「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」(黙示14章10‐11節)
昨日は、東十条の学びで黙示録14章(原稿・音声)を学びました。先日、当ブログでセカンド・チャンスを改めて考える記事を載せましたが、それは「福音を聞いたことがない者が、死後に救われる機会があるのか」という問いかけでした。
けれども、そもそも、これまでじっくりと「地獄」というものが何なのか、何の思いをもって神はそれを造られているのか、またそこに神の正義があるのか、また憐れみもあるのか?という、「地獄」そのものについての教えから、私自身、目を逸らしていたことに気づきました。
毎週、いや毎回の聖書の学びで、私の信仰の中の奥深い部分で、地獄の存在を全く意識しなかったことはあり得ませんでした。非常に大切な教えである一方で、これを言葉にして、表に出すことに対する強い不快感が、どうしても付きまとってしまいます。
しかし、避けて通ってはいけないと思って調べてみました。
「愛の神は、人間を地獄で苦しめたりしないはずだ」は本当か?
一つ目は、以前当ブログで紹介した、「それでも神は実在するのか?」(リー・ストロベル著 いのちのことば社)です。本書は、キリスト者ではない方、求道者の方には特にお勧めです。キリスト教は良いかもしれないが、これこれの要素があるから、受け入れられないというような疑問に、真正面から取り組んでいる本です。そこに、上の副題の、地獄に対する疑問に返答している神学者の言葉が載っています。J.P.モーランドという方です。
まず、「地獄」という言葉を聞いただけで、強い反応を示してしまうことを早速指摘しています。それを極力、取り去って、地獄の存在が道徳的に正しいのかどうかを考える必要があると言っています。
神を拒む者が、その願い通りに
次に、地獄は「拷問部屋ではない」と説明します。地獄が、単なる、永遠に火に焼かれ続ける恐ろしい刑罰の場所ではないと説明します。そう、上の黙示録14章の「火と硫黄とで苦しめられる」の表現から、私たちの地獄に対する概念が、「ひたすら苦痛を加えられるところだ」とだけ、思ってしまいがちです。けれども、そこでは本質から目を逸らしてしまうことになります。
そうではなく、「神は自由意思を尊重される方」であるということです。神は善であられ、愛し、恵みに満ち、憐れみ深く、素晴らしい方であるけれども、人がそれを拒絶し続することによって、神を締め出すのであれば、神はその自由意志を尊重せざるを得ず、願いどおり神との決別を与えるしかない」ということです。
そう、地獄は、「神とその良き知らせを拒む者」たちの行くところであり、その願いがかなえられたところです。しかし、神のかたちに造られた人を神は消滅させるわけは行かず、それで神がおられないところ、ゆえに、神からの賜物であるあらゆる善も存在しないところに連れて行くしかない、ということであります。
そして忘れてはいけないのは、「愛情」だけがもてはやされる社会になってしまったが、神は正しく、聖なる方であり、その方が人をこよなく愛されているという前提が除去されてしまっているから、神のこの取り扱いが不正に見えるのだ、ということであります。
もちろん、地獄には刑罰があります。けれども、神から引き離されていること、自分の恥や苦悩や後悔に苛まれる所であります。初めはハデスですが、復活したら体も持ちますから、肉体的な悲嘆や苦痛も覚えることになる、ということです。ですから、刑罰であるけれども、自分の選択に対する当然の帰結だ、ということです。
やむを得ず造られた場所
そして、神が地獄を好ましいとされているのでは、全くありません。合衆国を例に出していますが、建国の父や開拓民たちは、刑務所の建築から始まったわけではなく、刑務所なしの社会を心から望んだだろうが、周りと足並みを揃えない人々が出て来て、刑務所を造らざるを得なかった、ということです。・・そうですね、マタイ25章には、地獄は悪魔とその手下のために用意されたものだと書かれています。
炎、虫、歯ぎしり
そして地獄の表現に、「彼らを食らううじは、尽きることなく、火は消えることがありません。(マルコ9:48)」のような表現があり、それに対する拒絶反応もありますが、これらは神のご性質や、地獄の恐ろしさを示す比喩表現であり、炎は裁く神を表わしています。
