この前、ある方から「カルバリーチャペルは、JEAに所属されないんですか?」と尋ねられました。「そうですね、米国からのカルバリーチャペルの群れは、元々、組織化することに消極的で、そんな発想さえ浮かんでいない状態かもしれません。」と、ちょっとはにかんで、お答えしました。
JEAどころか、少し前までクリスチャンの情報ブックにも掲載することもあまり考えていなかった状況です。そして会員制もないので、転籍の手続きは相手側の必要に応じて行なわせていただいていますが、こちら側としては必要ありません。しかし、教会や教会間にある秩序は重視しています。その詳しい内容について、日本のカルバリーチャペルとしての会員制についての立場を、カルバリーチャペル西東京の牧師、山東さんがツイッターで書いておられます。それをまだ書きかけ中のようですが、全文をご紹介します。
※因みに、我々カルバリーチャペルが自己紹介すると、日本では「大和カルバリーチャペルですか?」と尋ねられますが、そうではありません。以下の記事に説明がございます。
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【教会籍】(メンバーシップという言い方もされます)
教会籍がもたらすメリットとデメリット。
洗礼を受けてクリスチャンとなり所属教会の礼拝に集い教会家族としての新しい歩みを始めることはとても自然であり、キリストの体なる教会(普遍教会)の一部(地域教会)に属することは大切です。
日本の多くの教会では「教会籍」という制度を持っています。この教会籍は教会の歴史の中で発生した制度で必ずしも聖書的ではありません。しかし、わが国の様な異教、異端の多い国では教会においても個人においても守りとなる制度でもあります。まず、本人がキリスト教による洗礼を受けクリスチャンとして群れに属していることを証明することで異端による洗礼者の混入を防ぎます。また、洗礼を受けた人の群れへの所属意識を助けることで聖書が進めている教会形成(エペソ人への手紙 4章1節〜16節)を担う働きにつき共に成長することができるからです。
一方、教会籍をもつことでのデメリットもあります。それは本来、神が召し、神が運び建て上げるキリストの体なる教会を人の管理によって運営しようとする傾向を助ける制度にしてしますことにあります。個人の管理、献金の管理、教会の政治や予算、組織運営がまるで自治会や政党団体のように人の力や人脈で動かされることです。会堂の建築、維持、組織の維持が教会にとっての大きな働きとなって本来の世の光、地の塩となる部分以上に各教会員の責任が人為的に追求されてしまうのです。
教会籍は聖書にはないが歴史の中で生まれた知恵であり文化です。
群への所属意識と信仰の成長、交流など助けとなることも多く、異端から群れを守りにもなります。しかし一方、それが人や組織を管理、運営するという方向で作用する時にこれは聖霊の働きではなく人力教会を作り、人間的な運営方法による教会を生みます。
教会籍が、組織の運営や管理に使われると本来は神が運ぶ教会をまるで人が運営するかのような錯覚を生みます。そのような流れに反対してわが国では『無教会派』が生まれます。これは内村鑑三などによって起こされたムーブメントで、既存の伝統的な教団教会が人間運営に陥って信仰がまるで「キリスト道」のように人に管理されていく事に対抗しました。
しかしまた、この「無教会運動」も聖書研究に重きを置きすぎて活けるキリストの体なる教会の姿とは異なる存在となったように思います。ヨーロッパなどからもブラザレン、メノナイト(再洗礼派)、クエーカーなど似たような群れは存在します。
さらに80年代以降米国などから入って来た教会(横文字の名前を持つ教会が多いように思われます)では教会籍を持たない群れも少なくありません。宣教師の事情で日曜の午後礼拝をしたり土曜礼拝をすることで、既に既存の教会に集う信徒を自分たちの礼拝に集わせて『聖書に教会籍などない、日本の教会はおかしい』という無知でもって、自分たちの群れやバイブルスタディーを進める人も少なくありません。
私たちも管理という意味では教会籍をもちませんが、この事が一部の教会から誤解され批判を受けることもあります。(うちの教会の名前も例に漏れず横文字ですから。)それは他教会に籍のある人を安易に礼拝に集わせ教会員を盗むかのような批判です。私たちの教会には教会員制度はありませんが、集う人たちには明確な所属意識はあります。戒規も愛をもって聖書的に厳格に行われています。
