ロゴス・クリスチャン・フェローシップとカルバリーチャペル西東京合同の、恒例とな「秋の修養会」を10月8‐10日に行ないました。場所は狭山市の智光山荘です。大きな智光山公園の中にあります。
西東京の教会の牧師、山東さんが作成した修養会の冊子は面白くて、上のイラストを表紙の一部とた本のような表紙になっていました。そこにいろいろな副題が書かれていますが、「聖書からではなく、聖書をそのまま伝える」「あなたは自分の教会をしっているか」「次の世代に本当に伝えるべきことは何か」”Knowing My Church”「自分の所属する教会を正しく知ることは他の教会を尊重することにも繋がる」など、書いてあります。
そして集会は、セッションが5つ、半ばに日曜礼拝があり、また朝に二回、デボーションの時を持ちました。以下がそのプログラムです(「主題メッセージ」から)。
2016年秋の修養会(カルバリー西東京&LCF) 10月8‐10日 「カルバリーDNA」 あなたは自分の教会を知っているか |
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修養会のテキスト(PDFファイル) | |||
紹介 | 音声 | ③「聖書について」 明石清正 |
音声 |
開会 | 音声 | ④「聖霊について」 山東克己 |
音声 |
①「教会について」 山東克己 |
音声 | デボーション「主語が神」 yoshiya |
音声 |
②「霊性について」 明石清正 |
音声 | ⑤「世の終わりについて」 明石清正 |
音声 |
デボーション「安息に留まる」 畑中達彦 |
音声 | 閉会 | 音声 |
礼拝「信仰の冒険」 山東克己 |
音声 |
「カルバリーチャペルの特徴」というチャック・スミス著の日本語訳があります。そこに書かれていることをまとめて、話していきました。けれども、山東さんも私も、祈りながら、日本という土壌でどのように主が教会を建てられるのか?ということを念頭に入れて、メッセージしました。そしてこの修養会の特徴は、ディスカッションをすることです。メッセージの後に話し合って、内容を深めます。とても活発な会話となっていて、短い時間では収まり切れなかったと思います。
それから、ゲームなど、交わりや交流の時もあり、カルバリーの二つの教会が仲良くなった良い機会でした。
私がそれぞれのセッションで強く記憶に残っているのを書き連ねます。
「教会について」
人力教会ではなく、神の聖霊によって導かれる、神によって建てられる教会。カルバリーの教会ではないクリスチャンからは、しばしばカルバリーについて説明を求められる時に「外枠」を尋ねられるが、私たちの求めているのは、いつも内枠、内実なので、とても説明しにくい。また、人の力ではないのでしばしば「軽い」という印象を持たれる。けれども、軽装であることはとても重要であり、神のなされていることなのだから、自分たちで頑張って維持してはいけない。
「霊性について」
イエス様が中心であること、神によることが強調されるので、人間的には自分が否定されている、自分が認められないという「冷たさ」を感じる。しかし、自分に対して死んでいるからこそ神の恵みが働いている。そして教会では、「黒い背景に輝くダイヤモンドのような輝き(=恵み)」ではなく、ただ「きれいな教会」になりがちだ。
「安息に留まる」(朝のデボーション)
2歴代14章のアサ王の話から。十年の安息の内の戦いですが、私たちは「主よ、なぜ安息を壊すのですか?」と、自分たちの願っていることを主に訴えがち。しかしアサ王のように、たえず主ご自身を求めるところに安息がある。
「信仰の冒険」(日曜礼拝)
「どうやったら、上手くいくのか?」という哲学は、当時の教会の異端、ユダヤ主義に通じる。私たちの信仰は、あくまでも神のご計画の中に自分たちが関わるためのものであり、それは人間的な成功とは裏腹にさえなることがある。2列王の、サマリヤにおける四人のらい病人、2歴代のアサ王の信仰と晩年の人的操作、1サムエルのヨナタンの信仰という、三つの重要な信仰のステップを見ました。
「聖書について」
聖書全体を順番に読んでいくことは、実は教会で行われていたこと。そしてそれはユダヤ人の信仰継承の方法でもあった。そして聖書を神の言葉を信じていることによって、外枠にしかすぎない神学体系は二義的なものであることも知ることができ、バランスを持てる。ディスカッションでは、神のご計画全体を知ることによって、神概念が変わるとのこと。神が主権者であり、「私たちのための神ではなく、神のための私たち」なのだ、ということ。
「聖霊について」
聖霊のバプテスマは、新生体験とは別であることを確認。御霊の実を肉でやることは大変である。どんなことが御霊を消すのか?(1テサ5:19)①人が自分をどう見ているか?という文化、②Noと言わない、あいまいにする文化、③人間関係や情がある。しかし、私たちは神の国の文化に生きる。その他、ディスカッションではテーブル毎に共通して、「忙しさ」が挙げられていました。
「神が主語」(朝のデボーション)
ガラテヤ1章1‐5節から、そこのキリストの働きがみな「神が主語」になっている。肩こりに対して、マッサージを私たちは求めるが、時にとても痛い「整体」が根本治療であるように、神ご自身を中心にした働きを受け入れることは根本治療であり、私たちはとかく、マッサージを求めてしまう。「マッサージ・クリスチャン」か、あるいは「整体クリスチャン」か?
「世の終わりについて」
私たちは、患難前携挙、千年期前再臨を信じているが、この話をすると、たちまちキリスト教会では神学論争に巻き込まれる。しかし、携挙はとても単純な、そして本質的なクリスチャンの希望。私たちはしばしば、「今、苦しいから主が早く来てほしい」「家族が救われていないから、まだ来てほしくない」と自己中心になってしまう。私たちはいつまでも主に対して僕である。
そして最後に、アフターグロー(聖霊の賜物を用いる集会、主に触れられる癒しと慰めを得る時)を持ちました。
写真(リンク先をクリック):
セッション前のゲーム(リンク)
食事の様子(リンク)
日曜礼拝の前(リンク)
朝の屋外デボーション(リンク)
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