蛆については、興味深い説明をしていました。ゲヘナとは、エルサレムの南に走っている「ヒノムの谷」から来ている言葉ですが、そこは老廃物が焼却されているところなので、火が消えることがありません。その他、神殿内では毎週、数千頭もの動物がいけにえとして捧げられ、下水施設によって町の外のヒノムの谷に流し、そこの溜池のような所に集められたそうです。それで蛆虫がわいて、動物の死体を食べていたことだろう、とにかく汚い場所だ、とのことです。イエス様は、地獄はあの溜池よりも汚い所なのだ、ということを比喩的に教えたのこと。
そして歯ぎしりするというのは、拷問の痛みに耐えている姿ではなく、自分の失ったものに気づいた者たちの強い怒りの反応だとのことです。自己中で、自己陶酔型の人が、自分の思い通りにならなかった時の反応のようなものです。
天国こそ地獄
そして、私が最も頷いた根拠の一つが、「人生の中で神を一切拒む人にとっては、天国こそが地獄のような苦しいところ」だということです。私もこのことについては説教したことが何度かあります。例えば、非常に美形で魅力があり、自分よりもはるかに賢い人がいて、人前に出ると、みんな自分のことはそっちのけで、彼の話ばかりに夢中になるような部屋に入れられて、そんなところに24時間、30年間ずっと入れられていたら、とてつもなくきつい事でしょう、とのこと。私もこう説教したことがあります。「教会の礼拝、またキリスト者の間にいることが、とても苦痛だ。」と言っている人が、「では、天国に行きたいですか?」と尋ねて、「もちろん」と答えたら、「いや、来ないほうがいいですよ。そこで主イエス・キリストを夜も昼も、絶えず賛美し、この方にひれ伏している礼拝が捧げられていますから。」と答えます。
そして、「人は意識的に、天国を拒否し、地獄を拒否している選択をしている訳ではないが、けれども、毎日の生活の中で示される神の価値観を、天国の価値観を拒否する選択はしているだろう、その積み重ねがあるからなのだ」ということです。
私が今回、地獄の学びで、改めて示されたのがこの部分です。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:18‐20)」
つまり、私たちは天国や地獄を、死後の将来のこととして語っているから、まるで先行予約の切符のように話しているから、神の取り扱いに対して不公平に感じるのであって、実は、「神を拒んでいる人は、この地上で地獄の一部を味わっているし、そしてそれを選び続けている。神をキリストにあって受け入れている人は、この地上で天国の一部を味わっているし、それを選び続けている」ということなのです。
神とキリストを拒むことによって、良き知らせを拒むことによって、心にある空しさ、焦燥感、後悔、肉の欲望の縄目、自慢や高慢、他者の誹りなど、そういったものをむしろ好んで選んでいっているのです。「地獄は酷い」ではなく、すでに神の裁きを愛し、受け取り続けているのです。
神が、「罪から離れて、わたしの憐れみ、わたしの罪の赦しに立ち返りなさい。わたしの懐に飛び込みなさい。」と言われているのですが、それを愛さないで、相変わらず自分の道を選ぶならば、その先は死であることは、当然の帰結だということでしょう。
そして、個別の疑問にも答えています。
考慮されるべき責任能力
子供について、モーリー博士は「地獄に子供は存在しない」と断言しています。理由は、良い知らせを拒む余裕が与えられないで早死にしているから、ということだし、また聖書全体に、子供は御国の救いを表す比喩として使われ、地獄についての話で子供が例に出されることは無い、ということです。ダビデ王がバテ・シェバとの間に生まれた子が死んで、その子と自分が再会することを話しているところからも伺える、ということです。
私も、そうではないかと感じています。同じように、知的障碍者もそうでしょう、「信じる者が救われ、信じない者が滅びる」ということで、信じるという行為ができる、道義的責任を取ることが出来るのでなれば、その救われるための要件さえ満たされていないからです。しかし、アダムの犯した罪については、どうなのか?という問題もありますが、確かに彼らも罪人として生まれました。すべての人は福音によって救われるのですが、信じるという行為を、少なくとも私たちの考える方法ではできないのですから、何らかの神の憐れみがあることを信じることではないでしょうか。
福音を聞いたことのない人への裁きは軽い
同じように、地上における人徳は考慮されないのかという疑問に対して、博士は、「地獄に行った人全員が、同じ刑罰を受けることはない」として、マタイ11章20‐24節を引用しています。つまり、コラジン、ベツサイダ、カペナウムでは、イエス様の福音が最も濃厚に伝えられ、示されたところなのに拒んでいるので、「ツロやシドンのほうが、ソドムのほうが、さばきの日にはおまえたちより罰が軽いのだ」と主が言われているというところです。