ある教会で戒規(除籍)された者を安易に受け取るようなことはしません。私たちも同じくキリストの体の一部として地域で共に活動してるので、近隣教会との交流を大切にしています。たんなる聖書を教える聖書塾のような集いが聖餐式だけどこかの教会で受けて来なさいなという発想は反対しています。(クリスチャンは全員、地域教会 ”=ローカルチャーチの訳です”に属する者であることは聖書にある通りです。エペソ人への手紙、1コリント人への手紙12章など。)
私たちの教会に教会員という制度はなくとも、一人ひとりは群れに対する明確な所属意識を有し、奉仕も献金も交流も管理されてではなく自発的にそしてさらに(御霊の働きによって)活発になされています。日曜日に礼拝に行くのがクリスチャンではなくて、所属する群れに集い互いの愛を実践し、共に祈り合い共に仕え合うキリストの体ですか。
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カルバリーチャペルについて
カルバリーチャペルについてのその他の情報としては、こちらの書籍が最適です。
「カルバリーチャペルの特徴」日本語訳PDF(チャック・スミス著)
※書籍の購入もできます。→ Gospel Light Storeなど
そして日本のカルバリーチャペルについて、どのような霊的流れで動いているのかを知るには、例年行なわれているカンファレンスのメッセージを聞かれると良いでしょう。
同感です。
以前私の知人が自宅を開放してハーベストの聖書フォーラム(塾)を始めるというので、応援の気持ちもあり出席したのですが。
帰りに複雑な気持ちになりました。
開所式にはリーダーがこの働きを家の教会にする方針を発表したのですが、そもそも他教会の信徒を集めて、牧師の承諾を得たかも確認せず、教会にするとはどういう意味なのか疑問に感じました。
その知人の教会の牧師と知り合い話したのですが、そのような働きを自宅でしていることについては、何の報告も聞いていないとのことでした。
ハーベストははっきりとディスペンセーションを打ち出し患難前携挙を主張しているので、聖書フォーラムに参加する他教会の信徒に影響を与え、当然のことながら教会の中に牧師に反対する信徒を生み出す結果が予測されます。
ハーベストが献身的な働きであることを認めるし、私も聖書フォーラムのイスラエル旅行で恵まれ刺激も受けたので悪くは言いたくないのですが、聖書フォーラムが
地域教会を尊重しない働きにならないように祈りたいですね。
Facebookで友達になっている、メノナイトの牧師の方から、この記事を読んで、メノナイトの位置の説明をコメントでいただきましたので、こちらにご紹介します。
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カルバリーチャペルの特徴について、わかりやすくうかがい知ることができて、感謝です。
ブラザレン、メノナイト、クエーカーの各派は、「歴史的平和協会」としてその教会(集会)のあり方も特徴的なものがあると思います。
ただし、日本の無教会派のあり方と多少似たように感じるところはあるかもしれませんが、同類として理解し、ヨーロッパとアジアとして並列的に見るのは少し違うかもしれません。
既成の教会(カトリック、プロテスタント正統派=国家教会)のあり方や、制度的な教会のあり方に異を唱えた点では、似ていると思います。
特に、メノナイト派(再洗礼派)は、明確な共同体(ゲマインデ・教会)の認識と帰属意識を持っていましたので、どちらかというとカルバリーチャペルの教会観と似ているのかもしれません。
よろしければ、「キリスト教の電子書籍」のサイトの幾つかの資料をご参考にしていただけますなら、感謝です。
・「宗教改革と初代教会の復元」
・「メノナイトの流れ」
http://piyo-bible.com/Piyo_Bible_Ministries/E-Books/E-Books.html
初めまして。
こちらを、拝見させていただき ありがたく思ってます。
この記事も、よく理解できましたし、励みになりました。
日本には、ミニストリーと呼ばれるものが少ないけど、ハーベストタイムミニストリーズもまたその1つですよね。
