以下は、フェイスブックに書き込んだ投稿に加筆したものです。
「上」におられる神から、「心の中」の神を求める現代
以前、「感情の絶対化」という題名のブログ記事を書きましたが、最近、あることで、その書いたことと重なる内容のことを聞きました。今の社会に起こっている、深刻な問題だと思います。硬軟に「権威そのものを認めない」という傾向があるということです。
「だから、われわれは自分の感情が神のように絶対正しいと考える傾向がある。教師や上司の指導にとりあえず従っているフリをしていても、腹の中では自分の方が絶対に正しいと考えているようなときは、感情に支配されていると考えてまず間違いない。」(上のブログからの引用)
職場にしろ、教会にしろ、どこにしろ、立てられている人に、なぜか反発心を抱き、従いたくないという強い感情が出て来ること。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態にまでなってしまうこと。もしそうなっているのであれば、そこから離れることが賢いのですが、それでも反発心を抱きながら、自分の居場所を見つけています。
いわゆる「切れて」しまっている傾向が今日、強いと感じています。ちょっとした不愉快なこと、不快なことについて、そう感じることは正常な感覚ですが、それをいつまでも継続的に抱き、人間関係まで完全に断ち切り、自己完結した私的な空間を作って孤立しているか、あるいは、その反発心によって仲間づくりをして分派を作っているか、どちらにしても感情を自分の立ち位置の基にしてしまっていることがあります。
人は元来、権威を敬うように神から造られており、キリスト者であればそれが証しとなります。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)」けれども、今日のキリスト者やキリスト教会の中に、「権威から離れること=自由」であるかのような見方が意外に受け入れられています。神の国には、「誰も上に立っていない。みんなで一緒!」というものは全くありません。
権威を認めないというのは、危険な兆候です。権威を認めないということは、つまりは「自分を権威者にしている」「自分を神にしている」ことに他ならないからです。これは反キリストの特徴です。
「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。(ダニエル書11:37)」
そして終わりの日に出て来る偽教師たちの姿でもあります。
「彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。(2ペテロ2:10-12)」
「それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。(ユダ8)」
難しい時代になったと思います。
参考メッセージ:「黙示録13章1‐10節」(原稿)
負の感情のエネルギーが溜まってしまう理由
感情のコントロールが効かない人々が多くなっている理由の一つとして、「誰かからその人の考える価値観を押し付けられている。」ということを聞きました。それで負の感情がずっと溜まっていくということです。そのために、表向きは平静を装っていても、何気ない仕草やまた体の変調などでその感情が出てきている、あるいは、近しい人や、内輪にはその感情を出していき内弁慶になっていることが挙げられます。
自分の価値観の押し付けということでは、例えば、「みんながやっているから」ということだけで、自分の願っていることを子どもにいつの間にか押し付けて教えている母親がいて、それで子供が抑圧されている、ということを聞きました。職場のパワハラやモラハラもその一部でしょう。これもまた、結局は「権威の不在」から起こっています。上の権威を認めないので、残るは「自分自身の権威」しかないので、それで自分の価値観を人に押し付けている、ということです。
似たような感想を、以前もラオデキヤの教会を教えた時に書いていました。
東十条バイブルスタディ:黙示録3章14‐22節
http://www.logos-ministries.org/audio/revelation3_14-22.MP3
http://www.logos-ministries.org/new_b/rev3_14-22.pdf
ついに終わった、黙示録の七つの教会!一つずつの教会に対するイエス様への言葉を、みっちり当時の歴史や遺跡を眺めながら見てきたので、ものすごく時間がかかりました。もちろん、線路は続くよ、どこまでも~で、次回は4章、「その後に起こること」を見ていきます。
所感:「神の賜物だけを求め、神ご自身を退ける時代」
ラオデキヤの教会についての学び、深かった。現代社会に空気のように蔓延している最大の危機を取り扱っています。それは、「神とイエス様がなくても、神とイエス様と同じように自分たちで間に合っている」ということ。しかも、それが教会にある。つまり、「イエス様を必要としない、”間に合っています”教会」という究極の相矛盾した状態です。
世界、殊に日本のような自由が保障され、先進的な豊かな国だと、あまりにも当たり前で当然のように、一つ一つの権利を持っています。人権であるとか、自由であるとか、そういったものは、歴史の中で長年かけて、紆余曲折、キリスト教的な価値観に基づいて獲得した神からの賜物なわけで、神なしに考えるとおかしくなります。
神の賜物であるから、神を恐れて、神の御言葉に聞き従わないといけないけれども、神なしでその恵みと賜物だけが暴走して、マンモス化、モンスター化、偶像化しています。
例えば「平和」。平和でない状態は即、完全悪ととらえる。けれども、聖書は戦争をさえ用いる神の姿が出てきます。「人権」はどうでしょう?もし人権がない状態が完全悪であれば、神は人権を侵害された張本人であります。人を裁かれる時に、鳥獣にその死体を食わせるようなことまでされる方ですから。しかしイエス様は、「すべて造られたものの根源なる方」であり、神と人との関係は、そのような制度の中でキリストに従いなさいと言わせてしまう程の、もっともっと深い、根源的な善を求めている。
だから、戦争のある所にキリストの平和が同時に進み、人権が蹂躙されているところに、むしろ人々の尊厳が福音によって回復され、かつて植民地支配によってずたずたにされた国々で、今、霊的大覚醒が進行中です。福音は、人々をそれら悪とみなす制度に従いなさいと教えます。しかしその制度の中で、福音によって変えられた人々が増えていきます。それでその制度さえも、結局は無力化、形骸化させ、ついには瓦解していきます。社会改革をせずとも、根本的なところで、時間をかけて、主は変えてくだいます。これが、神の国のリアリティーではないのか?と思います。
今は、神から恵みを受けて、その賜物のゆえに、源なる神を退ける悲しい時代です。それゆえ、どんどん病的な状態が顕在化しています。しかも、ラオデキヤのように、教会の中にそれがしみ込んでいる、ということです。アーメンである方に、その方の語られることに、どんなに自分がそう感じなくても、そう思わなくても、どんなに自分の価値観と正反対のような文言が出てきても、「アーメン!」と言い続けないといけない、と感じます。