ここは、セカンド・チャンス論者が最も気にしている問題に重なるところでしょう。福音を一度も聞く機会が与えられず死んだ人が救われる機会が与えられないのか?ということでありますが、彼らは「ある」と答えます。しかし、私は聖書的根拠がかなり乏しいと見ており、今、生きていることに対しての報いとしての永遠の命を、死後にまで持ち越すことは、神のご計画から大きく外れている、と見ています。
私は、宣教師が日本に入る前のこと等については、「主の御手に任せる」ということで良いのではないか?と思っています。世界宣教を見回しますと、宣教師が入ることのできないようなイスラム教の地域では、直接、夢や幻でイエス様が現れてくださる、ということも頻繁に起こっています。主がキリスト教圏以外のところでも、何かをしてくださっていると信じています。
しかしローマ1‐2章には、神を知らない異教徒、律法を知らない人々に対して、神は自然界にご栄光を現しているのにそれを拒んでいる、また心の良心が律法となって、それに背いているからそれにしたがって裁かれることを、はっきりと述べています。
しかし、裁きの量りは、はるかに軽いです。ソドムが軽いと言っているのですから、相当軽いでしょう。与えられた神の知識の量りに応じた裁きなのです。私たちはとかく、ソドムの同性愛による強姦に強く反応し、他方で、イエス様の素晴らしい御業を見ても「いいえ、自分は間に合っています」といって、丁重に断る無関心にはさほど悪を感じません。けれども、神は憐れみの基準によれば、前者よりも後者のほうがはるかに罪が重いのです。悪いことをしているよりも、自らを正しい、自分は神無しで十分だとして、神の憐れみを拒む実質的な無神論、高慢の罪を、神はもっと忌み嫌われます。
ではなぜ、「永遠の苦しみ」なのか?
そして永遠の刑罰というのは、不公平なのではないか?という問いに対しては、「神を拒むということに対する罰であるから、永遠の御国から離されており、ゆえに永遠の刑罰ということになる。」ということです。重刑であれば、地上で無期懲役になりますが、永遠の神に対する罪ですからそれ相応の刑期になるのです。
そして、「地獄で苦しむのなら、消滅させてしまったほうがよいのでは?」という疑問に対して、「消滅させることは、地獄よりもはるかに惨いこと」ということです。人は神のかたちに造られており、永遠に生きるように元々、造られているのだから、自分の選んだこと、その自由意志を尊重するような形のところにいるということが、最も人を尊重していることだということです。ここの説明は難しいので、そのまま引用します。「地獄は、人間の本質的価値に気づかせてくれる場所です。神は本質的価値を愛していますから、本質的価値の維持にも努めます。だからこそ、神は自分のイメージに創った人間を滅ぼすことを拒否します。人間を滅ぼさず(ここでは”消滅させず”という意味)、本質的価値を持つその存在を維持させようとするのです。」(参照:「霊魂消滅説」)
なるほど、ちょうど地上での、「死刑」ではなく、「無期懲役」のようなイメージが地獄なんだな、と思いました。死刑のほうがはるかに惨いです。でも、「どうせ獄屋にいるのだから、殺してしまったら?」と言ったら、その本質的価値を認めていないことになります。その価値を認めているからこその無期懲役、つまり永遠の獄屋なのです。
地獄のあることの意義
そして最後に、地獄について語ることは不愉快なことであるということは、神ご自身も地獄の存在を嫌っている、と言っています。そうでしょう、人間の世界にも、汚染物質、刑務所、ペットの殺処分、また戦争の現場もそうかもしれません、誰かがやらなければいけない「汚い仕事」があり、できれば無くしたいと願うものです。そのすぐそばで、傍らで、私たちは平和と安全、豊かな社会を享受しています。人の罪についての処理は、見たくないもの、考えたくないものでありますが、なければいけない存在です。
モーリー博士は、地獄の真理について、私もバネにしていた積極的意味を見いだします。「私たちが持つべき正しい姿勢とは、地獄が現実に存在することを認め、それに対する不快な感情をバネに行動することです。地獄を考えるときに、イエスを知らない人々は、神の真実を求める気持ちがさらに強まるでしょう。イエスを知っている人々は、まだイエスを知らない人々に彼の恵みと憐れみ溢れるメッセージを伝えていこう!と思うでしょう。」(318頁)
