復活祭における、英米首脳のそれぞれの言葉を聞きました。本当にじんと来ました。これこそ英米があるべき国の姿であり、世界に語りかける言葉だと思いました。この混乱した価値観と倫理の世界で、両国にはキリスト教的寛容の模範になってほしいと強く願います。
英国政府のサイト
もちろん、国はキリスト教を代表しないし、しようもありません。キリストを証しするのは、教会であり、国ではありません。しかし、人が国を持っている時に、その限界を知りつつも最善を求めるために、キリスト教の歴史の中で築き上げた寛容の精神は、何物にも代えがたいものです。
<メイ首相:キリストを公に表明する自由>
メイ首相は、欧州連合離脱という歴史的行動を英国がなすに当たって、英国民の総意によって団結することを説いています。それから、キリスト者による慈善行為を高く評価しています。病人や弱者への救済、そして世界の戦地において傷ついた人々への救援活動を強調しています。
そして、「宗教的寛容と信教の自由」を一括りで語ってます。信仰を公の場で表明する自由を語り、それはキリストを信じていると公の場でいう事のできる表現の自由があることも言及しています。そして世界中で、キリスト者や他の宗教少数派がその自由が脅かされていることを覚えています。
これは暗に、「宗教的寛容」の名の下で、キリスト者のみがその信仰に基づく信念や意見を表明すると、人種差別や宗教差別の枠組みに入れられてきた、「寛容という名の下の非寛容」を意識したものです。そしてイスラム教的な自由、つまりアッラーに従う自由であっても、異教徒が異教を信じる自由という意味ではないことへの歯止めとなっている、発言になっています。
<トランプ大統領:ユダヤ・キリスト教的伝統>
次に、トランプ大統領は、明確に米国がキリスト教のみならず、ユダヤ教の伝統も受け継いでいることを前面に出しています。建国は、「ユダヤ・キリスト教的伝統(Judeo-Christian tradition)」に基づくものですから、キリスト教だけでなくユダヤ教もあり、ユダヤ教の価値観の延長としてのキリスト教という側面もあります。
米国では、イースターの時期には、似たような時に、スーパーマーケット等には過越祭関連の品も並びます。それだけユダヤ人も多いのです。トランプ氏は、過越祭が、出エジプトに由来するものであることを語り、圧制からの自由と解放の物語であり、長い歴史の迫害の中でユダヤの民が、今日イスラエル国を築いているところまで、その信仰と堅忍が示されている、と述べています。
そして復活祭の日曜日に、キリストの復活と永遠の救いの約束を、キリスト者らが祝っているということ。これは、畏敬と礼拝を伴った聖なる日であることを明確に述べています。そして、「アメリカは、信仰者の国家である」とはっきりと述べています。神の祝福の中でこの地と家族が生かされていること、建国の時から信仰と礼拝の自由であることを語っています。
そして世界において、宗教の自由が脅かされ、テロリズムの危機があることを述べています。棕櫚の聖日の時に、エジプトにおいて教会の礼拝者たちがイスラム国によって惨殺されたことを言及し、その野蛮行為を糾弾し、残された人々への哀悼を述べています。
それから、非キリスト教徒の自由にも言及しています。全ての信仰、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教が、その良心にしたがって生きる自由を確認しています。
そして神の恩寵によって、命には、死に、圧政に、恐れに打ち勝つ力があり、、将来の希望がここにあることを伝えています。
最後に、トランプ氏が選挙期間中から強調していた、「取り残された米国市民のために、政府は戦っているのだ」ということを述べています。一般庶民が、エリート層の既得権によって除外されてきたことに対して、権利、安全、平和を取り戻すといっています。
後藤牧人牧師による論考は、大方その通りだと思います。
日本宣教論(36)米国文化の偽善と独善
日本宣教論(37)日本の戦争責任
