靖国神社参拝について その1

続けて社会的・政治的なお話を致します。「靖国参拝」についてです。まずお断りしたいのは、具体的な政治的争点において、神はすべての啓示を与えられているわけではないことです。ですから個々のキリスト者によって意見が異なります。私がこれから述べる意見も、必ずしも受け入れなくて構いませんし、反対意見のお持ちの方は適当に流していただければと思います。

終戦記念日(8月15日)が近づいてきました。盆の時期でもあり、この時になると正月と同じく仏教・神道に関わる儀礼が多くなってきます。その中で靖国参拝は、避けて通ることのできない問題です。

私の靖国神社

私が初めてその敷地内に入ったのは、不思議なことに韓国からの兄弟たちの案内をする為でした。日本の人たちは驚くかもしれませんが、韓国人の日本観光名所の一つが靖国神社です。そして二回目には妻と一緒に「遊就館」も訪ねました。まるで戦時中に後戻りし、軍国少年になった気分になりました。

私は他の日本の人たちと同じように、元旦参りやお墓参りなど、神仏に囲まれて育った人間です。大学生の時にその参拝にどのような意味があるのか分からず悩み、そしてキリストの福音に触れて、そこに命に対する明確な解答を見出して信仰に入りました。自然そのものを崇拝する日本の習俗信仰とは違い、自然にある創造主の栄光の輝きを知ることができ、今は本当に幸せです。

けれども靖国神社は、幼い頃から原体験として残っている神社と大きく異なっていました。鳥居も何もかもが黒ずくめで、まるで焼け打ちにあったのではないかと感じてしまいました。

国の戦争に殉じて死んだ人々

けれども、これを「偶像崇拝」というだけで一蹴はできないという気持ちが今はあります。初めは考えたこともなかったことですが、「国のために死んだ人を敬う」というのは、一つの国に生きている人ならばごく自然に湧いてくる感情であることを気づきました。

過去に日本軍が行なったことのみに集中し、そしていわゆる「戦犯」も出した戦争ですから、なぜ敬うのか?と思われる人もいるかもしれません。けれども実戦で戦った個々人の死は、国が責任をもって追憶していくべきです。それがたとえ間違ったと言われる戦争であっても、「国の義務を果たす」ことを行なった人は「国」が敬う義務があります。

聖書の中にも、死者を葬ること、またその人が代々、記憶されていくことは、特に旧約時代において重視されています。むろん新約においては復活の希望が明確になりましたが、その人を追悼するのは「再会」の希望も含まれるようになりました。

靖国参拝に反対する韓国でも「顕忠院」と呼ばれる施設で戦争の殉死者は高く敬われています。キリスト者なら、そこで偶像礼拝に直結する儀礼には関わらないでしょうが、それでもその施設の是非は問題にさえならないはずです。政治的見解がたとえ異なっても、「国のために命を捧げた人」を敬うのは、人間であれば当たり前の感情だからです。

アメリカではもちろん「アーリントン国立墓地」があります。

果たしてこのごく自然な感情を抑えるところまで、神は御言葉の中で禁じておられるのでしょうか?人がどんな宗教を持っていたとしても、これは、人間であれば神が与えられた感情であると私は考えます。

ゆえに、日本のキリスト教会での「靖国参拝反対」の議論の中で、この部分が話題に上げていくべきではないかと感じます。

(「その2」に続く)

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