「共謀罪反対声明」に対する懸念

ここ二・三日のクリスチャン新聞の記事を見ますと、次々とキリスト教の教団や関連団体が、いわゆる「共謀罪」の廃案を求める声明を出していることを取り上げています。その根拠は、「内心の自由」が侵される惧れがあるから、というものです。

ここから少し、難しい話になりますが、逆説的なことを申し上げます。このような反対声明を出すことのほうが、かえって、将来的にキリスト者としての内心の自由を侵していく全体の動きが日本で起こってしまうのではないか?と危惧しております。

動画は、かつての大統領選挙で、民主党内の候補の一人であった、バーニー・サンダース議員による審問です。審問を受けているのは、トランプ政権において行政管理予算局の副所長への候補として、福音派神学校「ホイートン大学」出身のラッセル・ボート氏であります。この大学では、かつて政治学の教授がムスリムとの連帯を公表したため、大学が辞職したとがあり、その時にボート氏は、記事を投稿しました。その中にある一文を、サンダース議員が取り上げます。

「ムスリムは、欠陥のある神学を持っているという単純なことではない。御子イエス・キリストを拒んでいるということで神を知らず、罪に定められている。」

サンダース氏は、この発言をもって「憎悪に満ち、イスラム恐怖症であり、世界の何百万ものムスリムを侮辱するものである」として糾弾しました。ボート氏は、「全くそんなことはありません。私はキリスト者であり、自分の信仰に基づく原則を信じているにしか過ぎません。」と返答しました。サンダース氏は、「それでは、ユダヤ人は?罪に定められているというのか?」とも問い詰め、イエス・キリストによってのみ、罪の赦しと永遠の命がある」という、歴史的、正統的キリスト教に沿った、信仰の表明(ヨハネ8:19、ルカ10:16、ヨハネ3:18など)を取り上げ、「あなたは公職に就く資格はない」として、彼に投票しませんでした。

これぞ、まさに「内心の自由」が侵害されたことの事例です。これが数日前、私たちの日本国憲法の基ともなっている、信教の自由をもたらした米国憲法下で起こっていることであります。

日本において、キリスト者であるというだけで、その信仰の中身について審問を受けて、公務員の資格を得られないということがあり得るでしょうか?これこそ、宗教差別であり、違憲そのもののはずです。

では、なぜ一議員のこの発言が違憲であると非難されることなく、そのままにされているのでしょうか?それは、「キリスト教の信条が政治の中に入っている」と言えるからです。イエスの御名によってしか、天下に救われる名としては誰も与えられていない、とするのが私たちキリスト者の信仰です。しかし、これは信仰の表明であって、公の空間、とりわけ政治空間に当てはめることではないことを私たちは知っています。終わりの日、到来する神の国において、その御名によって救われた者たちが相続人となりますが、今の世においては公の生活において差別はありません。

しかし米国は、キリスト教の価値観によって建国し、社会においても多数派であり、また政治においてもキリスト者であるかどうかが大統領選で争われるほどの影響力を持っています。つまり、キリスト教の信条が公の空間、政治の世界においても適用されているのです。「福音の政治化」が、ある意味で行われています。

それに対する反発が、サンダース議員の発言にあるのです。キリスト教信仰を、政治的に影響を持たせようとするならば、政治というのは力の均衡によって成り立っていますから、反動もあるのです。もし、キリスト者の信仰表明に政治的力を持たせることがなければ、「曖昧」なままにしていれば、公の場において、キリスト者であることによって差別されたり、迫害されることは無い、とは言いませんが、少なくなるのです。

ですから、使徒たちは、上の権威を敬いなさい、その権威に従いなさいと指導しました。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。(1ペテロ2:13)」従うことは逃げの姿勢ではなく、むしろ、真実な意味でキリストの権威が現れる方法であります。

そこで日本の政治状況を考えてみましょう。キリスト教の諸教団が、反対表明を出している根拠の一つに、戦前に治安維持法によってキリスト者の内心の自由が奪われたからだ、というものです。それを根拠に、政府に対してその法律の復活であるとするものです。つまり、政治的に弾圧されたということを根拠にして、政治空間に対して自分たちの信仰を梃子に反対表明をしているのです。

