検証・批判サイトを敢えて、検証・批判する

これからお話しすることは、とても微妙で、言いづらい内容です。けれども、いろいろな方から紹介されたり、質問を受けたりして、事実、いろいろな意味で大きな影響が出ています。「NAR(New Apostolic Reformation)新使徒宗教改革」と名づけられているものです。

日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント–NARに関する警鐘を鳴らす–

自分の立場の紹介

まず、私の信仰の歩みから説明します。信仰をもって間もなくして、ペンテコステ・カリスマ運動に触れました。そこで、ピーター・ワグナーやジョン・ウィンバー著の「力の伝道」にも触れ、その中にあることを実践しようとしたこともあります。ある時は、何も見ていなくとも、何か変だなと思ったら、神社関連の石柱があったとか、敏感になっていました。

ところが、その結果、ある異端に引きこずれこまれ、一か月後に脱出しましたが、かなり痛い経験でした。しかし、同時に癒しを受けたのも、その直後に参加した、ペンテコステ系の教会の青年向け集会でした。

そんなこんなしているうちに結婚し、その中でバランスを求めていくようになりました。アメリカに渡り、カルバリーチャペルの中で育ちました。神学のバランスを特徴としている教会で、カリスマ(超自然の聖霊の賜物)は今も有効であると信じつつ、聖書の言葉の権威を重んじています。ここが私と妻にとっての、霊的故郷であり、今もそうなっています。

それがかれこれ25年前ですから、それからは、教会全体で起こっている問題というものを聞いてはいても、自分自身で体験することなくこれまで至っています。牧者たちの会議の中で、キリスト教会で流行している、極端な教えを取り上げて検証するなど行われていましたが、時には、牧者たちの間でもどう対応すべきか意見が割れたことさえあります。

そうした中で気づいて来たのは、「何に反対する(What is Against)のかに注目するのではなく、何を信じているのか(What is For)?に注目しよう」というものです。それからというもの、牧者会議でも、本当に大事なこと、基本的なこと、そういったものに注目し、聖霊の働きを待ち望んでいく、という内容が主体になっています。

緻密さが欠ける検証は、かえって危険

そうした経緯がある中で、多くの人たちに読まれている、ウィリアム・ウッドさんの書かれたものですが、そこに書いてある要点はその通りだと思います。むしろ、ピーター・ワグナー氏が提唱したことを1990年代に聞いていたものとしては、「今さらなぜ?」という既視感さえあります。

しかし、一つの懸念が出て来ました。それは、私たちの教会の群れの中で、ある人物や運動について、その是非を議論した中で神から教えていただいたことです。

それは、情報を少し得ると、そういった話は義憤が生まれ、過ちを正さなければいけない、であるとか、警戒して距離を置かなければいけないであるとか、感情的な強い反応が出て来ることです。しかし、まずその問題として取り上げられている人物や団体、運動について、どこまで深く、広く、調べて行ったのか?を考えますと、十分とは言えないことがあります。

そうすると「印象」だけで議論が進み、その間に、無関係な人たちを多く巻き込んでしまいます。また、自分のことを言われていると誤解し、そこでその人たちが反応すると、さらに話がこじれます。その働きが広範囲であれば、それだけそうした悪影響が及びます。事実や真実が検証されずに、そうした感情的な禍根だけを残すのです。

見分けのオンライン・ミニストリー(Discernment Online Ministry)?

そしてインターネットで調べることが定着した今、なおさら分かり易く、そういった情報が手に入ります。しかし私たちは勘違いしてしまうのです。「それは、実像や実体の一部しか映し出していない」ということです。

私たちの教会の群れでは、かえって、そういった検証サイト自体の問題を取り上げることが多くなっています。たとい聖書的、神学的立場は概ね同じであっても、安易に論理をつなぎ合わせて、何もかもが逸脱した教えであるとか、異端であるかのように断罪する傾向を持っているのなら、私は警戒します。

大雑把な調査という感は拭えません

今回のウィリアム・ウッドさんの著書に対して、その運動に長いこと関わっている人が、反証の記事も書いています。

反証『日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント–NARに関する警鐘を鳴らす–』

私は、ウィリアム・ウッドさんの言われている要点には賛同であり、私も「使徒職」というのは新約聖書の時代で完結していると見ています。使徒的な賜物は今に至るまで存在していますが、十二使徒のような権威ではありません。しかし、肝心の「新使徒宗教改革」とは何かを、きちんと定義しないのが気になっています。今、よく知られている賛美チームや、説教者、そして有罪にされた人物なども、すべてひっくるめて話しているのですが、おそらく、それぞれが違う文脈の中にあるので、本来なら、その一つ一つを丁寧に検証しなければならないものです。

