあります。これらは二義的な要因としては、その通りなのです。そして、貧富の差や不正義については、為政者や管理者であれば真剣に受けとめなければいけないものですが、一義的には「罪」が原因なのです。しかし、それが受け入れられない。「人間そこまで悪くないだろう。」と思う。
そこで、そんなことをしてしまうのは、他の原因があって、その原因を作っている者たちがいるからだ、と責任転嫁させるのです。その代表的な思想が「マルクス主義」です。また「陰謀論」もそうです(注)。心理学にも多分にあります、「このような環境で育ったから、こうなっているのだ。」とか。医学にも、人の悪を病理としてのみ片づける傾向があります。こうやって、人間の諸問題を外部に求めることによって、本質的な問題に目を向けなくて良くするのです。
「進歩的左派」のもたらす「イスラム過激派」
典型的な例を紹介しましょう。
【オピニオン】イスラム過激派と進歩的左派の共通点とは
ジハーディ・ジョンは欧米の道徳的相対主義から生まれた
(コメント欄に文章を掲載させていただきます)
イスラム過激派の実行者の多くが、欧米の中流階級の出自であり、世俗的なムスリムだったけれども政治左派による体制批判を数多く聞いてきて、それでイスラム原理主義によって覚醒する、というものです。「彼らは米英やイスラエルの兵士たちの背信行為を伝える内容にあふれた報道に触れてきた。仮にイスラム主義が彼らの選んだ思想的な麻薬だとすれば、近代左派が政治について説いていることが彼らにとって、その入り口なのだ。」(記事からの引用)下の写真は、イスラエルに対して非常に厳しい批判をする米哲学者が、シーア派過激組織ヒズボラの指導者と友好関係を結んでいるものです。
これは実は、福音派のキリスト教指導者の中にも見受けられるものなのです。福音宣教の目的で人々に近づくのであれば、主ご自身がそうであったように、素晴らしいことです。そうではない目的で、近づいている人々がいます。以下のような写真も存在します。
英国教会の指導者スティーブ・サイザー(Stephen Sizer)という人ですが、イランの宗教指導者やイスラム過激派の指導者と友好な関係を持っていますが、それは、強硬な反イスラエル神学を提唱し続けているためであります。イスラエルが、パレスチナの悲劇の第一原因であり、またイスラム教徒の怒りの原因である。シオニズムこそが悪なのだ、とみなしています。
しかし、そんなに悪いことをしているのでしょうか?むしろ非難をしているのは、悪を行なっているものを処罰しようとしている、その行為ではないでしょうか?悪に対処している姿を取り上げて、その姿にこそ不法があると責め立てるのです。
凶悪犯がいて、その者に発砲した警官が、誤って近くにいる人を射殺してしまったとするでしょう。もちろん誤射は裁かれるべきですが、大前提として「その悪に対処する」行為そのものは法的また道義的責任であり、やらなければいけないことです。ところが、左派の人たちは先鋭化すればするほど、その行為さえも否定するようになります。そして徐々に「悪人への同情→共感→共闘」という、恐ろしい道を進みます。
関連記事:「神学的テロリズム」「「平和活動」対「キリストの平和」」
このような反イスラエル主義を唱える神学者や教役者は、欧米で影響力を持っており、それが日本の福音派の中にも底流として入り込んでいると言えるでしょう。「クリスチャン・シオニズム」に強硬な反対意見を述べている人は、決まってこの落とし穴に陥っています。
「平和」に潜む反キリスト的思想
次は、カトリック信者の歴史学者で沢田昭夫氏が書いたものです。
カトリック教会の左傾化
「君が代」反対から「沖縄米軍基地」反対 そして環境問題
(第一回 ・ 最終回)
全体をぜひ読んでいただきたいのですが、一部を引用します。「まことに瞠目に値する世界的コネクションとリンクを操るゴルバチョフ・ネットワークの裏にある哲学は、環境倫理、地球倫理、ひとことで言えば無神論的ヒューマニズムである。それが目指すのは、一つにはユダヤ・キリスト教の廃絶である。モーセの十戒に替わるとされる地球憲章の倫理は「地球を敬え」であり、Earthという文字は常に大文字で書かれている。神もキリストも教会も消し去られ、それに替わるものが地球と地球理事会ないし地球社会なのである。地球倫理で想起されるのは、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のイデオローグで、神学教授職を停止させられたH・キュング神父の「地球倫理」である。それはキリスト教であれアニミズムであれ、みな同じ救いの道だとする相対主義、折衷主義である。」
