昨日、「舟の右側」2017年3月号をキリスト教書店で購入しました。ここの表紙に大きく紹介されている三つの記事に興味を持ったからです。一つは、「ミッション・スクールの使命に生きる」ということで、元KGK主事の安藤理恵子玉川聖学院学院長の証しです。私が大学生の時、KGKに関わっていた時に、安藤主事もおられたので、その記事を読み、懐かしく思い出しました。
そして、二つの特別寄稿があります。これが大きな目当てでした。一つは、「『沈黙』をヨシュア記の視点から読む」(牧師 高橋秀典氏)であり、フェイスブックで当映画についての批評や感想を、たくさん互いに分かち合い、有意義でした。すでに、ブログにてこの記事の元となっている説教の要約を紹介させていただいています。⇒「『恐れ』を恐れよ」
もう一つの寄稿について議論したいと思います。「国家と国家主義 「教会と国家」を聖書から見る(1)」(牧師 水草修治氏)です。最近、フェイスブックのページにてご本人と意見交換をさせていただきました。次の論考に似た内容になっております。
自分の「国の見方」の変遷
上の論考、また雑誌の記事を読み、自分が聖書から読む国家観と似ていると思いました。特に、かつて自分が「聖書預言の旅」を書いた時に、天皇制の問題にも言及したように、以前は同じような国家観を持っていました。説教の中でも、折に触れて、国家主義に対する危機意識に言及していました。
しかし、その後、海外宣教に五年間ぐらい行っていました。そこは、日本とは体制の違う、いわゆる「信教の自由が制限されている」所でありました。その中で、自分の世界観が大きく変えられました。初めは、その国に入ることさえ嫌がっていたほどでした。国の意向でそこにいる人々がいかようにでもされてしまうようなところです。しかし、二年ぐらい経つと非常に好きになりました。もう帰りたくないと思ったほどです。しかし、主に日本に戻ることを促され、六年前に戻ってきました。その時は、以前あったような、日本に対する冷めた目、嫌だなあと思った部分、そういったものが消えて、日本のことが本当に好きになれました。ですから、その国も、また我が国もどちらも愛している自分を発見します。キリストの御業だと思います。
「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3:16)」
それから、東アジア青年キリスト者大会において、それぞれの国の指導者のために祈る時が与えられ、私の思いが変わっていたのを覚えています。その時の思いを言い表したのが、次のブログです。
以前、私は、天皇制には反キリスト性があるので、それを監視して、神格化の動きや兆しがあるならば、それをすぐに訴えて指摘すべき、という立場を取っていました。けれども、ペテロ第一2章13‐17節を読めば、自分のその態度と使徒と異なることに気づきました。もう既に神格化されていることを知っていながらにして、それでも「王を尊びなさい」と命じているのです。確信犯的に、「尊びなさい」と言っています。そして、それは「人の立てた全ての制度に、主のゆえに従いなさい」と言って、暗に彼が神ではなく、人であることを告げた後で、「神を恐れ、王を尊びなさい」と命じています。自分がその政策を支持しているかどうかに関わらず、神によって立てられたという理由だけで、その指導者を敬い、執り成し、願い、祈りを捧げることがキリスト者の務めであることを知ったのです。それは、実に相手が自分に敵対しているということを知りながらも、それでも愛し、祈り、祝福しなさいというイエス様の命令につながるものです。
参照メッセージ:ペテロ第一2章11‐25節(音声 ・ 原稿)
それでは、本題の「国家と国家主義 「教会と国家」を聖書から見る(1)」に書かれていることについて、論じたいと思います。
終わりの日は、「国家主義」以上の「世界政府化」
筆者は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という使徒信条の文言には、キリストと国家、教会と国家の難しい関係を示していることを述べておられます。そして再臨が近づく産みの苦しみの中で、「民族は、民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と主が予告されています。そこで、「民族主義・国家主義が勃興するとき、私たちはサタンがどのように国家権力を操り、神の民を惑わすのか、その策略を見抜く力を備えておくことが必要です。」とあります。
確かに、終わりの日には、民族主義や国家主義が勃興するのが産みの苦しみの始まりです。筆者も後で述べておられるように、近代以降、二つの世界大戦に代表されるように、国家主義や民族主義が人間の歴史の中でこれまで以上に顕著に現れたことはありません。しかし、それはあくまでも「産みの苦しみの初め(マタイ24:8)」にしか過ぎないのです。私たちの主が、最も弟子たちに注目させたのは、それよりも、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば(15節)」にあります。
