毎年、この時期に仙台の実家に戻るのですが、ずっと気になっていたことを行ないました。それは自分の故郷での切支丹の歴史を辿ることです。だれか案内してくださる方がいないかと思っていたところ、今年二月、N牧師と話している時に、ご自分の奥様がとても詳しいということで、お頼みしました。14年前に信仰をもった両親にも見せたいと思い、両親と、それから車の運転を手伝ってくださったN姉妹と共に、行きました。
広瀬川の殉教者(女子パウロ会)
仙台の西公園の端、広瀬川の大橋の横に、この記念碑が立っています。冬の極寒の中、水牢によって殉教した切支丹と伴天連を記念しています。しかし、彼らだけが処刑されたのではなく、ここら辺には裁判所もあったそうで、他にも多くの切支丹が殉教したと言われています。
興味深かったのは、言わずと知れた今の仙台を造った伊達政宗の切支丹対策です。彼は当時の他の大名と同じように、貿易による収益などから、キリスト教の布教には寛大でありました。けれども、江戸幕府から禁教令が出ると、自分の身内や周囲にも切支丹がいる中で、処罰したことを言いつつも、完全には処罰していないということを行なっていたようです。
天下を取れなかった、けれども仙台藩のプライドを保つための工夫、知恵と言いましょうか。
次に行ったのは、仙台を北上して黒川郡にあります。ここは、龍華院というお寺の中にあり、そこにある地蔵がマリア観音とのことです。観音の左上などに、僅かに十字架の跡が残っています。
寺の中にも入り、隠れた部屋が二階にあって、おそらくここで隠れ切支丹が集まっていたのではないか?と言われているそうです。
住職の大宮司 慎一さんが「黒川郡隠れキリシタン信仰~マリア観音と製鉄」という本を記していて、8年もかけて調査した切支丹の痕跡を辿っています。
参考記事:隠れキリシタン信仰と郷土史への誘い(前編)
ここで感動したのは、その地域のある小学校での出来事。なんと、ある子が「私は切支丹の末裔」であることを、学校の仲間に話したということ!昔の話ではなく、つい最近の話です。口伝の力は凄いです、切支丹について、江戸幕府側では当然、記録を残しておらず、あるいは証拠を潰し、残っているのは西欧にある文献のみですが、しかし隠れ切支丹は、証拠を残さない方法、つまり口伝によって信仰を継承していったということ。
もしかしたら、その辺りの各家族を丹念に訪問して、話付き合いができれば、もっと隠れ切支丹の末裔であることを話してくれるのではないか?とN牧師夫人は、話しておられました。
支倉常長と言えば、伊達政宗の命を受けてローマを謁見した武士で、切支丹になった人ですが、初の太平洋、大西洋横断をした日本人であるにも関わらず、あまり知られてないのは不思議です。私は地元の人間なので、支倉常長のことを一般に日本では知られていないことを知って、逆に驚きでした。
彼が7年間の苛酷な旅から戻って来た時には、既に切支丹禁教となっていました。しかし伊達政宗は、彼を死んだことにして、彼に隠遁生活をこの辺りでさせていたのではないか、と言われています。彼の墓は今、三つあるのですが、大郷町のこの墓は、義弟の墓が近くに見つかっており、それで信憑性が高いと言われています。
そして最後に、N牧師ご夫妻の教会に訪問させていただきました。この地域に福音宣教をするということは、こうした、流された聖い血があること、信仰の継承がものすごく細い底流となって続いている地であること、そこに主が教会を建てておられることを思いました。
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私の先祖に隠れキリシタンの家系があります。あまり人目につかない所に墓地があり、一緒にマリア観音像も置いてありました。
その村には支倉常長の乳母?をしていたとされる椎名という女性も住んでいたみたいです。
以前から、気になる事があり亡くなった、大正4年生まれの父が亡くなる前にクオーターだった事が判りました。宮城県十三浜に明治生まれの祖父がいて、親戚の叔父や叔母が髪が金髪に近く、目の色も金茶色で肌も白人のようにピンクっぽい白でした。志津川で育った私も姉も金茶の髪で小さい時には、イジメられたりしました。宮城県十三浜にもキリシタンがいたのでしょうか?
臼井さん今晩は、私は十三浜に在住する佐藤清吾と申す老人です。臼井さんの書き込みを見つけたので少し書いてみます。臼井さんのご先祖が十三浜だと聞いて、しかもキリシタンだったかもしれなくてルーツをたどりたいとの思いを持っていることに興味を持ったのです。すでにご存じのこととは思いますが十三浜は昭和30年に旧橋浦村と合併して北上村から町政を施行して町になりました。平成17年に今度は石巻市と広域合併で石巻市に包含されました。昔の十三浜は半農半漁の村でしたが今は養殖漁業が盛んな地域です、郡も昔は本吉郡でしたが橋浦と合併する時に桃生郡になりました、藩政時代には十三浜にはキリシタンがだいぶ居たことは知られていましたが町史にはさらっとかすった程度で詳しくは書いておりません、私も町史編纂委員と執筆委員もしておりましたが今調査したことでこれ程キリシタンが居たとは思ってもいませんでした。私は先週3日にカトリックの牧師さんたちと岩手のキリシタン殉教地を訪ねて歩きました。水沢の後藤寿庵の事績や千葉土佐ノかかわり、藤沢の大籠の殉教地、など詳しく見てきました。製鉄とキリシタンは何処でもセットですが十三浜にも「たたら製鉄」の後が沢山あります。北上川の砂鉄が豊富なことから盛んだったと思われます。鹿児島にザビエルが来たのは1549年ですが私の妻も十三浜ですが妻の実家には1559年のキリシタン墓地が現存しています。ザビエルが日本生きて僅か10年で十三浜にキリシタンがお墓を持つまでに盛んになっていたことがわかって西から伝来したという歴史の見直しが現実化してきました、。西の方では西伝来説で凝り固まっているのでこれは聞き捨てにしたいとの言質が如実であります。ここまではっきりしたのは仙台の大学の教授のご両親が十三浜の出で8年半前に起きた東日本大震災でご両親の生家が悉く破壊されつくしたことから退官後に詳しく調査したいと私の家に何度も来宅されたことで私も案内がてら同行調査するようになっていたのでした。詳しくは今後の調査で分かる事二期待しています。臼井さんとともに是非詳しく知りたいものと思っていますので今後よろしくお願いいたします。
今年、十三浜の隠れキリシタンについて、知りたいと思い、十三浜に赴いて、車で走ってみましたが、それらしきものは見つけられませんでした。適当な野原で祈りを捧げ、帰ってきましたが、震災後ということもあり、地形も変わり、ネットで調べても、十三浜地区の隠れキリシタンについて述べられているものは見つけられませんでした。具体的な場所など分かりましたら、教えてください。