かつては暴力革命を目指した共産主義が、今は文化革命によって同じ目標に立っているという視点で、それが教会の中にも浸透しているという論考です。カトリック教会のみならず、プロテスタントも取り扱っています。
私は、キリスト者の社会活動、社会正義は存在するし、キリスト者こそが神の正義を体現できると思います。あらゆる社会不正義の是正の最前線に、キリスト者の存在がありました。けれども、このような社会活動の中で、巧妙に、いつの間にか人の心を獣化するというか、不正義に対する怒りを持って、その怒りは神に属するものであるはずなのに、自分自身の怒りとしてしまいます。そしてその慈善行為は神の愛、その礼拝に深く裏付けられたものであるのに、自分に属する行ないとなっていき、そうした逸脱に付け入って、神とキリストを退け、神無しで正義を体現できるとする、反キリスト的な、人間至上主義やマルクス主義が見事に入ってきます。
「人種差別反対」「反植民地主義」「反帝国主義」「エキュメニズム」「解放の神学 」「天皇制反対」「重債務貧困国の債務帳消し」そして「環境保護」などなど、それぞれの項目自体を否定するものでは決してありません。しかし非常に巧妙に、神とキリストを締め出す人間主義や共産主義が入り込んで、乗っ取られていく姿を見ます。
欧米の福音派の神学者や教役者で、その傾向を持っている人々は沢山います。そして、日本にもその教えは戦前から入り込んでおり、戦後七十年を経て、かなり浸透してしまいました。福音派の教役者や神学者が影響を受けてしまっていることに気づかず、初めに問題提起した、「家族を悪者から守る」というごく基本の自衛行為、抵抗までも、「復讐してはならない」として、悪者がその悪をしたいがままにさせるという「悪」を行なうのです。これが「道徳相対主義」の欺瞞であり、悪魔的な二重基準です。
関連記事:「日本キリスト者が試される9・11」
個人的趣向・思想が教会の規範となる時
政治について、個人的にある人が左派的な考えを持っていても、それは問題ではありません。例えばこの前の都知事選で、小池さんではなく、反原発、反安保法制だから鳥越さんに投票しました、というのは全然問題ではないのです。そうではなく、純粋な福音、神の国について、そこに自分の思想を多分に入れ込み、教会の教えにしてしまっている、というのが問題なのです。
私が、野球ファンで、巨人よりも楽天が好きとしましょう。そこで、「楽天こそが神の御心だ。楽天を応援すべきである。」とするならば、大笑いでしょう。冗談ですね、とみんな真面目に受けとめないと思います。でも、「原子力は神の御心ではありません。反原発運動こそが、神の国を建設する実践なのです。」などと言ったらどうでしょうか?お笑いでは済ませられません。
こういうことが「教会の左傾化」なのです。もちろん「教会の右傾化」もあります。「天皇陛下こそが、日本のリバイバルの鍵を持っておられる。」と言ったら、やばいですね。キリストご自身がリバイバルの鍵です。天皇を人間の王として敬うことは、聖書の命令だと私は考えていますが、それが霊的な事柄に関わる、キリストと摩り替えたら危険です。けれども、今の教会は全般的に、そうした右傾化よりも、左傾化のほうが気づかれないまま浸透しています。
関連記事:「全共闘・反動・日本の誇り」
聖書預言的に言えば、「世界宗教」「世界平和」「世界政府」という流れにぴったりと合致しており、獣の国への道筋となっています(黙示13章、17章)。
【オピニオン】イスラム過激派と進歩的左派の共通点とは
ジハーディ・ジョンは欧米の道徳的相対主義から生まれた
By BRET STEPHENS
2016 年 4 月 14 日 15:29 JST
筆者は数年前、ロンドンのヒースロー空港でイスラマバード行きの飛行機に搭乗するためラウンジで待っている間、イスラム教徒の男性3人と話したことがある。筆者がパキスタンに行くのはカシミールで起きた地震の爪あとについて取材するためだった。3人の目的は「慈善活動」というあいまいなものだった。彼らは白いサルワール・カミーズ(南アジアの民族衣装)に身を包み、サラフィスト(厳格なイスラム教徒)スタイルのヒゲをたくわえ、言葉にはロンドン南部の訛りがあった。
