オーストラリア人のNeel Kolhatkarというコメディアンが、”Modern Educayshun”という短編映画を動画で流しています。
その題名は「現代の教育」という意味ですが、正しい綴りEducationから、、shun(避ける、遠ざける)という言葉に言い換えることによって、「当たり前のことを言えないように疎外する」という皮肉を込めています。全てのことを平等にすることによって、どれだけ息苦しく、人々の自由や人間性を奪い取るかを風刺しています。
ある方が訳してくださった、大まかな日本語訳を記事下のコメント欄に掲載します。
教会にも見えてくる「言葉狩り」
こんな感じですが、私は、「あれっ?日本のキリスト教界にもありそうな?」と思いました。例えば、らい病を「ツァラアト」を翻訳した根拠が「差別語」だというところに、かなり違和感を抱いていました。新共同訳の、適宜、文脈に即して訳し分けているほうが、はるかに誠実だと思っております。私は今でも、その文言が出ると第二版に基づいて「らい病」と、そのまま読んでいます。
キリスト教関連のマスコミにも、聖書の真理よりも、欧米リベラルの政治的公正で動いていると感じる時が、しばしばあります。そして、もし何か異見を言えば、いかに非キリスト者的(?)であるかと何らかのレッテルを貼られる、帰属している組織の中で次第に締め出されるという圧力を見聞きしています。
「ファシズム」という言葉をキリスト教界の一部で、今日の日本の右傾化の文脈で使われていますが、私はよっぽど、「リベラル」と呼ばれている世界で、異論を決して許さない、制裁を加える、非人間性、無機質化へと至らせる「ファシズム」に向かわしめているような気がするのですが・・。
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「教会のカルト化」を梃子にした言葉狩り
そして、「教会のカルト化」という言葉を聞いて久しいです。そういう人々を救助する働は、もちろんあってよいと思います。事実、被害を受けている人は多数いるでしょう。でも、何でもかんでもそういった視点で教会を見てしまうと、相手の言っている真意を無視して結局、「言葉狩り」をしてしまっています。コリント人への手紙第二は、パウロが言葉狩りに遭っていて、弁明している書物です。
そして、そのような人の一部で起こっているのは、「裏を取っていない」という深刻な問題があります。初めに被害を訴えてきた人の話が全ての事実だとして相手側を訴えています。これって、箴言にある「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(18:17)」という言葉、申命記にある「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。(19:15)」という神の言葉に違反することで、危険です。実際に多くの逆被害、しかも深刻なものを聞いています。
言葉狩りの恐怖を教会内に造り出してはいけません。
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動画”Modern Educayshun”の大まかな日本語訳
※数学の授業という設定。
男性が教室に入ってくる。
先生「ようこそ」
白い箱がガタッ
先生「気にしないで。じきにおさまるから」
先生「さて、最初の質問です。1+1は?」
男性「2?」
先生「不正解です」
サイモン「多文化主義(multiculturalism)です」
先生「その通り。よく出来ました」
先生「次の質問です。3x3は?」
男性「9?」
先生「違います」
ペネロピィ「男女平等(gender equality)です」
先生「よく出来ました」
男性「冗談ですよね?」
ペネロピィ「男女平等が冗談ですって?!」
男性「いや、でもこれ数学の授業でしょ?」
サイモン「差別はやめろよ!」
男性「質問しただけですよ」
ペネロピィ「質問はやめて! 侮辱よ!」
まぬけ君(サンシャイン)「そうだ!」
先生「さてみなさん、宿題のレポートをみんなやってくれたと思います。そして、最高得点の人には、ニューヨークの世界数学サミットで発表してもらいます」
先生「ペネロピィ。よく出来ました。60点(6/10点)です」
先生「サイモン。あなたも60点です」
サイモン「おい。気をつけろよ。お前、ペネロピィのこと10秒も見つめてただろ」
男性「は?」
サイモン「女性を15秒以上“ストレート”(連続)で見つめたらセクハラだろ! で、僕が“ストレート”っていうのは連続って意味で、“伝統的じゃない”性的趣向の人を批判してるわけじゃないからな! で、僕が“伝統的じゃない”って言うのは、別に歴史的に“普通”となったことに反対する人たちを批判しているわけじゃ・・・」
男性「わかったわかった」
先生「サンシャイン。残念ながらあなたは10点ね」
男性が先生にレポートを手渡す。
男性「私はフォーリエ変換を電気数学的手法の中に用いて患者の電気回路を分析し、心臓発作を経験したことがある人のリスクを計算しました。全く新しい手法ですが、これで数千人規模の命を救える可能性があります」
先生「はーっ」(ため息)(レポートを投げて戻す)「70点ね」
