「働くことの意味」ロイド・ジョンズ著

働くことの意味―エペソ6・5-9講解

今日一日、D.M.ロイドジョンズ著によるこの本を一気に読みました。来月、カルバリーチャペルの若者に、20代対象のキャンプに招かれていて、テーマが「社会に仕える」になっているからです。ダニエル書にある、ダニエルがバビロン政府の役人として主に仕えたところから話そうと思っているのですが、しっかりとした聖書観を持っている説教者ロイド・ジョンズから、基本的な、健全な労働の知識を得たいと思いました。

結論から話しますと、労働というのはとても分かり易く、簡単に考えると、「主に仕える」に尽きるということです。それが奴隷のような位置にいても、主人のような地位にいても、全く差別なく、主を畏れかしこみ、キリストに対して従うように従う、ということ。教会における自分の立ち位置と、社会における霊的な立ち位置は全く同じだということです。

思えば、去年の20代キャンプは結婚について話したのですが、同じことを話したような気がします。キリストと教会の関係がそのまま夫婦関係に当てはまるのだから、難しく考える必要はないし、複雑にして思い煩いを増やしてはいけない、ということだったと思います。

第一章の「神のもの」においては、奴隷に対してパウロが勧めを成しているけれども、その「奴隷制度」そのもののを変えようとしていないこと、むしろ、その社会制度の中にいながら、主と自分との関係を考えていくこと、であります。

イエス様は、納税をすることは律法に適っているかどうかを尋ねられた時に、「カイザルはカイザルに」と言われ、カイザルによる人の制度に従うことを言いつつも、第一に、「神のものは神のものに返しなさい」と言われました。つまり、主と自分との関係が第一に来るのであり、すなわち奴隷は奴隷の中でその関係を模索すべきだということです。奴隷制度は悪いに決まっていると、決めつけるところに合理主義が入り込んでおり、教会に与えられた召命に応えていないとしています。

そして、どこに属しているのかを明確にしています。「天」に属しているということ。ですから、奴隷とか主人とか、そういった立場や労働は過渡的なものであり、いつか過ぎ去るものであるという認識です。その永遠の報いに向かって進んでいる時に、地上において主に仕えているその忠実さに対して、主が報いてくださるのですから、あくまでの将来の準備のためであり、身軽に考える必要があります。

第二章の「キリスト者の優先順位」については、教会の第一の使命は魂の救いであり、伝道であるから、その他の社会制度などの事柄に対して、ことさらに反対したり、あるいはその反対に全く関わらず、世捨て人のようになることも間違っているということです。

例えば、ロイド・ジョンズの時代は、英国で共産主義の脅威があり、それで教会が反共について多くを語りましたが、彼は強く共産主義に反対しなかったそうです。なぜなら、共産主義者にも福音を聞いてほしいから、主に対して獲得したいからだそうです。これはまさに、日本の教会であれば、反原発を強く言わない、戦争反対を強く言わない、ということになるでしょう。

けれども、大目に見ることでもありません。つまり、その制度を教会が権威づけ、補強することでもありません。そうではなく、新生した人々が、その思いが新たにされて、それで社会の中でも変革をもたらすものだからです。社会変革に教会が従事したのではありません。

第三章の「この世の聖徒たち」は、本当に主に従うことについて、それをやめさせるようなことを主人から命じられるのであれば、それは死んでも信仰を死守するのであり、ローマ時代の聖徒たちは「カエザルが主である」ということは言えないとして、ライオンに喰い殺されたり、火あぶりになったということ。

けれども、ローマに立ち向かうようには一切、命じられていなかったということ。むしろ、そこに不条理に見えるようなことがあっても、基本的に全て従っていたということと。もし立ち向かっていたら、ローマが根絶していました。しかし、彼らはしなかった。多くの迫害を受けたけれども、コンスタンチヌス自身が信仰を持ったのは、キリスト者が腐敗したローマ社会の中で誠実に生きていたのであり、社会にとって必要な存在であるという肯定的側面がきっかけになっていたことを挙げています。

