「史跡・都市を巡る トルコの歴史」

今年に入ってから、次の本を発見し、長い期間をかけて、実に四月初めのトルコの旅にも持参しながら、少しずつ読んでいった次の本を完読しました。

史跡・都市を巡る トルコの歴史 古代から20世紀までの文明を探る(野中恵子 著)

まずは出版社の紹介から:「トルコ各地の史跡・旧跡・古都・博物館などを巡り、その見聞を語りながらトルコの歴史を描いていきます。トルコは古代より文明が重層する地であり、キリスト教とイスラム教の二大帝国が存在した要衝です。本書では、そのトルコ各地の魅力を語り、そこから立ち上る古代から20世紀前葉までの歴史に思いを馳せつつ解説します。また、トルコの通史を理解する鍵を、アジア・イスラムという一般的なイメージのなかで、じつはローマ史であるという点においていることもポイントです。トルコ史の一般教養書としても旅行ガイドとしても楽しめる内容となっています。」

旧約の人類の始まりから新約を超えた悠久の歴史

私の聖地に対する想いは、1999年のイスラエルへの旅から始まり、合計、イスラエルへは五回、旅をしています(「聖地旅行記」のページ)。そして、その間にエジプトに一回、ヨルダンには二回、足を運んでいます。それは、聖書の舞台は現代イスラエルに収まっているのではなく、その周辺国にも及んでいるからです。

そして去年、2018年4月に初めて、新約聖書の舞台であるトルコとギリシアの旅をしました。ギリシアと言えば、私たちはすぐに新約聖書とのつながりを想起できますが、「トルコ」というと、世俗国家ですがイスラム教の国であるし、すぐに聖書と結びつかないのではないか?と思います。また、エジプトやヨルダンなど、アラブ人の国と混同して、そこが中東地域と誤解していることもあります。

けれども、「2018年トルコ・ギリシア旅行記」で既に書いていますように、トルコは創世記のエデンの園から、ノアの時代の洪水、そういった超古代から始まり、聖書の舞台であり続け、「小アジア」という使徒の働きの舞台でした。それだけでなく、パウロ、ペテロ、ヨハネを十二使徒を始め、テモテやルカなど、他の弟子たちも小アジア出身であり、そして初代教父と呼ばれる、新約聖書以後の教会指導者にも、ここを拠点としている人々が圧倒的に多かったのです。

「イスラエルが最も大事な聖地」であることは前提で、トルコは本当に魅力ある国です。

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イスタンブールに行っておいて良かった・・

実は、今年4月に行った牧師対象研修トルコ旅行では、あくまでも使徒の働きに書かれている、「シリアのアンティオキアからトロアスまでのパウロたちの宣教旅行」、また「黙示録の七つの教会」に再び訪問できると思っての参加でした。初めの三日間はイスタンブールで過ごし、正直、なんか時間がもったいないな、と感じていました。

「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて

けれども、本書が辿る歴史散歩には、東ローマ帝国の首都「コンスタンチノープル」であったことから、実につい最近の近代に至るまでの足跡に、私たちが訪ねたところが、本当に数多く出て来ることです!訪問したところであり、その文脈である歴史が、散歩道のごとく自然の流れとして語られていくので、わくわくして読むことができました。

「イスラム教のトルコ」は、たまねぎの茶色い皮
その下の何重層もの白い皮は、「ローマ」

本書での感動は、そうしたトルコのイメージが剥がされた、ということです。今のトルコの人々やイスラム教の国というイメージは、云わば、「たまねぎの外面の茶色の皮」のようなもので、その下にある何重層もの白い皮は「ローマ」だということです。しかも、私たちがイメージするような、西欧の母胎となっているローマではなく、イタリアのローマよりも東方、古代ギリシア人の植民都市ビザンティオンのローマ、東方のローマであります。

ローマ帝国にキリスト教が拡がり、迫害が終わらせた、キリスト教を公認するミラノ勅令(313年)以後、すぐに都を移しました(330年)。それ以後、実に1453年に、オスマン帝国に占領されるまで「ローマ」は続いていたのです。

さらに、本書の中で驚いたのは、オスマン朝が帝国として統治する時に、ビザンチンの「神の代理人」として皇帝に模して、「神の影」としてスルタンが存在していた、ということです。そしてビザンチン帝国下のキリスト教徒は特別な保護を受け、さらにはユダヤ教徒もオスマン朝の支配下で生きることが許され、「ローマ」の面影はそのまま続いて行くのです。