荒らす憎むべき者とは、誰でしょうか?ダニエル書7章、8章、9章、11章の終わりに出て来る、世界を荒らす反キリストのことです。反キリストの特徴は、単なる国家の神格化ではありません。7章23‐25節にこうあります。
「第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」
見てのとおり、この獣から出た小さな角、荒らす忌むべき者は、「ほかのすべての国」と異なります。そして、国のみならず「全土」を食い尽くします。その彼が、「いと高き方に逆らうことばを吐」く、すなわち自分こそが拝まれるべき神であるとし、「時と法則を変えようと」します。この預言は、さらに詳しく、黙示録13章で読むことができます。獣の国です。これは、単なる国家の神格化ではありません。これまでの国家主義を超えてしまったところの超国家主義であり、「世界統一政府」です。総統の地位につき、それによって世界の平和を築いたかに見せ、そこから一気に、突如としての破壊をもたらします。筆者は、文章の最後に黙示録13章を取り上げておられますが、これは、国家主義というよりも、そこは「獣を神格化した世界政府」の姿であります。
ですから、イエス様のオリーブ山での終わりの日の預言に沿えば、国と国が対立する時代を経て、次にそれらを緩やかにまとめる世界化が進んでいく中で、一気に自分を神としてまとめあげる世界総統が出て来る、ということでしょう。近代の歴史では、ヒトラーがそれに近い人物でありましたが、そこにまで至っていませんでした。日本の東条内閣は言わずもがな、であります。
むしろ、国家主義を経験した日本、また世界の国々にいる者たちが次に経験したのは、世界連合化であります。国と国、民族と民族が対立していく中で、その間に秩序をもたせるための体制が、戦後の努力であったでしょう。しかし、それがかえって人々に惑わしを与えました。国と国の対立があるから、世界の民となろうという動き、国際共産主義が人々を次に惑わしました。どれだけの人が死んでいってしまったことでしょうか。人には、やはり国という意識がある、民という意識があり、それは神から賦与された賜物です(後述で説明します。)国家主義に対抗するようにして出て来た世界主義は、大きな欺瞞となり人々を破壊しました。
しかし、その国際主義も鉄のカーテンの崩壊によって、瓦解しました。しかし亡霊はただよっていました。共産主義だけでなく、新たなる地球化が起こりました。グローバリズムです。人と人をつなぎ、国と国をつなぎ、その緩やかなつながりは、まさにダニエル書2章で、反キリストが出現する前の状態として描かれています。
「その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。(2:42-43)」
したがって、終わりの日に起こることは、単なる国家主義の勃興ではありません。ことはもっと複雑です。近現代で二大超大国である米英が、一国主義の道をたどっています。そして欧州の極右政党など民族主義が勃興していますが、それは上のグローバル化への対抗とも呼べる運動であり、単なる国家主義だとして警戒で終わらせてはいけない現象です。しかし、このような動きや不安定化に対して、人々の不安は次第に増えてきて、一挙に世界化が進む時が来ることでしょう。
「国」と「民」を愛される神
筆者の論点は、まず「国家は神のしもべだが、神聖ではない」というものです。ローマ13章1‐6節を挙げ、国に神の与えられた世俗的主権を認める必要性を説いた後に、しかし国というのは、ノアの時代の洪水後、人間の堕落後に与えられたものであることを、創世記9章5‐6節の、「人の血を流す者は、人によって、地を流される。」とあるように、「堕落後にやむなく立てられたもの」と位置付けています。本来は、アダムが罪を犯す前に神が立てられた制度は、「安息日礼拝と家庭と仕事」の三つであったと述べています。
確かに、神は国家に対して、その消極的な働きを求めておられると思います。ローマ13章にあるように、一つは、社会秩序です。剣が与えられているように、悪を行なう者に制裁をすることによって、悪を抑制する働きがあります。もう一つは、納税することであり、富の分配です。機能的なこの二つの働きが基本です。ですから、国家を神聖化するということは、確かに神の御心に反しています。筆者も例に挙げておりますが、ネブカデネザルの金の像しかり、ローマ帝国の皇帝崇拝しかり、フランス革命の指導者が教会に理性の女神を拝ませたり、スターリン、毛沢東、金日成、ポルポトたちの共産主義による思想統制にも、指導者を拝ませる体制がありました。国家神道もその一つだと言えるでしょう。
しかし、神は「国」を愛され、「民」を愛されています。
民族が生まれ、国々が生まれたのは、洪水後の、ノアの家族からです。その子孫がバベルの塔を建てたゆえに、神が言葉をばらばらにされ、それで民族と国語が分かれ出ました。そして神は、アブラハムから新しい国民イスラエルを造ることをお決めになりました。そして、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世12:3)」と言われました。民族という単位の中で、主は祝福することをお決めになりました。