このことによって何が起こるかというと、サンダース議員のような反発なのです。つまり、過去の日本が必ずしも全てが悪ではない、戦わなければいけない大義があったのだとする保守的な歴史認識に立った人々からは、キリスト教がいかに日本を破壊する分子であるのか、反日主義であって、要注意だと不満を募らせます。そして事実、保守団体からはそのような見方が広がっています。もちろんそれは、とんだ誤解であり、間違った認識です。けれども、サンダーズ議員も全く勘違いで、一キリスト者の信仰の表明を断罪したのです。ボート氏は、宗教差別を受けた被害者ですが、それは、福音派信仰が政治的に幅を利かせている米国政治の空間があるという背景があってのことなのです。

けれども、日本のキリスト教会は過去の政治的弾圧を梃子にして、今の政治に自らの信仰を、福音宣教や回心の目的ではない形で、明確化させています。これをかなり長い期間、反対声明などの形で、諸教団が行なってきました。当然、政治には力関係があって、反動というものがあって、後々の迫害の根拠となっていくのです。迫害を受けないようにしようとする行為、自分たちを救おうとする行為がかえって、信教の自由を失わせてしまう矛盾に気づかないのでしょうか?

関連記事:「「戦後70年 荒野で叫ぶ者の声」」「教会は政府ではない」「「国家主義」について問う

「「共謀罪反対声明」に対する懸念」への20件のフィードバック

  1. 「日本のキリスト教会は過去の政治的弾圧を梃子にして」と
    「今の政治に自らの信仰を、福音宣教や回心の目的ではない形で、明確化させています」の間に論理の飛躍があります。

  2. 青木様、コメントありがとうございます。

    どのような論理の飛躍でしょうか?

    自分なりに考えて見たのですが、「結果的に」今の政治に自らの信仰を、福音宣教や回心の目的ではない形で、明確にさせてしまっている、という言葉を入れたら飛躍にならずに済みますか?(・・う~ん、まだどこが飛躍なのか、分かっておりません。)

  3. 真摯な応答を感謝します。直感的に感じたことですが、文章化すれば以下のようになるかと思います。
    「過去の政治的弾圧を梃子にして」、「共謀罪」に反対することは、必ずしも「今の政治に自らの信仰を、福音宣教や回心の目的ではない形で、明確化」させることになるとは限らないと思います。
    「政治的弾圧を受け」、一般的真理である「良心・信教・表現の自由」の重要性を痛感した者のひとりとして、「共謀罪」に反対すると考えることもできます。
    それは、事故の被害者や家族が、原因究明と再発防止を強く訴えることと似ていると思います。

  4. 「「政治的弾圧を受け」、一般的真理である「良心・信教・表現の自由」の重要性を痛感した者のひとりとして、「共謀罪」に反対すると考えることもできます。」

    了解しました、反対する選択もあるということは、よく理解しているつもりであります。いや、むしろ前置きさせていただいたように、私が書いたことはやや複雑、逆説的であり、青木様の書かれたことのほうがまっすぐで単純です。

    ただ、例として挙げられた事故の被害者でありますが、そのお気持ちは普通の状況であれば分かります。しかし私たちは、信仰の共同体として、他の霊的な原則の内に生きています。この社会においては、「迫害」はやってはいけないことという近現代社会の人権の概念がありますが、私たちの主は、御国の現れとして幸いなこと、喜ぶべきこととされています。もう一つ、私たちの信仰告白、「イエスが全ての主であり、救い主であられる」というものは、今の一般社会で使われている意味で還元すれば、とんでもない意味になり得るものです。つまり政教一致、イエスを信じなければ公的生活、社会生活で差別しなければならず、そして聖絶しなければいけないという誤解を多分に含むものです。つまり、今のイスラム国のような政教一致の考えです。事実、ローマ時代の初代教会は、あらゆる中傷が彼らに与えられ、迫害されました。

    したがって、「人の立てた制度に従いなさい」という、ローマによる迫害の中にいたキリスト者に励ましたペテロの言葉はとても重いと思っております。私ももちろん、信仰による良心のために逮捕されたり、殉教するということも、証しの究極の姿だと信じて、毎週、説教しております。しかし、使徒たちの教えに準ずるものでありたいと思い、神を知らない世に対して、何もしなくても中傷や迫害をするかもしれない、サタンの働きがある世に対して、それでも敬い、執り成し、願いを捧げ、祈るものでありたいと願っています。