そこに集う私は、礼拝される方々によっては、いろいろ配慮され、集われていることを、部分的に知ってます。
人には 神からいただいたご計画がありますよね。外見だけで判断するのはいかがなものでしょうか。
各地域の 聖書フォーラムは (塾)では ございません。ローカルチャーチを否定するものでもないです。
ご理解をお願い致します。
ぽぽりんさん、
ハーベストタイム・ミニストリーズには、お世話になっております。すばらしい、聖書からのコンテンツを提供しておられますので、私もウェブサイトやブログで、紹介させていただいているものがあります。
私の紹介した文章、下線を引いた部分ですが、よく読んでいただければわかるのですが、ハーベストタイムを特定して指摘したものではありません。コメントをしてくださった他の方が、ハーベストタイムに適用しておられますが、私が書いたものではありません。
「聖書を教える聖書塾のような集いが聖餐式だけどこかの教会で受けて来なさいなという発想」
この部分のみであり、聖書塾という名前がハーベストタイム・ミニストリーズで使われているのでしょうが、これは元々、無教会主義の人々も使っているもので、広範囲に使われている用語です。そして、内村鑑三の無教会運動やハーベストタイムがそれに当てはまっても、その働きを全否定しているのではなく、我々、カルバリーチャペルは教会であるという区別をしているだけです。(しばしば、混同されるので。)
他にも、例えば「大和カルバリーチャペルと、私たちは違います。」と言っていますが、それも大和カルバリーチャペルの方々のことを否定しているのではなく、その教会の群れも主が立てられたものです。それとは違う流れ、団体であるという区別、混同を避けるために書いているものです。
以前明石さんがハーベストの提唱するディスペンセーション主義をとり上げておられたので、そのことを踏まえた記事であると考え投稿しました。
ハーベストタイムミニストリーズのサイトには「聖書塾」とありますので、
http://www.harvesttime.tv/seishojuku/
誤解であれば申し訳ありません。
しかし論点としては的はずれな内容でもないと思います。
簡単に言うと
良い志によって始まった超教派的な集会が特定の神学的主張を声高に主張し始めれば、そこに招かれて集った地域教会の信徒に当然影響があるということです。
ディスペンセーションや患難前携挙説に立たない地域教会にとっては、これは牧師の権威を脅かすものになる可能性は捨て切れません。
そのことをハーベストの聖書フォーラム立ち上げに立ち合った経験から感じたわけです。それを家の教会にするという趣旨書を読みましたので。
heavenさん、貴重なご意見、情報提供をありがとうございます!
とても良い記事がありました。
3 Reasons Your Small Group Is Not the Church
自分が他のクリスチャンと集まっている家庭集会のような、小さな集まりが、そのまま教会なのではないのだよ、ということです。そして、そのような小さな集まりに自分の安心や信仰の置き処としている人は、地域教会に集っても、どうしても、そこに主が立てられた秩序を乱してしまうことになります。
この順番と優先が、ものすごく大事です。「礼拝を中心とした教会あっての、他の集まり」であって、「ある集まりを中心にして、教会の礼拝でその足りない所を補う」ではないのです。聖餐にあずかるために教会に来た、というのはその典型で、本末転倒であります。
第一に地域教会が建てられています。そして、その教会にいろいろな小さな集まりがある、というのが理想です。聖日の礼拝こそが信仰生活の要であり、そしてその礼拝が豊かにされるための、諸処の学び会や集会であります。
そして超教派的な集まりも、意義のあることです。けれども、地域教会の礼拝が確立しているからこそ、その集まりにも命が流れます。
投稿に使っている「聖書塾」でありますが、グーグルで検索していただけると分かりますが、その言葉自体は、ハーベスト・タイム・ミニストリーズに限らず、無教会主義の流れを汲んでいるところでは今でも使われています。そして、「地域教会で聖餐にあずかる」というのは、無教会運動の流れにある通底の発想であると私は理解して、使っているつもりです。以前、次のような記事を書きました。
「“普遍教会”にある誤謬」