聖書の権威を巧妙に捨てていっている方法について、D.A.カーソン教授が語っています。英語が少し難しかったのですが、以下にまとめがありました。
D.A. Carson’s “Subtle Ways to Abandon the Authority of Scripture”
1.聖書を権威をもって教えている「福音派」とされている教会であっても、「これは、かなり否定的に聞こえる表現だ」というものであったり、「これを語れば、賛否両論が出てしまう」とか恐れたりして、敢えて語らないという傾向があるとのこと。例えば、癒しや異言など、聖霊の賜物の現代の有用性について。
私は、今の新改訳第三版の翻訳に大いに不満な部分がありますが、「らい病」の訳語を変えたその動機、また「(ユダヤ人の)捕われ人を帰す」がなぜか全て、「繁栄を元通りにする」とか、聖書翻訳の中にさえ、その書かれてある部分をぼかしています。聖書を教えている時は尚更です。(出版社のサイト)
2.語るのがちょっと気まずい箇所を目の前にすると、ごまかす。例えば、地獄について、「私は地獄を語るのは嫌なのだけれども、けれども聖書が言っているから。」と言って、いかにも自分が憐れみ深い、神よりも憐れみ深いものであるかのように語ることも、指摘しています。これは耳が痛い、「地獄をまっすぐに語りながら、なおのこと憐れみ深い神であることを説かないといけないのに、と思います。
3.そして、聖書ではっきりと罪と言っているのに、それを巧妙に正当化させている、とか。聖書には、いろいろ賛否両論の分かれる事柄があります。ですから、「本質的ではないところでは、多様性を」という言葉にあるように、寛容でなければなりません。解釈が何通りもある難解な箇所もあります。けれども、同性愛についてはどうでしょうか?聖書の始めから終わりまで、一貫して罪であると断じているのに、そうした「本質的でないこと」と同列に置く傾向がある、とのことです。
4.そして、聖書がはっきりと宣言していることについて、論争を避けるためだけに「これは分からない」とすること。これを、「傲慢な無知」という言葉をカーソン氏は使っています。普通、「知らない」というのは謙虚の現れですが、聖書にあることを知らないとすることこそ、神の前で傲慢だということです。
私はこれを聞いて、「黙示録」など預言書の解釈を思い出しました。イエス様がすぐにでも来られるという宣言はあまりにも膨大にたくさんあるのに、「分からない」と言ってしまうこと。これは聖書に対する極めて不誠実なことだと感じます。
その他にもいろいろありますが、巧妙に聖書の権威を引き下げている点をさらに挙げています。
明日は、東十条バイブルスタディで黙示録2章、スミルナの教会とペルガモの教会を見ていくと思います。「ペルガモの教会」は、とても時宜にかなっていると思いました。ものすごい異教文化の圧迫の中で、その不品行や偶像礼拝に妥協するバラムの教え、しかも、いかにも高尚で、知的で、寛容で、霊的に見せるエリート的な「ニコライ派」の形で妥協していく、けれどもイエス様が、鋭い剣(御言葉)で戦われる、という流れがあり、この巧妙さを語ってくださったような気がします。
https://youtu.be/yBUqWjMOnXU