    私は、いわゆる信教の自由が制限されている所で宣教活動をしておりました。迫害された方、拷問を受けた牧師、そういった方々ともたくさん交わりました。そして、私自身も緊張状態の中で活動をしておりました。ですから、過去の日本の教会に向けられた弾圧を無視しているわけではありません、むしろその先人に倣いたいと願っています。しかし、それは事故の被害者ではないというのが、私の思いです。実際に祝福があります。そして信教の自由が認められている日本以上に、ある意味、福音宣教において自由を享受できました。イエス様の言われていること、使徒たちの教えていたことがその通りなのだと実感しました。

    長文で申し訳ありません、当記事の内容の背景にはこうした体験がありますので分かち合わせていただきました。

  5. 真摯、誠実な応答を感謝します。
    事故の被害者や家族の訴えは、個人的なことから出発しているでしょうが、それに止まらない公共性を帯びています。だからこそ、人々の心に訴えるものがあるのだと思います。念のため申し添えます。

  6. 仮に何の反対声明も出さず、世の流れに全く身を任せた場合、今後の日本の教会は「キリストの教会」であることができるでしょうか?
    戦前・戦中の教会は、弾圧によって政治的な力を行使できなくなったというのではなく、信仰そのものを歪められてしまいました。天皇を神と認め、無謀な戦争に加担した教会が語る言葉は、もはや神の言葉では無くなっていた、と私は思います。そして戦前回帰が急速に進む今の日本でも、教会が教会でいられなくなることを諸教派が懸念し、その流れに反対の声明を出しておられるのだと思います。
    従順であれば信教の自由を認めてもらえる、という保証はどこにもありません。従順であれば激しい弾圧は避けられるかもしれませんが、国の思想に添った「教会」となることは求められるかもしれません。現政権(の背後にある日本会議)の思想に添った教会とは、キリストの教会であるでしょうか?
    信教の自由は政教分離とセットです。それは、宗教が政治に関わらないということよりも、政治が宗教を支配しない、という意味が強いものです。そのことを求め続けなければ、信教の自由は失われるでしょう。「自由」はいつも、それを求めつ続ける民衆があって勝ち取られてきたものですから。

  7. 杉山様

    ご意見ありがとうございます。私も、多くの点で同じ問題意識を持っております。

    「戦前・戦中の教会は、弾圧によって政治的な力を行使できなくなったというのではなく、信仰そのものを歪められてしまいました。」

    その通りです、信仰そのものが歪められました。しかし、その信仰の中身、どのようなことを信じ、保持しているのか、中身が検証されることはほとんどありません。むしろ、(逆説的ですが)「その反対声明の背後にある姿勢に、戦前、戦時中の教会と同じ流れがある」と見ています。詳しくは以下のブログ記事に書いております。

    ~~~~
    秘密保護法案とキリスト者の迫害」から

    秘密保護法があたかも戦中の治安維持法の再現であるように語られていますが、当時、この法律によって迫害を受けた人は、日本国に政治的に反対したから捕縛されたのではなく、ほぼ全ての人が、

    1)聖書的に保守派、根本主義的な信条を持っていた。
    2)信仰的には純粋、純朴であり、国に対しては無意見あるいは温和的姿勢を見せていた。

    のです。これに対して、今、日本政府に対して政治的反対表明をしている主流派と呼ばれる教会は、

    1)神学的にはリベラル(自由主義)
    2)信仰については知性・理性中心、政治的には先鋭、思想的には左翼

    という対称が見られます。敗戦によって、日本の市民空間は右から左に大きく振れました。そして、今は右も左も混在していますが、敗戦後の左の空気を主流派の教会がそのまま踏襲し、その後を追って福音派も便乗している、と見ています。
    ~~~

    私は保守的な福音主義、かつ聖霊の働きを受け入れている立場の、米国発の教会の群れにいる者です。再臨を強調し、イスラエルを愛し祝福し、聖霊の満たしを熱心に求め、大衆の中で広がっていった群れです。かつてのホーリネスの群れとほぼ同じ聖書信仰を持っています。むしろ、今の福音派が新しい神学の流れを強く紹介し、従来の保守的な聖書信仰を批判して、その末に反対声明を出している流れを見ております。(JEAの神学委員会発行の文書などからそのことが見えます。)つまり、「国が戦前回帰する前に、教会が国に抗っていることで、信仰を守っていると思いながら、実は逆に信仰の内容を変えてしまい、教会が戦前回帰している部分がないか?」ということです。