ここです、毎週の説教で感じていたこと、言葉にならなかった感情とはまさにこれでした。毎週の、主の素晴らしさや恵み、憐れみを説く説教には、言葉に出さずとも、隣り合わせに地獄に対する不快な感情があります。そこは神の領域であり、聖域であり、ちょうどアカンがエリコの聖絶のものを取ったよるような、愚かなことをしないように自戒している領域でありますが、「そこが聖絶されたところなのだ」という、神に対する畏怖を抱かせる場所でもあります。
もう一つ、次の言葉も書き留めたいと思います。「地獄とは、人間の尊厳と自由意思を示す永遠の記念碑なのです。その隔離された場所で、一、人間の選択の自由を尊重し、神の意思を押し付けない、二、神のイメージを持つ人間を大切にし、人間を滅ぼさない、という神の大事なメッセージが伝えられるのです。」(319頁)
自分の意志を押し通すならば、押し通せるところへどうぞ・・
長くなりましたが、これが「それでも神は実在するのか?」にある地獄についてのまとめです。もう一つ、調べたら見つかったのが、C.S.ルイス著の「天国と地獄の離婚―ひとつの夢」です。
Banished from Humanity: C.S. Lewis and the Doctrine of Hell
上の記事には、本書の説明が書かれていて、モーリー博士はC.S.ルイスの地獄の見方と似ていることを知りました。「最終的には、二種類の人がいることになる。神に対して『あなたの御心がなりますように』という人と、神が『あなたの意志の通りになるように』と言われる人とに。」あまりも言い得て妙、であります。
そして上の記事には、「神を拒む人は、地獄で自分の願ったりかなったりのことを得られる、すなわち神が不在であること。けれども、神が全ての善の源だから、願わなかったことがやってくる。善の不在でもある」ということが書いてあります。そう、ここはいつも、説教でも力説していますね。人は神のもたらす賜物は欲しがるけれども、その源である神ご自身を拒否します。けれども源を拒否すれば、賜物だけもらえるはずはなく、やがて霊は枯渇し、全く渇き切った所に行く、ということです。
「地獄がないことは、悪が裁かれないことを意味し、それ自体が悪である」また「地獄自体は道徳的に善である、善の神は悪を罰しなければいけないからだ」ということも述べています。さらに、イエス様が、聖書の中で最も頻繁に、地獄についてお語りになっていたことも指摘しています。
また、C.S.ルイスは、救済について包括主義ではないか?と思われる発言もしているそうで、けれども筆者は、「百人隊長コルネリオのように、まだ全ての知識が与えられなくとも、与えられているものに応答している人には、福音を聞く機会を神が引き寄せてくださる」という意味で、あらゆる民族への福音宣教を考えると、大事なことだと言及しています。これは、まさに日本での福音宣教の中で、神が摂理の中で、恵みをもって働かれる時によく起こることなのではないか?と私も感じています。
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死後の人は、悔い改めていない
最後に、D.A.カーソン博士による、地獄の教えを聞きました。彼は地獄については、今、欧米のキリスト教界に流行になっている「万人救済主義」に対して警鐘を鳴らすような言葉をよく語っています。
上のビデオで、「神は愛なのに、人を地獄に送るのか?」という質問に答えています。他の人たちと同じく、「神のすばらしさや聖さを喜んでいないならば、なぜ天国に行きたいと思うのか?」と言っています。そして大事なことは、「地獄には、深く悔恨している、悔い改めている罪人がいるのではない」ことだと言っています。他の彼の講義では、ラザロと金持ちのことに言及していました。ハデスの中の苦しみの場所で、金持ちは後悔の念を表しているけれども、全然、悔い改めていません。その自己中心性が火の中に苦しみよって変わることはありませんでした。「どうして死後に、悔い改めるかもしれないという思いが与えられると期待するのでしょうか。」ということを、話しています。しかしキリスト教の精髄は、神は介入されて、罪の縄目を解き、新たな命を与え、新たな渇きを与え、究極には新天新地に入れるのです。
地獄に送るということの前に、まず正義とは何か、罪とは何か、そしてその枠組みの中で神が公正であり、天においても、そして地獄においてでさえ、神が正しいことを認める、と言っています。
以上です!