筆者は地震の話をしようとした。だが、彼らは政治の話をしたがった。マイケル・ムーア監督の「華氏911」を観たかと聞かれた。筆者はこの映画について意見するのは避けたが、彼らは率直にこれを称賛した。彼らにとって異国である「アメリカ」について、一人の米国人の視点から描かれたありのままの真実。権威と信ぴょう性が一体となった作品――。
筆者はこのときのやりとりを、イスラム教徒の過激化に関する話題が出ると必ず思い出す。欧米諸国の中流家庭に生まれ、それほど宗教色の濃くない環境で育ったイスラム教徒の若者がいかにジハード(聖戦)にのめり込んでいったのかを語る記事や論説は多い。後に通称「ジハーディ・ジョン」として知られることになったムハンマド・エムワジ容疑者は英ウエストミンスター大卒だった。米テキサス州フォートフッド陸軍基地で銃乱射事件を起こしたニダル・マリク・ハサン被告は精神科医。先月、ブリュッセルで自爆したナジム・ラシュラウィ容疑者はベルギー有数のルーバン・カトリック大学で電気工学を学んだ。ボストン・マラソン爆弾テロ事件のツァルナエフ兄弟しかり、カリフォルニア州サンバーナディーノ銃乱射事件で死亡したサイード・ファルーク容疑者もまたしかりだ。
例を挙げれば、枚挙にいとまがないほどだ。この多くの事例で、捜査当局はこうしたイスラム教徒が過激化していった原因を特定できている。ハサン被告は、アルカイダ系のイエメンにある組織「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)の指導者だったアンワル・アウラキ容疑者(死亡)と連絡を取り合っていた。ラシュラウィ容疑者はモレンビーク地区の宗教的指導者ハリド・ゼルカニ受刑者に魅せられていた。ツァルナエフ兄弟はAQAPが発行する英語のオンライン雑誌「インスパイア」に掲載された情報をもとに爆弾を作った。
だが、世界に広がるアウラキのような指導者の影響だけでは、こうしたジハーディスト(聖戦主義者)たちの思考回路を完全に説明することはできない。彼らは欧米諸国で生まれた息子たちでもある。多様な文化が混在する学校で教育を受け、米哲学者のノーム・チョムスキーや、おそらくアルジェリアの独立運動で指導的役割を果たした思想家フランツ・ファノンの著作を栄養にしたかもしれない。彼らは米英やイスラエルの兵士たちの背信行為を伝える内容にあふれた報道に触れてきた。仮にイスラム主義が彼らの選んだ思想的な麻薬だとすれば、近代左派が政治について説いていることが彼らにとって、その入り口なのだ。
「インスパイア」の最新号をみてみよう。時限式手りゅう弾の作り方を手順ごとに画像で説明した記事や、フランスの風刺週刊紙シャルリエブドの襲撃事件の分析記事などに混じって、米国の黒人への抑圧に関する長い記事が掲載されている。記事はミズーリ州ファーガソンで黒人少年が白人警官に射殺された事件の話で始まっている。2013年春号にはアルカイダのカシム・リミ司令官(当時)から「米国へのメッセージ」が掲載されている。この中でリミ司令官は「われわれの問題に干渉し、殺害や抑圧を行う暴君の代理人や追従者を誰であれ送り込むことは許されるのか?」と聞いている。
現在は最高指揮官になっているリミ司令官は「われわれの宗教、土地、国家にかまうな。自分たちの国内問題のことを心配しろ」と書いている。「お前たちは自分の経済を救済しろ。自分の心配事の面倒をみろ。今のお前たちより良くなるために」
これは征服を旗印に掲げてきたイスラム教徒の言葉ではない。進歩的左派の言葉だ。1984年の共和党全国大会において、政治学者で反共産主義者のジーン・カークパトリック教授が「米国をまず非難する群衆」と呼んだ人々の言葉である。この言葉は、欧米諸国は常に罪人であり、その他の世界は常に被害者であるという左派の見方と合致する。十年の戦争を経て新たなページを開くときの言葉であり、故郷での国造りに尽力しているときの言葉である。
過激な印象を受けるのは、それがテロリストの口から出ている言葉だからという理由以外にない。英紙ガーディアンの論説ページに掲載されていれば、多くの読者はうなずいて賛同するであろうし、否定的に肩をすくめる読者もいるだろう。だがいずれにしても大きな騒ぎにはならない。