男性「ほとんど読んでないじゃないか」
先生「赤ペンを使っちゃダメじゃない」
男性「は?!」
サイモン「赤は多くの宗教を侮蔑する色だろ」
ペネロピィ「なぜあなたは一つの色にこだわって全てを蔑むの? 人間っていうのは虹色の美と霊性でしょう?」
サンシャイン「そうだ~」
男性「わかったよ。70点でいいよ。だけど、70点でも俺が最高得点だ。サミットに行くのが俺だろ?」
先生「まだ採点は終わっていないわ。さて、私達は“平等”の社会に生きています。ですから、全員の特典を合計して、それを生徒全員で“平等”に分割します」
(ホワイトボード 6+6+1+7=20 20÷4=5)
男性「冗談じゃない!」
先生「みなさんよくできました。これで“平等”ですね。これでみんな“平均”です」
サンシャイン「やった~!」
男性「じゃあ、サミットに行くのは誰なんですか?」
ペネロピィ「まだ“特権ポイント”を加算してないでしょうが! 何も知らないのね」
先生「彼女の言うとおりよ」
先生「さて、ペネロピィ。あなたは女性だから、+1特権ポイントね。だけど白人だからそれは-1ポイント」
ペネロピィ「だけど、私はバイセクシャルですよ」
先生「じゃあ+1ポイント、ということは、合計で60点ね(平均点50+10点)」
先生「サイモン、残念ながらあなたは性的には“ストレート”だし、白人、そして男性だわ」
ペネロピィ「それに“シスジェンダー”よ」(※シスジェンダーとは、生まれつきの身体的、生物学的性別と、自分の性自認が同じこと。あたりめーだ)
先生「そうね。だから-4特権ポイントね。だからあなたは10点(平均50―40点)」
サイモン「平等にしなきゃね」
先生「さて、あなた(男性)。あなたは男性で、それにアンタのことは嫌いだわ。だから-2特権ポイントね。だけどあなたは白人じゃないし、ゲイっぽい(直訳:性的に曖昧)から、+2特権ポイントね。だから合計得点は50点ね(平均50-20+20)」
男性「なんで俺がゲイっぽいってなるんですか?」
先生「そして、最後にサンシャイン」
サンシャイン「あー、ボクはゲイだし、トランスジェンダーだし、アジア人だし、デブだし、貧乏だし、頭は悪いし、ブスだし、乳首に毛が生えてるし、体臭はやばいし、ちゃんと走れないし、それに自分で靴ひもも結べないんだ。それに、一回、鳩が死ぬところを見ちゃったんだよね」
先生「サンシャイン、素晴らしいわ。+130特権ポイントよ! 合計、180点だわ!(50+130)よく出来ました。ニューヨークのサミットに行くのはあなたです!」
ペネロピィ「やったねサンシャイン!」
サイモン「お前ならやれると思ってたよ!」
男性「ちょっと待てよ。見せてくれ」
紙を取り上げる
男性「このレポートなんだよ。“びょうどう”って文字とハートが書いてあるだけじゃないか! 1枚しか書いてないし!」
ペネロピィ「彼なりの表現よ。素晴らしいじゃない!」
男性「“びょうどう”のスペルも間違ってるじゃないか!(ekwaLity)
サイモン「差別はやめろ!」
男性「これ、数学と全く関係ないだろ!」
ペネロピィ「あなたは数学や科学みたいな“事実”は得意かもしれないけど、“感情”はどうなの?!」
サイモン「そうだ!“感情”は“事実”よりも大事だろ!」
サンシャイン「そうだ!」
男性「こんなの間違ってる! お前らみんな狂ってる!」
ペネロピィ「あなたの意見で私を傷つけないで!」
男性「俺には俺の意見を言う権利がある!」
サイモン「違う!僕達は“傷つけられない権利”がある!」
ペネロピィ「傷つけられない権利は意見を言う権利より重要よ! それに、あなたが言葉で私達を侮辱するのをやめなければ、正当防衛であなたを攻撃するわ」
男性「そんなこと許されて良いものか」
サイモン「許されるんだな」
先生「そして、あなたが抵抗するのは許されません」
サンシャイン「そうだ!」
男性「狂ってる」
ペネロピィ「死ぬ用意はいい?社会的正義は勝つということを覚えておきなさい。死ね!」
サンシャイン「サンシャイン~~~!!!」
新しい女性が教室へ。
箱が動く。
先生「気にしないで。すぐにおさまるから」
(END)
日本の人に、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)について、分かりやすい文章を見つけました。
Political correctnessって、なに?
最後の文章を引用します。
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ボクたちは「人を差別してはいけないよ。先入観で人を評価してはいけませんよ。」と教えられてきたはずです。
これがPOLITICAL CORRECTNESSなのでしょう。
その一方で、すべての人間が平等である、ということも残念ながらほんとではないでしょう。
現実社会の人種の差、貧富の差、文化の差、能力の差のなかでは、お互いのすべての背景(人種、性別、国籍、育った環境、生活圏、宗教、文化、教育、嗜好などなど)をふまえて交流して初めて、理解しあえるのではないかと思います。
逆にそれぬきにコミュニケーションをはかることはできません。
それらを無視して「ひとはみんな同じはずだ、平等なはずだ」と話をすすめるのはかえって危険と思います。