これは、もろ、今の日本の教会が改憲反対、靖国反対、そういったことをしていることがお門違いであることが明らかにされています。反対に、中国の家の教会がなぜこれだけ広がり、政府からも黙認されているかと言えば、彼らは反体制運動をしないし、説教でも語らないから、と言えるでしょう。しかしあまりにも腐敗した社会において、キリスト教会は必要不可欠な存在であることを、否が応でも認めざるをえなくなっているからです。

第四章の「キリストの奴隷」は、実践的です。この世において、奴隷が主人の命令の中で動かなければいけないように、一人一人は組織の中で動いています。ですから、真っ向から主の命令に違反することを命じられるのではい限り、その組織に忠実であることを教えています。

これは、キリスト者の若者には、ぜひ知ってほしいことですね。労働というものを、妙に、キリスト教的に彩ることはやめたほうがいいと感じています。イエス様が人の姿を取られて、徹底して仕えられたように、いかにその組織が非キリスト教的に自分によって見えようとも、無関係のように見えようとも、そこで主に仕えるのであり、変な教会的活動を持ち込まないということです。

私の若い時の愚かな行動を思い出します。水曜日の祈祷会に出たいから、早退させてほしいと上司に言った事を思い出しました。「組織で動いているのだから・・」と後で注意されましたが、いくら教会のことであっても、それでは証しになりません。そこで誠実に働き、それが主に仕えることそのものであり、そしてそれこそが、主の証しを上司にも、同僚にも立てているということですね。

そして第五章は、「私たちの天の主人」ということで、ロイド・ジョンズは上手に説明していて、これまでの奴隷として主に仕えるのとまったく同じ原則で、主人も主に仕えること、天に主人がおられるのだから、主を畏れかしこんで、奴隷に対してふるまいなさいと使徒パウロが命じているとのことです。

ところで、フェイスブック友達で、あるキリスト教の学生団体の主事だった方が、次の記事を紹介しておられたのが印象的でした。

入社1、2年は「良き社畜」として騙され続けよ。で、最後に1回だけ裏切ればいい
人気ブロガー 藤沢数希

変化球のような題名ですね、しかし、これが「主人に仕える」という意味の現代版のなのかもしれません。本書を読んで、「当時の奴隷は、社畜より苛酷だっただろうな。けれども、その中でパウロが、キリストに従っているように主人に従えって、言ったんだよな。」と思いました。

「「働くことの意味」ロイド・ジョンズ著」への7件のフィードバック

  1. 良い言葉ですね。「聖書に見る労働とは?」から:
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    KGKのOB会である牧師先生がメッセージされたことが思い起こされる。「KGK出身の卒業生は、会社においてこの世との衝突に悩まされ、2・3年もせずして職を変える人が多いように思う。しかし、そのうちの多くは、若者が自らをきよく保とうとし過ぎたからではないかと思う。」

    よく考えれば、どんな職業でも、人間の罪とかかわったところがある。たしかに罪を指摘し、祈ることは大切であるが、上司や同僚たちを糾弾して、自らだけがきよくなることだけを追い求めるとき、結局はその職を辞してしまうしかなくなり、神様が「彼」を用いて地道な証しをするためにその会社に送り込んだご計画は水泡に帰してしまう。泥水に流されろと言うわけではないが、上司や同僚たちと同じくその泥水を飲みながらも、祈り、証しを続けてゆくとき、信頼関係が醸成され、時が来て、神の御心がなってゆく。その希望に生きることこそ、本当の労働の意義を体現することができたときだと言えるかも知れない。
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  2. こちらは、知人の方の、記事読後の個人的な証しです。

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    ・・ブログ拝読しながら自分と照らし合わせていました。

    私事になってしまいますが、牧師家庭の長男として生まれ、周囲から「牧師になる」と思われ、その期待を見事に裏切り社会に出ました。サラリーマンとして社会に踏み出したのですが、「聖書の善(正義)」を教え込まれていた私は、「社会の矛盾や不条理」に対する免疫がなく、日本特有の「本音とたてまえ」の文化に悩まされました。私が牧師家庭で育ってきた環境と社会とのギャップの大きさに打ちのめされ、「信仰生活」が苦しくなり、放蕩生活が始まったのです。それでも身体に染みついたもののせいでしょうか、事ある毎に「それって間違ってるのではないか?」と上司に噛みついていたものです。
    やがて時が過ぎ、その「不条理な社会」が「私が生きている(生きなければいけない)社会」であることを受け入れられるようになりました。