    そして、私たちは「信教の自由」を目的にしているのでしょうか?我々は、世俗的、近代国家の定める「信教の自由」ではなく、「キリストの御言葉に留まる、信仰の自由」を保持しているのではないでしょうか?たとえ、国がそれを制限しても、聖書、教会史、そして今の世界宣教の現場では、信仰の自由が奪われるどころか、さらに御言葉が広がり、教会が清められ、しっかり立っているのです。もちろん、この社会に生きる者の知恵として、我が国の信教の自由の動向に目を光らせるべきです。しかし、そこに本質はありません。本質は、福音にある自由です。例えば、中国は2030年頃までには、アメリカよりも信者者数が多くなると言われる予想もあります。そこでは、「政府に抗わなかった」からこそできたものです。家の教会も決して政府を批判しません、執り成すことは沢山しますが。それゆえ政府が弾圧の手が緩み、今や無視できない地の塩の力となり、拡がり続けています。主に従うからこそ、王を敬い、その制度を尊び、そして御国が広がります。それが、ローマ時代の初代教会の姿ではないでしょうか?

    信仰の自由を、近代国家の造り出した「信教の自由」と混同させてはいかんと私は思っております。本当に日本が自由・民主主義制度から離れていくと予想するのであれば、尚更の事です。

    熱くなってしまいました、申し訳ございません。同じくキリストを愛しておられ、日本を愛しておられることを文章から感じ取ることが出来ましたので、私も同じ思いを持っております、それで率直に書かせていただきました。以下の記事も、ぜひご参考にしていただければ幸いです。

    戦後70年 荒野で叫ぶ者の声」「指導者への執り成し - 安倍首相のために祈る

  8. 非西欧圏で宣教の働きに携わっている者たちとしては、同じ非西欧圏である日本の教会が、欧米によって作り出された信教の自由の概念を強力に推し進めている姿は、摩訶不思議であります。私の知人で、世界宣教の学びをし、実際に今も非西欧圏の人々に宣教の働きをしている兄弟が次のように述べました。

    「日本の教会と、中東や中国の教会は、姿勢が全く違いますね。欧米でもそうですが、信仰の自由がより保障されれば、未信者の役に立ち、自分達の信仰の喧伝となり、結果として福音が広まる、と考えておられるようですね。でも、本当は真逆なことに気づいていない。有名になった、中国地下教会や中東の信者の言葉に、「迫害が止まるよう、とは祈らないでくれ。むしろ、迫害が激しくなるよう祈ってくれ。そうすれば、証の機会がもっと増えて福音がもっと広がる。」なんてのがありました。日本や欧米とは全く逆の発想ですが、むしろ聖書的ですよね。」

    そうなんです、中国の家の教会の兄弟が、「共産党政権が崩れるように祈らないでください」と言ったのを聞いたことがあります。イラン出身の伝道師が、「イスラム教の国が潰れるように祈らないでください、イスラム革命があったから私たちは爆発的に増えたのです。」と言ったのを聞きました。

    日本の教会もそろそろ、こちらの聖書の世界に目を向けてみませんか?

  9. こんにちは。
    侵略経験がなく、プロテスタントの歴史がわずか70年の日本。
    クリスチャンの立場が問われます。
    逆説的、直接的、どちらでもいいんです。
    「ナチスドイツを止められなかった理由が解りますか?クリスチャンが祈らなかったからです。」
    というアメリカ人宣教師のことばが胸に響いています。
    クリスチャンが祈らないと悪が蔓延るのです。
    その歴史反省をもとにすれば、他国からさえも学び、祈ることができるのです。
    いや、祈らなくてはならないのです、クリスチャンなら。

    議論はいいのです。

    神学とか背景とか神様は気にしません。

    だから、今の権威である「国民が主権者であり、憲法が主権である」に従わない現政府が、今は、神に従わない人々です。

    その人々と、国のため、実際に祈っているかどうか?祈りを神様は聞いておられるし、それによって、とりなしの祈りで人や国さえも変わることもある。

    私は日本のナチス化はもちろん反対。

    共謀罪も、わかりにくいし、DVのような決め方も反対。

    だから、反対クリスチャンと共に祈ることが、クリスチャンの仕事だと思います。

    迫害を推進してしまうよ、とか、敵が決めること。

    今圧政下にある日本人が圧政や貧困や暴力から救われ、罪に死にそうな現政権政治家が悔い改め永遠の滅びから救われるよう、主なる全能の神に祈るのみです。

  10. 快晴さん、

    コメントありがとうございます。ちょっと断定的、決めつけるような書き方に、正直戸惑ってしまいました。

    「議論はいいのです」

    といいつつも、議論されているからです。

    そして祈りにしても、「政府が神に逆らっている、それを戒めるのだ」という上から目線の祈りには、私は参加したくありません。

    私も、私の教会でも、祈り会で日本のために祈っています。

  11. 一理ある、と思います。確かに、共謀罪成立で、この先きっと、どんどん共謀罪の適用範囲は広がると、目に見えます。クリスチャンが生きにくくなるであろうことも想像に難くありません。しかし、今はそうなってません。