私は、記事にあるように、米国に住んでいた時にその理念には心底、惚れこんでいましたし、今もそうです。米国のキリスト者には一定の敬意を抱いています。
けれども、米国という国柄は、有体にこういうものなのだということを知っていかないといけないと思います。それは米国がいかに酷く、間違っているのかということを知ることではなく、国柄が日本とは違うのだということを熟知することです。そして、欠点もあるけれども善に向かって進もうとしているのだということを受け入れ、対等な付き合いをし、愛し、尊重していくことです。
彼らは理念で生きる人々です。それに比べると、日本人は情や直観、全体的な調和を常に意識して生きている人々です。ですから、理念としてはかっこいいことを言っているのですが、実体がまるで伴っていません。しかし、大きな失敗と教訓を経て、それで調整して、改善すべく生きていく・・、実験的な国と言ったらよいでしょうか。
だから、右に振り子が大きく揺れるは、左に揺れるは、であり、それでもって主導権を取りたがるから、周囲が振り回されたはた迷惑します。「もっと中間をくれよ!」と非米国人である日本人は不満に思うでしょうでも、思いっきり振り回した後で、反省して、ころっと何が起こったかも忘れて、前を向いて進むという潔さがあります。かわって、日本は、調整や修正には長けていますが、大きな変革や変化を非常に嫌います。改善すべき体質もなかなか変えることができず、それが分かり易く言うと「悔い改めない」と見られてしまうのです。
決して、米国建国の歴史は綺麗事ではありません。実体は、あまり他の国や民族と変わりません、同じ白人の似たような仲間での自由であって、その他の人種を考えて作ったものでは決してありません。けれども、以前よりは、はるかに前進しているのです。熱心なキリスト者で、アメリカン・フットボールの黒人選手ベンジャミン・ワトソン氏が、未だ差別がある現実を直視しながら、けれども確実に前進していることを感謝し、そのアメリカを誇っています。
米国は、非常に優れた発想をして先駆的な働きをする一方で、日本では考えられないほどの堕落も見せます。米国の教会では、説教壇から語られることは妥協なき純粋な御言葉であっても、ちょっと道を踏み外すと、とんでもない罪を犯すということが、同時進行します。いわゆるスキャンダルが多いです。
日本はその振り子が小さいですが、一度道を踏み外すと、村八分で、恵みや赦しが少ない社会です。それが日本の教会にも影響を与えていますね。日本の教会では、離婚もしたことがない、罪も犯したことがない、「エリート・キリスト者」しか残らない、教会文化をいつの間にか作っていると思います。
戦争責任については、思うに、アメリカ人は「正しくなければいけない病」に罹っていると思います。東京裁判によく表れています、あまりにも大雑把な裁判内容なのですが、要は「正しい戦争であった」という建前、体裁が出来ればそれでよかったのです。だから、ベトナム戦争とかイラク戦争では世界中からぼこぼこに叩かれて、しょぼくれてしまうのです。日本は、原爆を投下され敗戦したという、米国式制裁(基本的に寛容ですが、一度、道理・原則を外した者には容赦ない怒りを向けます)を受けたので、「自分を虐めても、謝罪する病」に罹っていると思います。
ですから、日本国は、いろいろな分野で倫理基準は非常に高いのに、些細な過ちにも謝る傾向があるので、それを利用して攻撃する甘えの構造が、国内にも国外にも存在していると思います。他の国々の人たちはもっといい加減です。私は、何においても緻密で完全を目指す日本のことを誇りに思っていますが、自ら課しているその高い基準によってかえって苦しめ、窮屈にし、閉鎖的にさせていく社会には、息苦しさを感じています。
その脱却の道は、「素直に、神が一般に与えられた恵み、日本の賜物に感謝し、受けとめる。」が第一歩だと思っています。日本はすばらしいなどという心酔をするのはこれまた不健全ですが、恵みを受け入れ感謝することが必要ではないでしょうか?それがまた、他者や異なる価値観の人々への寛容と受容につながると感じています。