透き通って見える解説
久しぶりに「イスラム教の論理」という、イスラム関連の本を読みました。イスラム思想の研究者、飯山陽さんの存在を知ったのは、イスラム国の台頭によって、「どこまでもイスラム国」というブログを見つけたことです。非常に軽快な文章でもって、透き通るように、イスラム国の人たちが考えていることを説き明かしているので、役に立ち、フォローしていました。その後、ブログは「どこまでもイスラム世界」に軸足を移し、けれども今、最も発信しているところしては、ご自身のツイッターでしょう。本当に、いわゆる日本語にはほとんど全然、また英語でさえあまり伝えられていない、しかし生々しく起こっている世界各地のイスラム関係の出来事を、ここまでかというばかりに、情報の穴埋めをしてくださっている感じです。
このように情報提供をしてくださっている中、本書の購入をしたいと思いながら買っていなかったのですが、ついに高原剛一郎さんが、講演で本書を取り上げているのを見て、買った次第です。
英語で追っていた情報に一致した意見
読後の感想というか、印象ですが、「ここまで分かってしまって、いいのだろうか?」というものです。目の前に飯山さんがおられて、講義に参加させていただいているという感覚を持つほどでした。一般の日本の人たちの目線で、よくもここまでイスラム教の内部にある論理を説き明かせるものか、と、深く感心します。(この点について、苅部直教授による書評がありました。)
イスラム教については、米同時多発テロ以後、強い関心を持って読んできました。英文のものがほとんどであり、私の理解では「平和の宗教」という理解は、一切ありませんでした。日本語による説明は、信頼できないというか、ほとんど読んでいなかったのですが、池内恵氏による「現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義」から始まりました。この本で斬新だったのは、イスラム教の中における終末論、また陰謀論を取り上げたということです。
池内さんも飯山さんも、ご自分の研究している中において、あらゆる罵倒を浴び、その研究が「日本の業界」では相手にもされないということをしばしば話しておられますが、私にはそれがピンと来ませんでした。というのは、長いこと、英文によって得ている情報はずっと、まさしくお二人が書いている内容であり、それを日本語で確認できている、という感触を得ているからです。
参考記事:「【特別対談:池内恵・飯山陽】世界で起きている「イスラム問題」を語りつくす(上)」
例えば、米同時多発テロ以降、米国からの情報を、あるキリスト教の新聞の編集長の方に流している中で、在米イラク人の方へのインタビューをさせていただいたことがあります。その方は、イスラム教について「過激派、穏健派などと世間では区別しているが、本質的にはない。」という旨を話していました。本書の中でも、その論点に対して、数多くの説明を施されています。
後記:池内恵さんのユーチューブ番組に飯山さんが出演、そこで本書のことを題材に、イスラム教の教えについて話しています。
本書の内容について
内容については、まさに上の、高原剛一郎さんの講演の中で、その要約とも言ってよいことを語っておられます。また、出版社のページは、端的によくまとまっているでしょう。内容の要約はそこに譲ります。
キリスト教によるイスラム教への働きかけ
このブログ記事でお話ししたいことは、「では、キリスト者としてどう見るのか?」ということであります。キリスト者としては、自分たちがいかにイスラム教に対して正しいのか?という宗教的争いを吹っかけたいと思っていません。それは全く無意味であり、キリスト者は、イエスが愛されたように隣人を愛するように命じられています。
それよりも、彼らもコーランにおいて預言者と認めているイエスが、自分の罪から救うキリストであられ、神の御子であられることを知っていただければ、という思いがあります。
米同時多発テロ以後、宣教師向けの世界会議に参加しますと、必ずと言って言いぐらい、ムスリム宣教についての話が出てきます。そして、ムスリム伝道に従事している方々がスピーカーであったり、そしてイスラム教の国々で、迫害を受けながらも信仰を保っている方々の声も聞いたことがあります。ムスリムからキリスト者に回心した人は、本当に危険でありながら、筋金入りの信仰と情熱的な愛をもって、人々に伝道しています。福音派の神学校では、ムスリム宣教は大きな主題になっており、米国では、国内に流入するムスリムに対して、キリスト者が国内宣教をする働きも増えています。
キリスト教によるアプローチ
イスラム教に対しては、キリスト教側からいろいろなアプローチがありますが、次のように分類できるでしょう。
Polemic(論駁)
これは、パウロの手紙で言うならば、ガラテヤ書において、ユダヤ主義者に対して、いかにその福音と呼ばれているものが呪われたものであるのか、信仰による救い、その恵みの真理を保持するために、偽教師たちの主張を論駁し、論難しているものです。
「イスラム教過激派に福音を伝えるのは、同じように過激なキリスト教で応じるべき」とする、ジェイ・スミス氏による伝道はその一つです。(「「反対」の中にある福音宣教(2) - 過激なキリスト教への招き」)エジプトのコプト教神父のザカリア・ボトロス神父も、イスラム教を脱構築し、イエス様の福音を伝えています。(「イスラム教徒へ福音を伝えるボトロス神父」)
日本語によるものでは、Christian World Watchさんが、連載記事を書いておられますが、これは一つ一つ、じっくり読んで学んでいくべき硬派な内容が書かれています。
「キリスト教徒はイスラム教とどう向き合うべきか」シリーズの一部
拙ブログでも、論駁的内容を書かせていただいたことがあります。
Apologetic(弁証)
これは、護教とも呼ばれるもので、相手からの反論に弁証していくというような類のものです。パウロの手紙ではローマ書が、律法の行いによる義ではなく、信仰による義認の弁明を論述しているのが、それに相当するでしょう。
非常に丹念にイスラム教をキリスト教と対比させることによって、伝道を試みているものです。まず、膨大な情報のあるAnswering Islamがあります。そして、サウジ出身のムスリムであった、アル・ファディ氏は綿密な、キリスト教の弁証をイスラム教に対して行なっています。ムスリム向けの、キリスト教の信仰の弁証と紹介を膨大に行なっています。
Evangelistic(伝道)
こちらは、そのままイエス様の福音を伝えるものです。ムスリム伝道をしておられる方々には、聖書ではなく、コーランそのものを使って、イエス様を伝えている人々が多くいます。
イスラム教のイマーム(教師)が、コーランを読んで、かえってイエスへの信仰を持ったという証しを持つ、マリオ・ジョセフ氏がいます。
コーランからの伝道方法を紹介する本も出ています。
Testimonial(証言)
ムスリムであったけれども、イエスを信じるに至った経緯を証言する、数多くの証しがあります。日本語訳になっているのは、リーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリーズのチャンネルに数多くあります。
伝道者でもあるナビール・クレシ氏
ジハード戦士であったカマル・サリーム
「憎しみから愛へーイスラム教徒の女性」
Love in Action(愛の行い)
ムスリムの人がキリスト者になる時は、二つの場合が多いです。一つは、幻や夢を見ることです。そこでイエスに出会ったと言う人もかなりいます。もう一つは、キリスト者の愛の行いです。ムスリムの信じているアッラーにはない、その愛が大きな発見となって、信仰へと導かれるというということを聞きます。
以上ですが、飯山陽さんはイスラム思想の研究者であり、私たちの住んでいる、西洋発の近代国家の中でイスラム教にどう向き合えばよいのか?と問いへの材料を提供しておられるのに対して、キリスト者たちもその中に生きているので、多くの示唆を与えてくれるものですが、私たちにはさらに大きな使命があります。それが「ムスリムに対するキリストの愛」であり、福音宣教です。
きよきよさんよい書籍の紹介ありがとうございます。