※背景・基礎知識として、ウィキペディアの「地獄」の項目が、キリスト教会の地獄の教理をよくまとめています。
おはようございます。
前の記事では「原爆とキリスト教」について挑戦的な
(ちょっと慇懃無礼な)質問をしましたが、
それは私が、キリスト教(特に反日主義者のクリスチャン)
に対して好感を持っていないからだとお考え下さい。
キリスト教はあまり好きではありませんが、
宗教指導者としてのイエス・キリストは尊敬しておりますし、
古典としての聖書には敬意を持っております。
今回もまた実に素晴らしい記事です。
私は万人救済主義はすばらしい教義だとは思いますが、
一方で、聖書に根拠があるのか?と疑問を抱いておりました。
いくら「自由(フリー or リベラル)」キリスト教と言っても、
聖書をないがしろにすることはできないのではないか?
イエス様も地獄の話をしているではないか?
また地獄についても、私は「拷問部屋」というイメージを持って
おりましたが、今回の記事を読んで目から鱗が落ちました。
イエス様の地獄の表現は「比喩」だったわけですね。
仮に万人救済の教義が事実だとして、
全員が天国に入れるとしても、
多分「神様を拒む人」というのは死んだ後でも
神様を拒み続けるのではないか、とも思いました。
「人生の中で神を一切拒む人にとっては、
天国こそが地獄のような苦しいところ」ということでしょう。
少々仏教の転生の概念に近くなりますが、
神様が人間を裁いて、悪い人間を地獄に送り込む、
というよりも、人間が心の中に悪の要素を蓄積していって、
死んだ後、霊が欲望の赴くまま地獄の方に行ってしまう
(つまり神の存在しない世界へ行ってしまう)
というイメージを私は抱いたのですが。
トマスさん、いつもながら、適切なご質問で感謝です。
原爆とキリスト教については、はい、十分に理解しているつもりです。(反日主義クリスチャンが、トマスさんのご意見を見て、少し反省してくれたらなと思います。)私も、キリスト教会に関わっている者ですが、決して組織として、ましてや国としてのキリスト教を信じませんでした。あくまでも、イエス・キリストが自分の主となり、また聖書は、神の息吹の言葉だと信じ、生活しております。多くの一般の信者も同じように信じているでしょう。
地獄の表現が比喩ということについては、「そのような比喩を使うほどの苦しみがある」という点を抑えておかないといけないと思います。比喩だから苦しまない、という結論ではなくその反対です。
本書でのモーランド博士の説明では、例えば「火」と言っても、燃えつくされることはないのだから、物理的な火ではないことは明らかだ、ということです。イエスが、「わたしは羊の門です」と言われても、まさか物理的な門にイエスが変身したわけではありません。そういった意味での比喩表現です。
ハデスにおいて、あの金持ちは「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。(ルカ16:24)」と言っています。ですから、苦しむという側面は必ずあると思います。しかし、これを単なる拷問と捉えれば、その本質が見失われるということですね。
聖なる神は燃える火の中で現れました(出エジプト3:4)。金持ちの炎の中の苦しみは、聖なる神の前で、自分のしたことがその光によって全て明らかにされ、恥を受けている状態です。ダビデも罪を犯すと、体内が日照りのように渇き切ったと告白しています(箴言32:4)。罪を犯し続け悔い改めていない者を、「水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木(ユダ12節)」のように表現されています。
そして自分の行なったことの報いを受けている状態です。ラザロが地上で苦しんでいるのに省みなかった分、今、強制的に省みるようにさせられている、ということです。(しかし、この金持ちは全然、そのことに気づかず、悔い改めてもいません。)
このように地獄は実体があるのですが、その激しい描写のゆえに、その本質を見ないでしまっている、ということだと思います。
そして神を拒む者が、天に送り込まれても、そこが地獄のように苦しいということは、そうですね、そうなんだと思います。C.S.ルイスの「天国と地獄の離婚」には、地獄から来た者たちが、せっかく天の近くに来ているのに、やはり地獄に自ら戻っていく姿が寓話的に描かれているのだそうです。
そして、最後に仏教の転生と重なる部分があるという点ですが、確かに重なる部分があると思います。けれども、やはり仏教では因果応報のような、神無しで説明しているのに対して、キリスト教は確かに、神が裁き主であられ、その人の行ないに応じて、公正に裁かれるということですね。