    「何を言っても変わらない」のであれば、「変えられる立場になるまで、トコトン仕えて行き、信仰者云々ではなく ”社会人(職業人)” として認められ、その立場を獲得した暁には、私が変えるべきことを変えて行こう」と決心しました。矛盾や不条理に対する「不平不満」を封印し、ひたすら与えられた職務に没頭しました。周囲の私を見る目が変わっていくのを感じました。1年ほどで責任ある立場を任されるようになり、そこから職場内における小さな改革が始まりました。今まで微動だにしなかったことが変わり始めたのです。その時感じました。

    キリスト者は聖書の中から「正義」を語ります。しかし、キリスト者が語る正義は一般社会においては「机上の空論」と化してしまうのです。だからこそキリスト者は、一般社会の中において「正義」を語るのであれば、「人から認められる人間」とならなければならないのです。

    歳を重ねるごとに、「職場内」という狭い世界しか見ていなかった私が、少しずつ外の世界を観るようになりました。社会の矛盾や不条理に疑問が広がりました。社会の中にある「矛盾や不条理」を「社会のせい」にしていました。その頃の私は政治に全く興味はなかったのですが、今思えば完全に「リベラル」だったと思います。社会に対する「不平不満の多い日々」が続きました。

    やがて、社会が変わらないのであれば、せめて「変わらない社会の中で、自分にできることで少しでも理想的な環境を築けるのであれば挑戦してみよう」と考えるようになりました。そしてあれからもうすぐ20年近くになります。社会を変えられるほどの力はないが、自分の最も近くにおられる「困っている方々」に対して、ニーズを掘り起こし「不条理な社会の中にある様々な社会資源」を活用しながら、そのニーズに応えて行くことに生涯をかけています。

    「献身」という言葉は、牧師や伝道者になるときに使われますが、本来は「神様に身を献げること」であり、神を信じ受け入れた時点で皆「献身」していると言えます。「牧師や宣教師としての道」もしくは「社会人としての道」の違いだけであり、牧師や宣教師は「専門書」を通じて神学を学び「実践する方法」を信徒に解き明かしますが、「社会人としての道」に歩み始めた者は、「社会経験」の中から神学を学ぶと同時に「実践」しているのです。つまり「牧師や宣教師への道」はいわゆる「Off-JT(Off the Job Training」であると仮定する時、「社会への道」は「OJT(On-the-Job Training)」なのです。つまり「労働」そのものが「神学の学びであり実践」であるという意識を持つようになると、目の前で起こる様々な「矛盾や不条理」が理解できるようになり、動じることなく対処が可能となるのです。

    半世紀近く生きてきて、ようやくそのことに気付き始めました。もっと早く気づいてればなあ!「苦しみ」も半減していたと思います。

  3. もう一人の知人の方の、記事読後のお証しです。

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    私は帰国してすぐキリスト教立の学校を立ち上げ、スタッフは皆クリスチャンでしたので、セキュラーの環境で働いたことがありませんでした。震災で避難し商業主義の英会話学校で教えていた時、初めて職場でのイジメを体験しました。イエスを証する者としてどのように仕えていくか、自分を無にして献げていくか非常に悩みましたが、我慢がならず結局正しさを叩きつけて、本社を巻き込んで部長がその人をいざなって私に謝罪に来るという大ごとになってしまいました。その後案の定イジメは悪化して、私は1年で退職。そのマネージャーもその後降格になり、結局退社…あの時の自分の行動を今では悔いています。心のどこかでセキュラーの仕事を見下して、ということはそのマネージャーを見下して、それが鼻についたのでは…と。

    記事にもありましたが、この世は単なる準備期間であり、本番は輝く御国での幸福な永遠だと私も思っていたはずなのに、召しを感じてひたすらがんばっていた震災前の仕事を取り上げられたことで、その希望から目が塞がれてしまいました。主が無条件に下さったその希望を、私が自分で条件付きのものに変えていたのだと気付き、悔い改めました。仕事とは、証し人として送られて行く場所でまさしく「仕える事」ですね。

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