東方正教会をしっかり知れる

それから、もう一冊、「生き残った帝国ビザンティン」(井上浩一著)も読んでいました。

私たちプロテスタントの教会の信者に盲点なのは、昔からのキリスト教の教派というと、カトリックしか思い浮かばないことです。ローマ・カトリックはむしろ、後発隊なのです。カトリックとプロテスタントは西方教会ですが、その他に東方教会があり、ギリシア正教会から、他の正教会の諸派があり、エジプトのコプト教会もそうです。東西教会の大分裂(1054年)まではキリスト教と言えば正教会が主要であって、その後に、ローマ・カトリックからプロテスタント、それから福音派の諸教会が近年に出てきたのであり、遠い昔、キリスト教会がどうなっていたのかは、私たちの視界にさえ入っていないことに気づきました。

イスラエルでは、「ローマ時代」「ビザンチン時代」と区別して説明を受けます。前者が、公認前の異教のローマのことを指し、後者は公認後のローマのことを指しています。イエス様の生涯を覚える場所の多くが、例えば、ベツレヘムの生誕教会エルサレムの聖墳墓教会は、正教会のものです。聖地に行くと、カトリックがいかに後発隊であり、プロテスタントは相手にもされていないという勢いを感じます。(注:それでも僅かに感じるところは、ヨッパ門近くのクライスト・チャーチと、ゴードンのカルバリー「園の墓」です。英国委任統治時代に造られました。)

正教会の大御所とも言うべき存在は、ユスティニアヌス帝が造った聖ソフィア教会ですが、まさに聖墳墓教会の数倍の規模でとても似ています。そして今も、イスタンブールには、正教会のバチカンとも言うべき、総主教座である聖ゲオルギオス大聖堂があり、そこも訪れました。「史跡・都市を巡るトルコの歴史」のほうにも、これら各地の姿が、歴史の散歩という形で随所に出て来ます。

欧米列強の焚きつけた民族主義の禍根

筆者はあとがきで、個人の意見を述べておられますが、欧米列強によって解体されたオスマン帝国から国を救うために、アタトュルクが戦いを挑むのですが、そこで西欧が、オスマン帝国まで続いていた、モザイクのような諸民族に、民族主義を焚きつけたために、二つの民族がトルコから消滅してしまったこと。一つはアルメニア人で、もう一つはギリシア人のキリスト教徒です。キリスト教徒のギリシア人と、イスラム教徒のトルコ人が住民交換が行われたため、圧倒的な割合でムスリムになってしまったということです。

驚いたのは、今年4月の旅でガイドさんの説明によると、今でもギリシア人は、古代ギリシア人のビザンティウムの栄光、そしてビザンチン帝国の栄光を取り戻したいと願っていて、イスタンブールの征服の夢も捨てていないと聞いたことです。ギリシア人がトルコ人を憎んでいるという話は聞いていますが、そんな古代にまでさかのぼるとは・・。(大汗)

西欧中心の見方によって、「ローマ」の面影がトルコのイメージから埋もれて、西欧の焚きつけた民族主義によって「キリスト教」の側面がはぎとられてしまったことがありますね。

東西文明の十字路

その他のトルコの魅力を一言で言い表すなら、「東西文明の十字路」ということでしょう。古代から、ヒッタイト帝国など東方からの国がここを支配しては、今度は古代ギリシア人が支配を始め、それで、トロイア戦争が起こったり、ペルシア帝国の西方支配、そしてアレクサンドロスの東方への遠征、そしてローマ帝国の進出など、東から西から、入って来ては出ていくみたいな歴史をずっと辿っています。今のトルコ人は、中央アジアのテュルク人のセルジュク朝の末裔であり、そうした数多くの国々や民族の一部にしか過ぎません。

イスタンブールの中心街を歩いているだけでも、その雰囲気が濃厚に漂ってきます。アジアとも言い切れないけれども、ヨーロッパではないよね?みたいな。ボスポラス海峡のクルーズでは、右がアジア、左がヨーロッパであり、同じイスタンブール市内なのに、一日のうちに「アジアに行って来た」「ヨーロッパに行って来た」という会話が交わされるそうで、まさに「東西の十字路」を地で行っています。

日本との親和性

しかし、日本との親和性があります。ここら辺は、次のブログ記事、「海難1870から知る、日本とのつながり」で論じてみたいと思います。

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