要は、ひたすら虐げるイメージの強い「拷問部屋」ではなく、公正な裁判官が、その人の行ないに応じて、しかも悔恨するつもりのない者に対して、正しく厳しい裁きを下している、というイメージでしょう。そして、平和で秩序ある社会の傍らに、刑務所で無期懲役の者が生きているのと同じように、神の御国においてその平和と正義を保つために、永遠の獄屋を置き、無期懲役にさせているというイメージだと思います。
こんにちは。久々にHPを拝見しました。
子供の場合、亡くなった年齢が4歳未満なら、全員が天国に行けるそうです。
これは、神の憐れみだと思います。
地獄については、段階があるようです。
いま一番ひどい地獄に居る人物は、ヒットラーだそうです。
ユダヤ人を虐殺した事についての罰が大きいかと想像します。
セカンドチャンスは、ありません。選ぶチャンスは肉体が生きている間だけです。
福音を聴いていながら、無視した人は、全く福音を聴かされなかった人よりも酷い場所に行くと思います。これは聖書にあるとおりです。
地獄は、火も蛆も尽きない場所だと思います。そして死にたくても死ねない場所。自殺すると地獄に行くみたいです。
それより、私は、主イエスを自分の心に受け入れる前こそが、生き地獄でした。自殺願望もありましたし。ココロが、カラカラに渇いていました。
思い出したくもありません。
今は、心がうるおっているので、もう心の中は、もう天国なのかなと。
そして、死後の天国の状態は、今の私に想像がつかない位、良い場所と思います。聖書にある通りです。
永遠の場所を決定する事は、肉体の死の最期の瞬間まで、主イエスキリストに従い通せるか否かが、鍵だと思います。
ちなみに、使徒信条と主の祈りを、心の底から受け入れ、聖霊をいただいている人々がクリスチャンで、ただ教会に行っているだけの人が必ずしもクリスチャンとは限りません。水の洗礼も大切ですが、一番大切なのは、聖霊をいただいているかどうかです。
このHPも、主イエスからの導きが豊かにありますように。
もし間違っている場所があったら、主が直してくださいますように。
書き込みありがとうございます。自殺願望があったのに、主によって救われたのですね。主の恵みが留まっていますように。
以下、ちょっと気になった部分、私とは意見が違う部分を書かせていただきます。
> 子供の場合、亡くなった年齢が4歳未満なら、全員が天国に行けるそうです。
4歳未満という数字は出せないと思います。聖書に書いていませんから。
> いま一番ひどい地獄に居る人物は、ヒットラーだそうです。
ヒットラーは極悪の代表としてよく取り上げられますが、人の心を全てご存知の方は神のみです。私は先のブログで書きましたように、個々人の死後の魂の状態がどうなっているかを裁くことはできないと思っています。
> 自殺すると地獄に行くみたいです。
これの根拠は人間の推理、理屈であって、聖書には自殺者が地獄に行くという教理は導き出せません。
> 永遠の場所を決定する事は、肉体の死の最期の瞬間まで、主イエスキリストに従い通せるか否かが、鍵だと思います。
救いは行ないではなく、神の恵みであり選びです。従い通すことまでも、神の助けと御霊の働きがなければできないことです。「肉体の死の最期の瞬間まで」というのは、そこまで具体的にはっきり言えるのかな?とは思いました。
返答有難うございます。
確信を持った事は、かなりビシバシと言い切りますので、ご気分を害されたのならすみません。
すべては、恵みにより天国に行った時にあきらかになるので、ここで議論するのは賢明ではないと思い、これ以上は申しません。
ところで、聖書といえば、残念なのは、いま日本中に出回っている殆どの日本語の聖書(文語訳、口語訳、新改訳)がネストレ・アーラントというギリシャ語からの翻訳なので、第一ヨハネ5:7,8の重要部分が、抜けていることです。
ここの抜けにより、聖書に書いていないからという理由で三位一体を否定するという、信じがたい偽教理が発生しているのは非常に残念なことです。
英語翻訳の聖書の中、KJVには明記されているのですが。
第一ヨハネ5:7、8
7 For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.
8 And there are three that bear witness in earth, the Spirit, and the water, and the blood: and these three agree in one.