    今、クリスチャンが派手に騒ぐことが刺激となって、そうなってしまうスピードを速めてしまうこともあると思います。自分たちの世代の信仰を守りたいがために、後の日本に生きる信仰者が生きづらくなってしまうのは、なんだか本末転倒かもしれないと思いました。まるで、自分が良ければあとは良いって感じに思います。
    確かに、その社会や国を見張ることも、キリスト者のすることであると思います。しかし、それは、「見つけたら即騒げ」ということではないと思います。それは神様に持っていくことだなあと記事を見て思いました。ただ、少数の団体が警告として「信教の自由は許してね」程度が適切なのかもしれません。現実に私たちはまだ内心の自由を害されていません。

    ただ、時代が戦前に逆行している事には、警戒したいです。72年前に、日本でも命が奪われ日本も多くの命を奪いました。その悲劇を繰り返してはいけないと思います。日本は戦争をしないという選択をしたのだから、そのまま守り通してほしいと思います。

  12. 田中様、

    貴重なご意見ありがとうございます。

    私は、いわゆる共謀罪については、若干、違った見方をしています。(これが正しいということではなく、今のところの現状認識です。)

    まず、日本が昭和十年から二十年にかけてのことは、日本も、そして米国など世界も非常に特殊な時、はっきり言うと異常な時であったと思います。その衝撃があまりにも強いために、日本に関わる表面的に類似しているような出来事が起こる度に、教会がその迫害された時期を想起してしまうのではないか?と感じています。けれども、それでは過去を十分に生かしていないと感じています。以前、あるところで次の文章を書きました。

    しかし、書かれているご懸念は、国際環境が著しく変わっている今、何が起こっているか分からないという意味では、お書きになっている惧れは共感できます。私たちはいつでも、主にあって苦しみを甘んじて受ける心備えが必要でしょう。

    ~~~

    <今の「中国」が、かつての「日本」>

    稲田朋美の「軽さ」は安倍総理の油断の象徴である

    先日ご紹介した政治学者が、とても大事な記事を寄稿しています。日本国民が、政治家の「猛獣使い」であるべき役割ではなく、「サンタクロースの使いを期待」して、それについては、平和主義を唱える革新勢力も、自民党の利益誘導も共犯関係にあるという指摘です。そして、次の言葉はとても重要だと思いました。

    「1990年代以降、日本を取り巻く安全保障環境の変化は、そうした有り様への修正を迫った。防衛庁の省昇格に象徴される諸々の安全保障政策展開は、日本の「右傾化」の証左ではなく、安全保障環境の変化に対する「適応」に過ぎない。」

    日本の教会の指導者が、またマスコミが伝えようとしている「今の日本」が、「国家主義(=偶像礼拝)、そして戦前回帰」なのだということなのですが、それは客観的に考えて認識の誤りであると私は感じています。

    戦前と現在の国際秩序あるいは環境の比較を敢えてするのであれば、「中国がかつての日本」です。今、日本は西側陣営におり、中国のアジアにおける覇権が国際秩序を乱している脅威に受け止められています。その最前線にいる西側陣営である日本は、戦前で言うなら連合国であります。その証左は、安保法制が整えられても国際的に非難がされていないことです。中国の軍拡は世界の非難の的になっているのと対照的です。そういった枠組みから、<特定秘密保護法><集団的自衛権><共謀罪>などは、国家主義への回帰ではなく、自由・民主主義の固持のための備え、安全保障とさえ言えます。

    もう一度、総理大臣の七十年談話を読んでいただけたら幸いです。そこには、第一に、右から左まで、国民の総意になるべくそった歴史認識にするということ。そして第二に、国際社会に協調できるための努力がにじみ出ています。痛々しいほどです。そして、日本会議とのつながりがあるとされる首相だからこそ、そういった人々をも取り組むことができるのです。反トランプ、トランプ支持で暴力沙汰にまで発展している米国、巨大デモで大統領不在になってしまった韓国を見れば、国の分断を避けられている日本は幸せなのです。

