今年も恒例の、カルバリーチャペル西東京と合同の、秋の修養会を行ないました。
教会家族 2017年 秋の修養会
(「キリスト教殉教者 記念研修会館」にて)
リンク先に、賛美、証し、メッセージの音声が掲載されています。(私の話した原稿は、こちらです。「②聖さを保つ交わり 」「 礼拝「肉の家族と教会家族」」「④神の家族の再会」)
聖書には、私たち信仰を持つ者たちは、「神の家族」(エペソ2章19節)と呼ばれています。信仰は単なる個人の救いや修養だけでなく、信じた者が共に結び合わされ、教会家族として共に生きていく姿を伝えています。
私たちの教会も、とても良い意味で落ち着きました。今年における大きな恵みは、80歳を超えた姉妹を含め、四人の方が7月にバプテスマを受けられたことです。その内、三人が修養会に参加しました。
そして、カルバリー西東京の兄弟姉妹との交わりも、ずっと前から知り合いであったかのように、初めて会う人々もとても打ち解けて交わっています。私もこの時はとてもゆったりできていて、近くにある温泉も手伝ってか、心がだらりと(?)開いた状態でお話しでき、またお話しを聞くことが出来ています。
関連記事:「秋の修養会2016年」「二つの修養会」「2013年秋の合同修養会」
明石様、いつもお疲れ様です。
今リンク先を見ましたが、東京都内にこのような、
大自然に囲まれたところがあるのですね!
私は地方の人間ですので、東京都というと、
奥多摩以外は全部都市部だと思っておりました。
さて、キリスト教の業界(?)についてお伺いしたいのですが、
キリスト教徒の一部が、聖霊の力で悪霊を追い出すと称して、
各地の神社仏閣に、油を撒いたり、落書きをしたり、
悪霊(=神社の神)追い出しの儀式をしたりしている、
という話を聞いたことがありますが、
彼らは一体どういう連中なのでしょうか?
私も以前調べてみたところ、マルコーシュという出版社の
「力の伝道・霊の戦いシリーズ」についての書評、
また「聖霊の第三の波」というキーワードに当たりました。
本日のニュースで、長野の善光寺に落書き被害という
のがあったのですが、お地蔵さんや本堂に書かれた
「バツ印」が、私には「十字架」に見えて仕方がないのですが?
クリスチャンがやったとはまだ断定はできませんが、
以前、韓国系日本人の牧師による油撒きの事件がありましたので、
クリスチャンによる犯行を疑わざるを得ません。
カリスマ派・聖霊の第三の波と呼ばれるグループについて、
ご教示をお願いします。ネットでの情報収集だけでは、
どうしても限界がありますので。。。
トマスさん、いつもの通り、コメントありがとうございます。
聖霊の第三の波については、私が信仰を持って間もないころ、1990年代でしょうか、日本にも導入されてきましたね。聖霊の働きについて、使徒行伝で見られる、異言(自分で理解できない言語)を語ることが、聖霊による満たしを受けた印として信じられるようになった、二十世紀初頭のアズサ通りでのリバイバル(霊的覚醒)によって、使徒行伝2章の五旬節(ペンテコステ)から、「ペンテコステ運動」が起こりました。
アズサ通リバイバル
ペンテコステ派
そして、異言のみならず、癒しなどその他、超自然的な体験を、聖霊の満たしに伴うことを強調する運動として、カリスマ運動が起こりました。1960年代以降のことです。ここでいうカリスマは、影響力がある意味のそれではなく、ギリシア語の「カリス=恵み」から来ている、聖霊の賜物のことを話しています。
カリスマ運動
そして「第三の波」と呼ばれているものは、従来、そのような働きに対して警戒していたはずの、保守的な聖書信仰を持っていた人々の間から、しるしや不思議を求めていく人々が出て来ました。
確かに、これらの聖霊の働きと呼ばれているものの中で、聖書に出て来る記述とはまるで違う実践や信じ方があり、明らかに逸脱しているので、従来のペンテコステ派やカリスマ派からさえも、警戒されていることがあります。神社に落書きをすることや、油まき事件は、まさにこれに該当しますね。
ちなみに、私個人、また自分の属している教会の群れは、保守的な聖書信仰を持ちながら、今も、異言や預言、癒しを主は行われると信じている、カリスマ派と保守的福音派の間ぐらいの立場を持っています。聖霊の現れもまた、聖書の中にしっかりかかれていますから、何が逸脱かは明確です。それから、超自然的な現れ以上に、愛を求めることが神の命令です(コリント第一13章)。
→ 「神学バランスにあるキリスト者の成熟」
返信ありがとうございました。ペンテコステ派が独立した教派、
カリスマ派は宗派を超えた運動というのは知っていたのですが、
どっちも同じに見えて仕方がなかったのです。
そして第三の波ですか、もともとカリスマ派を警戒していた
人たちの間から生まれてきた運動だったというのは、
少し意外でした。
昔のキリスト教会は、日本の宗教を見下す時に、
「私たちは程度の低いご利益信仰ではない」と言っていたと
聞いたことがありますが。。。現代ではキリスト教会が
「ご利益信仰」を求めるようになってしまったのでしょうか?
現世利益の信仰が決して悪いわけではありませんが、
それは宗教のすべてではないように思います。
私見ですが、「神様」が生きておられるならば、異言、預言、
癒しが行われるはずだ、という信仰はわかるのですが、
あまり「しるし(奇跡など超自然的現象)」に
とらわれ過ぎるのもどうでしょうか。
知恵を求めるギリシア人ではありませんが、
奇跡がなくとも宗教や神を信じることはできると思うのです。
「超自然的な現れ以上に、愛を求めること」、
明石様のこの一言ですべて言い尽くせると思います。