KJVは、ネストレ・アーラントではない、レセプトゥス・テキストスというギリシャ語聖書からの翻訳です。http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Greek_Index.htm
この三位一体が明記されているほうが、正しい聖書だと直感します。今ひたすら日本語の翻訳を待っています。
正しい聖書は重要です。
語学がお上手のようなので、是非とも翻訳を御願いしたいです。
どうぞ宜しくお願いします。
再び返信ありがとうございます。このギリシヤ語底本についての議論について、私も似たような問題意識、課題は感じております。けれども、「信じがたい偽教理」とまで断言するところに違和感を抱きます。
私たちは真摯に、真理を求めていくものですが、同時に「全てのことが、私たちに知られているのではない」という謙虚さも、聖書には書いてあります。ローマ14章には、他の兄弟の意見について裁いてはいけないという戒めもあります。
このHPを運営して下さり有難うございます。
私はHPを持っていないので、上記のように意見を書かせて頂くだけでも感謝です。
書く言葉、電話で話す言葉 これらに限界を感じました。
いつか直接お会いして、お話できればと願っております。
主にありて
興味深く、拝読させていただきました。
2013年以降、天国と地獄について、よく考えるようになりました。
それは、私の二人の子供たちに伝道するにあたって、それをどういう風に説明したらいいのだろうと、いう中でのことでした。
2つの例話を子供たちに話しました。その話を準備したり、また、話した後で、色々と考える中で、自分の中では腑に落ちた感じがしました。
1つ目は、幼稚園の先生が子供たちに質問をした時のお話が載っていて、それが参考になりました。
「ここに椅子が3つあります。お友達は4人います。何人が椅子に座れるかな?」という質問に対して、ある子供が「先生、4人みんな座れるよ。」と答えました。
「なんで?椅子は3つしかないんだよ?1つ足りなくない?」と返す先生に子供は、
「わたし、お友達と一緒に半分ずつにして座るから、みんな座れるよ。」と答えました。
勝ち組、負け組み、弱肉強食、自然淘汰、という世界観には相容れない世界が天国だと思いました。悪魔は、人間が争って椅子を奪い合うようにそそのかしていると思います。
神様は、そのような状況の中で、わたしたち一人一人がどのような選択をし、実行していくのかを見ておられると思います。悪魔は、妬みや嫉みを駆り立て、最終的には、
神様への不信や、反逆に導こうとしますが、実際の神様は違います。
エリヤの時代のサレプタの女が、エリヤ(神様)の求めの通りに、自分と子供のために残ったパンを、まずエリヤに与えたあとに、溢れるばかりの祝福を用意してくださっていたように。
もう一つは、礼拝の説教で聞いた例話です。
「天国も地獄も、その住民たちの手には長い箸が据え付けられています。天国では、和やかな雰囲気で、みんなが楽しそうでした。食事の時には、お互いに食べさせあって、みんなが食べることができていました。
一方、地獄の方は、しーんと、静まりかえっていて、食事はテーブルに残ったままでした。人に食べさせてあげる、また、食べさせてもらうということが、誰もが嫌がる結果、誰も食事をすることができずにいたのです。」
ただ、このお話を聞いて、私の身の回りでの人間模様と照らし合わせて考える時、ちょっと違うなと思いました。(天国での状況は、さておき。)
地獄で、仮にこのような状況に置かれたとしたら、静まりかえっているのではなく、皆がお互い箸で突きあって、血だらけで、皿は割れ、テーブルはひっくりかえり、しかも、誰も食にありつけずにいる・・・という方が現実的だと。
ヨシャパテの時代に、ヨシャパテの谷で大虐殺が起こったり、バビロン捕囚やローマによるエルサレム壊滅の際の家族が互いに食べあった、というようなことが起こるのは、「腕力」や、「目的達成する為の信念の強さ」、といったものが、思う存分発揮された結果起こったことであり(神様が許された中で)、霊でなく肉の欲求によって、歩み続けた末路を示しているばかりか、地獄を暗示していると、私は感じずにはいられません。
長くなりましたが、何を言いたいかと言うと、上でのC.S.ルイスの言葉の
「最終的には、二種類の人がいることになる。神に対して『あなたの御心がなりますように』という人と、神が『あなたの意志の通りになるように』と言われる人とに。」
これに尽きると思います。
ヨハネの黙示録について、英語ではRevelationであって日本語のタイトル名に違和感ある旨を以前の音声で何度か聞きましたが、文語訳の箴言29:18に「もくしなければたみはほしいままにす」とあり、こちらの意味であれば私にとっては丁度良く感じました。