    そして与党の中に公明党がいるということも絶妙のバランスであり、それによってタカ派の意見にブレーキがかかり、結果的に出て来る政策の多くは、中道リベラルになっています。自分のしたいことに敢えて枷をかける、というのは政治家のよくすることで、なぜなら自分の願いをかなえることが政治家ではなく、国民を代表し、自分ではなく国をまとめ、国を愛することこそが政治家の働きだからです。そういった意味で、安倍首相には期待しています。彼が、そこからぶれているなあと思う時は、批判しないといけないなと思います。
    話を戻しますと、日本がこうしたリベラル西側陣営と歩調を合わさなくなれば、確かに軸足を無くして、不安定化するでしょう。そういった意味で、<国内向け>の稲田議員の防衛大臣起用に油断がなかったか?という問いかけは、一理あると思います。

  13. 管理人様、お久しぶりです。

    やはりというか、テロ等準備罪の件に対して、
    キリスト教会が反対声明を出していたのですね。
    まあ、キリスト教会と共産党が自民党のやることに
    反対を叫ぶのは、いつものことではあるのですが。

    熱心に平和を叫ぶクリスチャン(のコメント)を見ると、
    「この人たちは日本の国と日本人が嫌いだから、
    日本人のやることには何でも反対するのだろう。」
    という印象を受けてしまいます。
    「悪い民族である日本人」を監視する「監視者(看守)」を
    気取っているような、偉そうな人たちに見えてしまい、
    「やっぱりキリスト教は白人の宗教だ」という印象を持ってしまう。
    あるいは「思慮のないハト派」とでもいうべきでしょうか。

    キリスト教の日本での宣教が完全に失敗したのは、
    悪霊のせいでも、日本人のせいでもなく、
    クリスチャン自身の態度、白人宣教師の傲慢と、
    日本人指導者たちの無能が原因なのだと、毎度ながら思います。

    管理人様の記事とコメントはいつもながら勉強になります。
    迫害が止まるように祈らないでくれ、というのは、
    まさに逆説ですね。迫害があるから、逆に福音が広まっていく。

    正直な話、現代の日本人クリスチャンが、
    迫害されているようには思えないのですが。
    むしろ多数派のノン・クリスチャンの日本人は、
    クリスチャンのことを「迷信家」、「日本が嫌いな日本人」、
    あるいは「欧米文化を崇拝する人たち」と見なしています。
    (日本人の科学崇拝も一種の迷信的な風潮とは思うのですが)
    要するに、迫害にも値しない存在として
    無視されているのが現状のような気がするのです。

    たしかに5年くらい前は、「キリスト教は排他的で独善的」
    「多神教は平和的で寛容」という意見が広く普及していました。
    これは軽いとはいえ「迫害」と呼んでもいいかもしれません。
    そうした主張を唱えていた有名な某知識人の本を読みましたが、
    その人は若いころに欧米の文化やキリスト教に魅了されていた
    そうです。要するに昔の日本人のキリスト教に対する攻撃は、
    アメリカやヨーロッパへの劣等感に基づくものでした。

    しかし、子供のころから科学を尊ぶことを教えられ、
    「宗教は心の弱い人間のものだ」という風潮に触れてきた
    多くの現代日本人(特に若年層)は、
    キリスト教そのものを「無価値な迷信」としか認識していないし、
    宗教全般を「人間に害悪をもたらす悪」として強く軽蔑し、
    宗教が話題に上ることを非常に忌み嫌うように思われます。

    キリスト教の話をするだけで、攻撃・迫害してくるどころか、
    みんな「宗教にかかわるのは嫌だ」とか言って、
    逃げだしてしまう訳で。
    そういう人たちに対しては、クリスチャンも「証し」
    のしようがないのではないでしょうか?

    >快晴様
    >「ナチスドイツを止められなかった理由が解りますか?
    >クリスチャンが祈らなかったからです。」

    それは違うでしょう。ヒトラーも一応クリスチャンでしたから。

  14. 連続投稿失礼します。今思ったのですが、
    日本人クリスチャンのうち、テロ等準備罪に反対する人と、
    反対しない人では、神の全知全能に対する認識が違うのでは
    ないでしょうか?