それで、イエス様の大宣教命令においても、「すべての国民を弟子にしなさい」と命じられます。国々、民族の単位の中で、主は福音を伝えるように語られているのです。それは、終わりの日を預言する黙示録でも同じであり(5:9、7:9)、国々や諸民族を単位に、それらに福音が広がるように神は願っておられるのです。
そしてバビロンも、ローマも、そこにいた神の人たちは、その”国家主義”が際立っていた国々で、それに対抗するのではなく、むしろ、その立てられた指導者を敬い、従い、執り成していました。そして、偶像礼拝を強いられた時に、敢えて抵抗のために抵抗したのではなく、ただ信仰の表明として静かに神への礼拝を選びました。国が神格化している時であっても、それでも態度は変わることなく、神の愛をもって福音を語っていたのです。日本がたとえ再び、国家主義に傾いたとしても、私たちも同じ姿勢であるべきでしょう。変わりなく、神が愛しておられること、そして福音を伝えることでありましょう。むしろ、そのような時期だからこそ、敵をも愛するキリストのお姿を証しすべきで、ダニエルがネブカデネザルを敬ったように、日本でも、右派団体にキリスト者がど真ん中にいてほしい、そして福音をもって届いてほしいと切に願います。
「神の国」にも残っている「国々」
そして大事なのは、バベルの塔によって民に分かれ出たのでありますが、神はご自分の国を立てられる時に、国々を消してしまわれるのではなく、それを残しておられることを知ることは大事です。筆者は、国家における悪魔の策略に目を留めるようにされていますが、神は、国そのものを否定されることなく、むしろキリストの王権に国々が従うようにされます。
「この方は、鉄の杖をもって彼ら(諸国の民)を牧される。(黙示19:15)」
「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。 (21:24)」
このように千年間のキリストの統治であっても、新天新地の新しいエルサレムにおいても、国々や王たちは存続しており、その区別や多様性は残されたままであることが分かります。このように、神は国というもの、民というものを優しく受けとめておられるのであり、ユートピアの理想としてしばしば描かれる「国家の消滅」のようなことは起こりません。であれば、キリスト者も自国や自民族に対して、神と同じような優しさ、憐れみを持つべきでありましょう。
「愛国心」は近代だけの特異現象?
そして筆者は、「愛国心は特異な歴史現象」であるとしています。本記事に出て来る近代国家における国民国家の歴史的経緯の説明は、その通りだと思います。私たちが普段、「国民意識」として抱いているのは、明治維新に始まった「国民国家」があったからだということは、他の国々に行ってよく分かりました。例えば、聖地旅行の時に、東エルサレムの住民についての説明を受けました。すなわちオリーブ山辺りに住むアラブ人は、オスマン・トルコの支配から英国統治に、それから独立戦争によって、トランス・ヨルダンに、それから六日戦争によってイスラエルの主権下に入りました。けれども、そこの住民は変わっていません。このような時に、「一定の国境線に囲まれた地域の一定の国民から成る」という近代の国民国家は、ほとんど意味を成しません。
そして、中国の少数民族は、それぞれの民族と言葉を有することが決められており、学校ではその民族の言葉での教育を受けるようにされています。しかし、中身は中国のカリキュラムであり、その民族の歴史を教えられるのではなく、中国の歴史を教えられます。日本でならば、本土より台湾に近い沖縄、またロシアに近い北海道において、それぞれ琉球民族とアイヌ民族が「国民国家」に取り入れられた苛酷な歴史を持っています。
しかし、国民国家をもって「愛国心は特異な歴史現象」と言えるでしょか?自らの国に対する愛着心は、どこから来ているのでしょうか?国民国家が新しく作り上げたものでしょうか?それとも、神から与えられた賜物でしょうか?国家主義が愛国心を利用したのであって、愛国心そのものは、その国や歴史、伝統、習慣の中で培われてきたものであり、自分が何であるかを決める大きな手がかりになっているはずです。
私の知人や友人には、例えば在日の人は、自分を受け入れなれなかったけれども、キリスト者となって自らが韓民族であることを誇りに思えた、であるとか、沖縄出身の姉妹も、自分が沖縄人であることを再確認したいということを話していました。そして大和民族である日本人も、キリスト教を受容する時にしばしば日本人を捨てなければいけないのか、という悩みを持つことがあり、しかしキリストにあって日本人であることを感謝し、愛することができるようになるのです。なぜなら、キリストが日本を愛しておられ、日本を日本として受け入れておられるからです。こうやって、キリストにあるからこそ、その民族性や国民性をありのまま受け入れることができるようになるのであって、それを一過性の「特異な現象」として片づけることは必ずしも、できないと思います。
