ある人によるイスラエルに関連するニュース紙をいつものように受け取りました。そこで独立戦争後、避難しなかったアラブ人に対してイスラエルは無条件で市民権を与えたことについて、括弧書きで、「在日韓国人に参政権さえ与えない日本と比べれば、破格的な寛容さである」ということを書いておられました。私の頭の中では大きな疑問符が何個も出てきてしまいました。(ここであえて、その方の名前を書きません。その方はこの日本においてイスラエルとユダヤ人問題についての啓蒙運動に尽力されており、心から感謝しているし、尊敬もしています。だから、不要な圧力を与えたくないというのが正直な気持ちです。)
けれども、このブログの読者の方々にはお伝えしたいことがあります。それはたとえ信仰者と言えども、個々の政治的・歴史的見解には相違が出てくるということです。自分の信仰生活でお世話になっている、尊敬している人が発言するすべてのことを、自分の思考と主が与えてくださった良心にしたがって精査することなく、鵜呑みにしてはいけません。そうでなければ、ちょうど「私はパウロにつく」「私はケパにつく」というコリントの教会の仲間割れと同じく、肉の働きの問題が出てきます。
そのことを踏まえて本題に戻りますが、私が日本の福音界に対して全般的に感じている疑問は、「社会正義を主張している人々、またその主張が必ずしも、聖書的真実を表しているのか?」ということです。具体的に説明してみましょう。
在日韓国人・朝鮮人の問題、そして今、話題になっている外国人参政権の問題ですが、在日韓国人の代表機関である民団はこれを強力に推し進めて、政府にも圧力をかけています。民主党もそれにかなり同情的な姿勢を示し、実際に法制化も考えていました。
一見、少数派の人々、社会的弱者に立たされている人々を擁護しており、それは聖書的に、クリスチャン的に適うことのように見えます。けれども、私はひねくれているのか、別の面を考えてしまいます。「特別視することによって、かえって彼らに欲を起こさせる、あるいは責任感を持てなくさせる誘惑になるのではないか。」ということです。
例えば、身体障害者の人々に「バリアーフリー」とか「ノーマライゼーション」という言葉がありますが、特別視することがかえって差別化をしており、普通化させることこそ真の人格尊重なのではないか?と考えがあります。特権をさらに増やすことによって、ただでさえ悩んでいるアイデンティティーの自我をますます増大させて、苦しめてしまうのではないかと私は考えます。
在日韓国人・朝鮮人は特別永住者という立場で、過去に日本国籍を有していた人々として、永住権よりもさらに権利が与えられています。そして既に帰化する条件は十分に満たしており、その申請をすれば他の外国人よりも容易に国籍を取得できます。そして社会的、文化的、言語的に、一世の人々を除いて「日本人」とほとんど変わることはありません。
残るは自分の民族的自尊心の問題、自分のルーツの問題です。日本は多民族国家という形態を取っていないので、その葛藤はかなり強いものでしょう。そしてほとんどの場合は、いろいろな他の実際的・具体的な事情があって帰化していない、ということでしょう。
私はこれまで、何人もの在日の人々に接してきました。本人たちに聞いたことがないので分からないのですが、在日の参政権についての意見はおそらく分かれることでしょう。「選挙をしたければ帰化すればよい。」と端的に書いている、在日の主婦の人のブログも先ほど読みました。日常生活における「本名」のこと、日本人なら当たり前のように持っている、特に役所における手続きなど、そういったところでの不便を強いられますが、多くの人は「それは帰化していないからだ。」という事実を甘受しています。
そして民団などの団体は、正直、その国の利益を代表する圧力団体です。その中にいる方々にお会いしたこともあり、とても良い方々ばかりでしたが、そうした人柄と切り離して考えなければいけません。政治的目標を持っていますが、それが必ずしも在日の人々の実情を反映しているとは限らないのです。(現に、北朝鮮の代表機関である総連は、在日の参政権に反対の立場を取っています。)
そしてなぜ在日の人たちからのこうした異論があまり聞こえて来ないのか?これはもちろん、韓国の文化と考え方があります。上にいる権力を持っている人々にはむかうのを嫌う性格、まだ一世の人々がいますから年を召した方々に対する心遣いなど、我々日本人よりももっとアジア的であり、年功制、権威主義、反個人主義などが絡み合っています。
そして在日朝鮮人であれば、さらに思想やイデオロギーが絡みます。本国が全体主義ですから、反発したら残っている親族の身が危ないです。マスコミで表明する言葉が、在日韓国人の人たちも、もっと、さらに抑えられたものであることを知らなければいけません。
長く書きましたが、このようないろいろな背景と事情が横たわっていることをお伝えしたかったからです。この問題を、イスラエルが、逃げなかったアラブ人に市民権を与えたことと比較しているのを見たとき、一気に文章の論理が吹っ飛んだ、と感じました。
日本国が敗戦した後、日本の朝鮮併合によって日本人であった彼らは、朝鮮人に戻りました。朝鮮人なのだから参政権も当然ながら失います。戦前には選挙権も非選挙権も存在していたのです。けれどもイスラエルは、アラブ人たちに市民権を与えたというのは、反対に戦争後の休戦ライン内の地を自分の国にしたから与えたのです。市民なのですから、当然、選挙権・被選挙権のどちらもあります。
そして六日戦争によってゴラン高原、西岸、ガザ地区をイスラエルが奪取しましたが、ゴラン高原と東エルサレムを併合しました。そこにいるアラブ人住民(またはドルーズ人)には、市民権を取得できるようにしました(多くが拒否していますが)。つまり「併合」することによって市民権を与えることができ、そうでなければ与えることができないのです。ですから事情が日本とイスラエルではほぼ正反対であり、それで私の頭の中で文章の論理が吹っ飛んでしまったのです。
もしイスラエルとアラブ人の関係を敷衍して在日の参政権を論じるなら、「日本はこれまで困難な歴史があったが、在日の人々の権利もほぼ回復し、帰化が簡単にできるようになった。また在日のままでいても、生活の基本的権利は十分保障されるようになった。」と言うべきです。
私は、日本は民主主義の近・現代国家として卑下すべきではない、十分に成熟した部分があると信じています。過去の歴史を清算する努力を、在日についての問題についても弛まず行なってきたと思います。