    管理人様の記事やコメントなどを読んでいると、
    「神は歴史の主である」、「神は苦難をももたらされる」
    という信仰があることがわかります。
    しかしテロ等準備罪に反対するクリスチャン、
    あるいは左翼的なクリスチャンは、
    もしかして上の2つの教義を信じていないのでは?
    と思ったのです。つまり神は人間を通じて、
    この世界に「神の王国」を実現するのだ、という考え方で、
    神様は人間を手助けする存在と考えられているのでは?

    色々と頭がゴチャゴチャになってきました。。。

    話は変わりますが、韓国の大統領が、
    またも慰安婦問題に関して謝罪を求めてきました。
    どうせ日本人がいくら謝罪と賠償をしても、
    未来永劫、日本人は悪者扱いされて、謝罪を求められる
    のでしょうね。もういい加減うんざりしています。

  15. 通りすがりのトマス 様

    ご無沙汰しています。まさしく仰る通りで、日本は非西欧圏にいますから、聖書的キリスト教が西欧に伝わった形での、つまり西欧に文脈されたものを、そのまま日本に植え付けようとしたところで、誤ちがあったのだと思います。一般の日本の人々が、イエス・キリストが白人で、欧米人なのだろうと思っているでしょうし、また聖書も原語は英語でしょ?と尋ねる人が多かろうと思います。それは、「欧米化されたキリスト教」がキリスト教だと思って、キリスト者自身も信じていることです。

    以前の意見交換で触発されてブログ記事をいくつか書いておりました。

    西洋につながらないアジア宣教
    日本宣教と「ヘブライ的思考」
    ヘブライ的思考①:「区別」があるようで無いような曖昧さ

    そして「プチ迫害」についてのご指摘もその通りです。「キリスト教は排他的で独善的」「多神教は平和的で寛容」という意見は、イラク戦争後に強くなったのではないかと思います。旧民主党の創憲案の文言に、まさに一神教に対する露骨な批判がありました。

    しかし、その他はまさに、日本のキリスト者は、社会的、国から、迫害などはされておらず、むしろ社会的には「非常に嫌がっている」というアレルギーのほうが強いと思います。(私も戸外で、教会案内のチラシを配ることがありますが、日本人の拒否反応と中国人の肯定的反応は対照的です。彼らの多くが「教会?行ってみたい。」であります。国としては前者が信教の自由を認め、後者が制限しているはずなのですが、真逆の反応です。)

    ですから、大事なのは、拒否されたからといって、こちら(キリスト者側)が委縮したり、自己防衛的になるのではなく、「なぜそのように拒否してしまうのだろうか?」と、想像してみることだと思います。すると意外に、自分たちの信仰自体を拒否しているのではないことに気づくと思います。そうすれば、もっと大らかに対応できると思います。

    そして、以下のご質問について
    ~~~
    「神は歴史の主である」、「神は苦難をももたらされる」
    という信仰があることがわかります。
    しかしテロ等準備罪に反対するクリスチャン、
    あるいは左翼的なクリスチャンは、
    もしかして上の2つの教義を信じていないのでは?
    と思ったのです。つまり神は人間を通じて、
    この世界に「神の王国」を実現するのだ、という考え方で、
    神様は人間を手助けする存在と考えられているのでは?
    ~~~

    あながちそうかもしれません。もちろん二つの教義を信じていないとその方々が言われたら、強く否定されることでしょう。けれども、「この世界に神の国が到来する」と考えずに、「この世界に今、自分たちで神の国を実現するのだ」という流れの神学が確かに欧米にあり、それを取り入れている傾向が見えます。これは、欧米のキリスト教社会が前提の神学なのですが、日本で植え付けても意味がありません。日本では、もっと非西欧圏での宣教を学ぶべきだと思います。

  16. 戦時中、日本のキリスト教会が当時の国の方針に追従したという負の経験があります。その中で、少数のキリスト教会が弾圧の標的になり、最も顕著だったのが、「ホーリネス弾圧事件」です。

    しかし、その信仰の軌跡は、「迫害の中でも信仰の証しを立てた」という苦しく、悲しみが多分にあっても、それでも光を見ることのできるものであります。ところが、「どんな苦しみの中でも平安がある」という「信仰の自由」を、今の関連教会諸団体が、「信教の自由」という、キリスト教を背景とした欧米社会の中で築かれた政治的概念にすり替えてしまっていることが、残念でなりません。