もう一つ、興味深いお話しがあります。日本人の若い牧師さんのお話しです、奥様は韓国人、そして韓国の神学校に通いました。学友に言われたそうです、「私は、貴方は好きだが、日本は嫌いだ。」その時、なんとも言えないもどかしさを感じました。自分は日本人であることを捨てることはできない、だから自分は好きだけれども、日本が嫌いだと言われても、自分と日本を切り離すことはできない、と。これは一過性ではなく、普遍的な問題だと思います。
民族や国の中におられるキリスト
「ギリシヤ人もユダヤ人も、キリストにあって一つ」とする福音は、ギリシヤ人を否定してキリスト者になることではなく、ユダヤ人を否定してキリスト者になることではありません。むしろ、「ギリシヤ人であっても、そこに異教的な考え、文化、歴史を持っていたとしても、それでもあなたはキリストに立ち返ることができる。」「ユダヤ人であっても、そのユダヤ性を捨てることなく、キリストに従うことができる。」「ゆえに、互いに受容することによって一つになることができる。」ということであります。
今日、国家主義の反省から、政教分離の原理が戦後の日本に貫かれています。しかし、政教分離の厳密な適用、すなわち、政治から宗教を完全に取ることは不可能です。どの国や民族を見ても、そこに宗教が入り込まないことはありません。文化の中に宗教が全くないということはあり得ません。無菌状態にすることはできず、するならば「無宗教」という名の別の思想、宗教を押し込むだけのことになってしまいます。そういった意味で、国が宗教について語ることに過敏になることも、キリスト者の態度としては間違っているのではないか?と感じます。今の時代は、政教分離の原則からさらに一歩進んで、「寛容の時代」に入っていると思います。他宗教を決して受け入れているのではない。しかし、他宗教があること、その存在は受け入れるということです。
今の日本を考えて・・
以上が、私が舟の右側にある水草牧師の記事を読んだ抱いた感想ですが、今の日本を見る時に、どこまでかつての国家神道や国家主義が再現する危険があるのか?という疑問を持っています。確かに、自民党には復古や回帰の思想を持つ人々、またその傾向の強い個々人を見かけますが、しかし自民党が政権を長年、任されている中で実際に政策として実行したものは、中道左派に近いものがほとんどでした。今も安倍総理やその取り巻きについて、その思想が復古主義のそれと変わらない、右翼団体のそれと一体化しているという指摘もありますが、彼が首相として就任して以降、採用している政策や公式の発言は、そのほとんどが、世界標準からすると中道リベラルです。安倍首相の世界各地におけるスピーチには寛容と平和、繁栄がキーワードになっています。戦後70年談話は、思想的に右から左まで網羅したような内容になっています。一昨年末の慰安婦に関する日韓合意もまた、アジア女性基金の延長として、より一歩進んだ、画期的なものでした。女性の地位向上、進出も高く掲げており、復古主義とは程遠いものです。(参照記事:「日本の“リベラル”は、世界標準の“リベラリズム”とは別モノだった」)
教育改正法、日の丸、君が代の実施、特定秘密保護法や安保法制など、戦前回帰を彷彿とさせるという意見もあります。自民党の第二次改憲案は、確かに復古的な色彩が強く、私も拒否反応が出ます。靖国参拝も挙げられるでしょう。けれども、世界基準からしますと、やはり日本は中道リベラルの道を進んでいます。他の多くの国々のほうがはるかに、国家主義を推進させています。そして、愛国心は日本では少ないと言った方がよいでしょう。
参考記事:
「日本人と外国人から見る愛国心について ~アンケート調査をもとに~」
「日本人が持つ国への愛着とは ~ISSP国際比較調査(国への帰属意識)・日本の結果から~」
「愛国心について」
そのような状況の中で、国家主義への警鐘を取り上げるということは、どこまでの意味があるのか、冷静に考えないといけないと思います。私は、大きな意味があると思っています。いつにおいても、国家がその領域を越えることはあり得るからであり、細心の注意はキリスト者としていつも怠ってはならないと思うからです。しかし同時に、「今は、そのような状況ではない」という現状認識だけは把握しておかないといけないと思います。
無いところに有るかのように過剰反応することは、恐れから出ていると言わざるを得ません。そして恐れは神から出たものではありません。そして恐れによって、国家主義を克服することはできません。国への反発の思いは、未だ国に囚われ、国家主義の亡霊の中に縛られている証左です。むしろ、神が私たちの国をキリストにあって愛しておられることを受け入れることによって、過去のトラウマから抜け出すことができます。国を健全に愛し、主にあって心から敬うことができている時、その時には、過去の国家主義から解放された時ということができるでしょう。
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