1990年代初めにコラムニストで元同僚のトーマス・フランクは、既存の価値観や慣習に反抗するカウンターカルチャーのあらゆる信念を、いかに資本主義が商品化し、いつもの流通経路で分散させてしまうかを表現する賢いフレーズを思いついた。「反対意見のコモディティー(汎用品)化」だ。
「華氏911」は政治的なセンセーションだったかもしれないし、ロンドンのタワーハムレッツ地区出身の若く感受性の強いイスラム教徒には武装化のお告げでさえあったかもしれない。だが、ハリウッドにとって、この映画は興行収入2億2250万ドルのドル箱映画だった。アイデア勝負の市場で勝者になった。誰に文句が言えようか。
反対意見のコモディティー化は、あらゆる種類の過激な観念の影響を鈍らせる効果を持っているかもしれない。だがそれは過激主義に対するわれわれの感覚を鈍らせかねず、誰かが観念を行動に移したときに驚くことになるのだ。暴力によるカタルシス(精神の浄化)はフランツ・ファノンの著作「地に呪われたる者」のページに書かれてある興味深いアイデアのように思える。だが実践に移されれば、パリのコンサートホールで大勢の若い男女が凶弾に倒れることになるのだ。
われわれはイスラム教徒と欧米の関係について考えることに怠惰になっている。アルカイダやイスラム国(IS)が実践するイスラム教が「過激」なのか、もしくはただの伝統なのかは問題ではない。問題は、今日のジハーディ・ジョンの虚無主義が、欧米諸国でいま「標準の」宗教となっている道徳的相対主義の論理から生まれた派生物であることに欧米諸国が気付くかどうかなのだ。
(筆者のブレット・スティーブンスはWSJ論説室の副委員長)
(注)「陰謀論」について、以前ブログ記事でこの問題に取り組みました。
そして、これがアラブ社会やイスラム教の社会では、救い難いほど病的に蔓延していることは、池内恵著の次の書に詳しく書かれています。
関連記事「現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義」
9・11テロ後に出版された当時、池内氏は、影響力を持つイスラム研究者から、陰湿な虐めにあったことを最近、明かしています。陰謀論やオカルトが、イスラムの終末思想に混ぜ込まれて語られてる様子を本書は書いていますが、本当に彼らの一般社会では、これがまともに信じられているのです。この雰囲気が、西欧諸国やイスラエル、キリスト教に対する敵愾心や憎悪を駆り立てていることは、間違いないのです。
関連記事「オリンピックに見るアラブの病気」
そして、イスラム国にその結実があるのです。プロパガンダ英字雑誌である「ダビク」は、イスラム終末論と陰謀論に彩られたものとなっています。
そして次の記事で書きましたように、最近の障碍者多数殺人事件も、優生思想が基盤で大麻の使用は大きな原因でありながらも、確実に陰謀論とオカルトが触媒となって引き起こされた事件なのです。かつてのオウムの地下鉄サリン事件もキリスト者で反ユダヤ言説で有名な、宇野正美氏の文書を多数引用しつつ、永田町のユダヤ支配を信じてテロを決行しました。
関連記事「「相模原障害者施設殺傷事件」と私たち」
そして本題ですが、反シオニズムを強力に推し進めている英国教会の司祭スティーブ・サイザー氏ですが、彼は「9・11がイスラエルによって引き起こされた」という陰謀論を展開したために、イギリスで大変な問題になった人物でもあるのです。彼はそのため英国教会からSNSの発言を六か月禁止されました。このように、左派の思想を先鋭化させると陰謀論に急接近するという現象は、存在するのです。(もちろん右派が、陰謀論と接近することも多々あります。)
Church bans 9/11 Israel conspiracy priest from using social media
そして日本では、イスラエルやユダヤの関連については、大きな問題があり、「知識やとても豊富になっても、実際のイスラエルやユダヤ人に触れていないためか、生の空気を知らず、それで、とんでもなく空回りしている。」という問題があります。このことについては、次の本は必読と言ってもよいぐらいでしょう。イスラエルとユダヤを論じる時に、実は「自分の頭の推論、憶測、思想の整理をしているだけにしか過ぎない。」ということが起こっていないか、点検してみる必要があります。
関連記事「ユダヤ人陰謀説―日本の中の反ユダヤと親ユダヤ」