    ~~~~
    ホーリネス弾圧事件からの継承 宗教弾圧の家族の手記

     米田豊師の手記に、「森五郎師と車田秋次師と私の三人は、取り調べを受ける以外にも、手記をしたり雑用をさせられたが、いつもニコニコしているので監視の巡査が感心していた」とあります。

     一九四三(昭一八)年九月一三日、母が上海から父に面会に来ました。ちょうど三男・尚(たかし)が東京歯科大学を卒業し、翌年一月に陸軍部隊へ入隊することが決まっていましたので、母と一緒に三人で面会に行きました。

     霞ヶ関の警視庁の面会所で呼び出しを待っていて、ふと室外に出た時、裏口の方から編笠を深く被り、手錠をかけられ、素足で雪駄の草履を履いて、数珠つなぎに歩いてきた七―八人の囚人服の人達を見ました。それは何とも変わり果てた牧師達の姿でした。その中に父・森五郎の姿がありました。私にはあの先生、この先生と推察することができました。

     そのうちに呼び出しがあり、予審判事の部屋に三人で入りました。その時の父の顔色は臘人形のように白く腫れあがり、その状態を見ただけで、留置場の生活がどんなものか想像がつきました。

     十ヶ月の留置場生活から東京拘置所に移される時、監視の巡査に「君がいなくなると寂しくなるよ」と言われたと、迎えに行った谷中が聞き、後日「森五郎の存在はいかに大きな平安を人々に与えたか。良き証し人であった」と語っています。

     父が拘置所へ送られる時、同乗した警察官が、九段周辺を通って車外を見て、「これがこの世にあって、桜の見納めだぞ」と言われたそうですが、十か月に及ぶ拘置所生活も、森と谷中の実家、そして信者の皆様からの愛のプレゼントでどんなに大きな慰めを頂いたことでしょうか。

     普通人の独房の日常は空虚と無聊に苦しむそうですが、父は「一匹の蝿も友達であったよ」と言い、瞑想すると、「私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩篇一一九・一一)と、聖句が次々浮かんで大いに慰められたと語りました。

  17. そうですね。「欧米化されたキリスト教」を信じる
    クリスチャンが日本のキリスト教会の主導権を握ってきた
    期間があまりに長かったせいで(というより、戦後ずっと)、
    日本人の間で「キリスト教=白人の宗教」という
    概念が固定化されてしまった気がします。

    実のところ、私自身も「黒人のクリスチャンが存在する」
    ということが、頭では理解できているのですが、実感がわきません。
    アフリカ系アメリカ人でクリスチャンという人の話を聞くと、
    どうしても「奴隷の子孫」という言葉が頭に浮かんでしまいます。

    管理人様は「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」
    という本はすでにお読みになりましたか?
    もし読まれていなければ、お薦めいたします。
    戦前の日本におけるキリスト教の土着化の
    運動、キリスト教系新宗教、また土着化は万能かという疑問、
    キリスト教会における白人優位主義の問題点の指摘など、
    とても参考になる記述が多い本です。

  18. 社会的な善を追求する(社会悪をただす)行動をしないことも、聖書的ではないし、本来の福音宣教や信仰(霊的な面)そっちのけで社会運動に傾倒することも、聖書的ではない、と思います。

    何を優先すべきか?考える必要があるでしょう。良いことであっても、優先順位を間違えると、それが害悪になってしまうことがあると思います。

  19. エパタさん、

    「社会的な善を追求する(社会悪をただす)行動」というのは、現代日本の社会の中で、具体的にはどのようなことをお考えになっているでしょうか?

  20. 政治的声明を過剰に出していることによって、政治的な反動を懸念しているのが、このブログ投稿の主旨なのですが、それを「政治には全く関わらないということなのですか?」という反応を、しばしばいただきます。人間が、政治性もある社会に生きている限り、当然ながら福音の中に生きるなら、政治と無関係になることはあり得ません。

    別投稿で、キリスト者が政治活動に関与することと、福音宣教を政治化することの違いを説明いたしました。個々人のキリスト者が政治家になる、主の導きによって政治にかかわる活動をする、また、有志のキリスト者が政治的な発言、声明を出すことなど、いろいろあると思います。それと諸教団や諸団体が、その名前で現政権の政策に反対する声明を出すことは、大きな違いがあると感じています。その内容を、以下の記事で書きました。

    福音の政治化
    (<世の証しとしての政治活動と、福音の政治化の違い>の部分)

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