前投稿「パウロ ~愛と赦しの物語~」の続きです。
せっかくなので、「ローマ時代におけるキリスト者への迫害」は、教会史において、いや一般の世界史においても、大きく取り上げられているので、考察してみます。
キリスト教の信仰が「人類敵視の罪」
なぜキリスト者がローマ社会の中で迫害されたのか?それを、このネロの迫害を書き記したタキトュスによる記述を引用します。
「ネロ 1世紀中ごろのローマ帝国の皇帝。ローマの大火でキリスト教徒の迫害を行った。典型的な暴君として知られる。」から:
民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」(注:キリスト者のこと)と呼ばれていた者たちである。
この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この過悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猖獗(しょうけつ)をきわめていたのである。
そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである。ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。
そこで人々は、不憫の念を抱きだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなにむごたらしい懲罰にも値する。しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためではなく、ネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。<タキトゥス『年代記』下 岩波文庫 p.269-270>
相当な、キリスト教信仰に対する敵意と嫌悪感ですね。「人類敵視の罪」とまで表現しています。それが当時、ローマの史家・文人の多くが抱いていたそうです。(参照記事)「当時の考え方としては、キリスト教徒たちが、ローマの社会のうちで閉じた組織を作り、「人間の共同体生活の拒否を意味した」とのことですが、キリスト者が迫害を受けていた理由として、しばしば次の事柄が挙げられます。
・当時のローマ宗教は多神教であり、皇帝自身も国家宗教の神として崇められていましたが、キリスト者は崇めなかったため。
・神の前での平等を主張するキリスト者が、貴族階級から嫌われたため。
・ローマ人が目に見える偶像を拝んでいた中で、目に見える礼拝の対象を持たず、無神論と非難されたため。
・信者たちがこそこそと礼拝を行っていることが、秘密会議をしていると誤解されたため。
・信者の間の接吻が、近親相姦と誤解されたため。
・聖餐式が、イエスが「これはわたしの肉、わたしの血である」と言ったことから、人肉を食べていると言う噂が流れたため。
・キリスト者の増加に、皇帝が危惧を抱いた。
参照記事:
「ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰【前篇】」
「ローマ帝国の迫害とクリスチャン殉教者の信仰【後篇】」
現代のタキトュス
タキトゥスによる「人類敵視の罪」という言葉は、かなり強いものです。なぜ、そこまで嫌悪感を呼び起こすものなのか?そんなに危害をもたらすものなのか?と疑問に思います。ローマの時代とは大きく異なるでしょうが、現代も、キリスト者の信仰に対して、似たような敵意を持っている人々は一定数います。
時々、キリスト教や福音派に対して、ありもしないことを敵意をもって書いたり、確信的に、罵倒したりする発言を読むことがあります。いろいろな場合がありますが、上のタキトュスの書いたことと重ねると次のブログに書いているようなことかな?と思います。
「リベラルにある「キリスト教徒恐怖症」」から:
「彼らがキリスト教徒に関して持つ一般的なイメージは、キリスト教徒というのは時代遅れで危機意識が薄く、子どもじみていて科学が嫌いで、他人の生活に干渉したがる人たちだというものです」と、ヤンシー氏はクリスチャンポストに語った。
「しかし、さらに悪いことに、彼らは一般のキリスト教徒は悪いキリスト教指導者に操られており、指導者たちの望むままに投票するものだと考えています。彼らは、キリスト教指導者が神権政治を打ち立て、国民にキリスト教信仰を強要しようとしていると信じています。ですから、キリスト教恐怖症の人たちにとって、これは米国社会が進歩的社会に移行するための闘いなのです。多くの場合、キリスト教徒というのは、米国社会が進歩的な楽園を達成することを妨げる、強大な悪の力として見られているのです」
自分を安定させている世界観や秩序に、キリスト教の世界観が入り込むと恐れを抱くのでしょう。また、自分の正しさの基準において、それがとてつもない悪に見えるのだと思います。そういった土壌があって、ネロのような暴君が出てくると、一気に迫害の火が広がるのかもしれません。
「鳩のように優しく、蛇のように聡く」
そもそもが、イエス様が弟子たちには、ご自身が彼らを遣わすのは、狼の中に羊を遣わすようなもので、初めから敵意や嫌悪感があることは想定内であります。そこで、人々に対して優しい心を持つことと同時に、蛇のような聡さをもって知恵をもって、接していくということだと思います。
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