地獄への道は善意で舗装されている

フェイスブックでの投稿を転載します。

<『善意』って、意外に厄介>

自分がいつも信じていることの中に「こうだな」と思う格言の一つがこれです。

地獄への道は善意で舗装されている

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人はよく、「この人は善意で行っているのだから」ということで、その行っていることを是としていく傾向があります。けれども実際は、「善意こそ、一番危ない」のではないでしょうか?悪だと分かって行っている悪よりも、正しい、善だと思って行っている時のほうが、はるかに恐ろしいことを行います。

「誠実であることが大事だ」という人に対して、「誠実に過ちを犯すこともあるのだ」とある聖書教師が言っていました。例えば、自分が一生懸命、ゴールにボールを入れようとしていたアメリカン・フットボールの選手が、実は反対のゴールにボールを入れていました。真面目にボールを運んだのですが、真面目であればあるほど、間違った行いをしてしまったのです。

そもそも「善意」って人にあるのだろうか?元を正せば、創世記2‐3章で、神から禁じられた善悪の知識の木から取った実ではないか?と思います。「善を行う者はいない。だれ一人いない。(ローマ3:12)」ですから「善意」の中には、「偽り」が混じっています。

ゆえに人は、時には「何もしない」という勇気も必要なのではないでしょうか?解決しない問題を、主にあって解決しないままでいることも必要なのでは?それは、ある意味で、信仰の姿勢です。「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3)」変えていこうと力む時に、主がそのようにしておられるのに、かえって問題を大きくすることはないだろうか?と思います。

その成りの果ては、分裂、誹り、争い、疲れ、徒労、そしてなかなか癒えない傷など、肉の行いの結果を刈り取ってしまうこともあります。

自分のしていることが、常に、主に目にかなったことなのかを、いつも点検していく必要があると思います。自分のできることは、主から離れては何一つないし、主がしなさいと言われていることだけを行うことに満足する必要がありますね。

「わたしが目を留める者、それは、
 貧しい者、霊の砕かれた者、
 わたしのことばにおののく者だ。」
 (イザヤ66:2)

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