日韓関係の「もつれ」について取り扱っています。西岡力さんと言えば、救う会の会長として有名になっていますが、小泉首相が北朝鮮訪問をした10年以上前から拉致事件があったことを小論文の中で主張していた人で、本書にも掲載されています。
彼は日本の右派の人たちと協調している部分があるので、彼が福音派のクリスチャンだと言ったら驚く人もいるかもしれません。けれどもかつてリバイバル新聞で彼に対する取材記事が載りましたが、真実を限界がある中でも最大限追究するその姿勢は、黙示録20章にある「最後の審判」で自分が申し開きをしなければいけないという信仰が原動力になっているという記事を読みました。
彼のこの著作で感銘を受けたのは、「日本と韓国が経済的な協力と交流、協調をこれだけやってきたにも関わらず、なぜいろいろ関係がもつれることがあるのか?」という問いかけです。あまりにも身近になっているために、韓国の人も、日本の人も、既に持っている友好関係を見逃しているのではないか、ということに気づきました。
そしてこれは日本国内についても言えます。韓国にとっての日本への反発と、日本の中でのアメリカへの反発には似たものがあるからです。そして韓国がかつての独裁政権に批判的なのと、戦後日本の自民党政権に批判的なのがとても似ています。かつての韓国独裁制の中に大きな評価を見出すことのができるなら、今の日本も、かつての保守政治とその指導者に一定の評価を下さなければいけないのは?と思った次第です。
この本については、多くの人がご存知だと思います。拉致事件を知るためだけでなく、彼女の信仰の証しとして読むことができます。ヨブが通った苦しみを、自分が娘を失った苦しみと照らし合わせて、そしてそこにある神の深遠な御心を知り、信仰に至りました。だから彼女の信仰は深い神の主権に拠っています。周囲の人々がああだ、こうだ言っている中でも決してぶれない強さを持っています。
彼女が引用している御言葉で、西岡力さんも確か引用した聖句と同じものがありました。「主よ。私の心は高ぶらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(詩篇131:1)」
私たちの周りで起こっている事は、不思議なことが多いです。ぜんぜん理解できないと思って悩むことがあります。けれども、それは神の領域であり、「私はあなたの中にとどまっています」という決意が必要です。単純な信仰の中に生きることの必要性を学びました。