この社会実験、ものすごく示唆に富んでいます。
病院の待合室です。被験者は、アジア系の女性。ピーッというブザーの音が鳴ったら、他の全ての人が起立しています。何の目的か良く分かりません。そして、診察室に一人一人、呼ばれています。
そしてたった一人になっても、それでも彼女はやり続けます。
そして新しい患者が入ってきます。それで彼女はやり続けて、その男性に、「分からないけれども、他の人がやっているから」ということで、その男性も立ちます。それから他の新しい患者もやり始めます。最初は、変だなと思ってもやってしまうのです。
これを日本語で「同調圧力」って言いますね。これはこの世に蝕んでいる、おそろしい圧力です。その問題は「恐れ」です。他の人たちがやっているのに、自分だけやらなかったら、何か罰を受けるのではないか?ということです。そして、もう一つは、他の人と「違う」ということ、「他の人から見られてしまう、新奇な目で見られる」ということへの恐れです。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(1ヨハネ4:18)」
同調圧力の背後には、悪魔がいます。神は愛ですが、悪魔は私たちに罰せられるのではないかという恐れを与えます。神は各々をこよなく愛しておられますが、悪魔は「何か他の基準や規範、他の人たちがやっていることができなければ、あなたは価値がない」と教えます。
聖書は、神がこよなく人を愛しておられる姿があります。そしてその人への愛によって、他の人々にも愛と恵みが溢れるようにさせます。しかし、その愛を受け入れていないというところから、「自分自身で、ある基準に達しないといけない」と自分に言い聞かせます。それが、行ないによる義となっており、あまりにも心の奥底に浸透しているので、自分が神の恵み、信仰ではなく、行ないによって救いを達成しようとしているこそさえ分からないのです。
「変」になろう、「違ったこと」をしよう!
同調圧力は、教会の中でさえ、また牧師たちの中でさえ、キリスト教界の中でさえ存在します。尤もらしいことを言っている人が有名な人なら、このブザー音に意味もなく立ち上がるように、よく考えることもなく「正しいはずだ」として信じる姿。やめたいですね。
聖書に出てくる信仰の人、神の人はみな、変人でした。アブラハムは、ウルという偶像礼拝者のいる町で、父も偶像礼拝者なのに、天地創造の神に従い、まだ見えぬところに行きました。ダビデは、少年なのに、巨人ゴリヤテが神をののしったということで、怒りを持ち、彼に主の御名によって戦いました。サウルは彼に自分の鎧を着せましたが、それが「合わない」として着ませんでした。
私たちの主イエスご自身は、最も変人です。神が人となるということほど、同調圧力を無視する行為はないでしょう!神は神、人は人です。けれども、神が人の姿を取って、人々の間に住まわれました。
私たちがキリストにあって愚かな者になりましょう。他の人々と全く違うことを、キリストのゆえに敢えてしてみてよいかもしれません。恐れではなく、愛によって突き動かされ、御霊に導かれましょう。
「出る杭」は打たれます。けれども「出過ぎた杭」は放っておかれます!
アーメン。