反証サイトには、その問題の例として挙げられている教会に参加したことがあったようで、聖書を持っていくことを禁じられたどころか、プレゼントされた、とも言っていたり、また「七つの山」という解釈をNARのものとしているけれども、そもそもはCCCの創始者ビル・ブライト氏が言い始めた言葉であるとか、おそらくは基本的な事実としてウッドさんが誤認しているかもしれないことを伺えます。参照資料から、たくさんの本を読まれた形跡はあるのですが、その現場に行って調査したのか?という疑念は拭えません。

具体的人物や団体よりも、より大きな、一般的な問題提起

そして、問題点として挙げているものは、何もNARと呼んでいる人々だけに当てはまるのではなく、しばしば教会内で起こっていることもあります。例えば、「権威主義」です。自分の立場をわきまえずに、個人的確信に留めておけばよいのに、大きく公表したり、多くの関わっているクリスチャンに混乱をもたらすようなことを行っているのは、よくあることです。そして皮肉なことに、神学や教えを批判検証している本人が、まさに権威主義的に人々を巻き込むことも、起こっています。

「支配神学」という問題を取り上げていますが、反証サイトの人が上手に話しているように、福音派の団体の上に立っている人々が、まるでキリストの代理人になったかのように、自らを預言者、祭司、そして王と定めて、いちいち、クレームめいた抗議を政府やマスコミに連発しているなどの問題があります。一方ではカリスマ派からの支配神学ですが、実は福音派にもバリバリの支配神学があるのです。

つまり、ウィリアム・ウッドさんの問題提起は正しいのですが、それは、より広範囲のキリスト教会に浸透している「パン種」みたいなものになっていて、どこかの団体や動きにより顕著なのかもしれませんが、全体に浸透しているものとしなければいけないものです。もっと深みをもって批判・検証すれば、全ての人が益を得ると思うのです。

毒麦を刈り取らなかった主人

私は、そういった種がある中で、教会というのは歴史に存在したという見方をしています。畑の中に毒麦の種がまかれて、毒麦が生えてきたとしても、終わりの日まで、その実が明らかにされるまで待ちなさい、そうでないと、良い麦までも摘み取ってしまうから、という注意を、マタイ13章の天の御国の喩えで、イエス様は語られました。

私たちは、有機的につながっている

すべてのものは神に造られました。そしてキリストの体は有機的につながっています。私たちは、個体が寄り集まって集合になっているのではなく、神によって造られ、またキリストにあって新しく生まれたというところで、神秘的につながり合っている者たちなのです。

ですから、相手に何かをいう時は、それは自分にも影響を与えるものなのだということを、わきまえないといけません。これは間違っていると警鐘を鳴らす時に、相手が生身の人間であること、それから同じ体の一部であることをわきまえて、初めて警鐘が警鐘として成り立ちます。警鐘する人は、そうした全体の益、全体のバランスをわきまえている人でなければ、やっていけないと思います。

人は変わるかもしれない

そこでもう一つ知るべきことは、その問題を孕む教えを説いている人が、もしかしたら後で、「間違っていた」と悔いて、訂正することもあるのです。事実、そういった事例は数多くあります。ここに出て来る人物でも、「あの教えは、言い過ぎだった」と後で修正した発言も聞いたことがあります。また、ある人生の試練を通して、その人の品性が練られた、ということもあります。そういったことも含めて、愛をもって忍耐して、いつか気づくことを願い求めるぐらいの気概が、検証している人々には必要でしょう。

検証の働きにおいて、しばしば犯されている論理の誤謬があります。

連座の誤謬

「Aは、こうした誤った教えを奉じている」
「BはAと交流、関わりがある」
「Bも、この誤った教えを奉じている」

これを連座の誤謬(Guilt by Association)と言います。ただつながりや関わりを持っているということだけで、その人も有罪だとする論理です。

上で説明しましたように、人と人とは、だれしもつながりや関わり、また交わりがあるものです。例えば、ビリー・グラハム氏は、非常に叩かれました。彼は、問題視されている人とも合って、その人と親しくなり、祈っていったので、その人の信じていることを、彼も信じているかのように語られることがとても多かったです。これは、イエス様が、取税人と食事をされて批判されたそれと同じ過ちであります。

出所という誤謬

「Aは、Bが出所となっている」
「Cが、Aを採用している」
「Cも、Bを出所としている」

これも成り立ちません。例えば、賛美チームの母胎となっている教会が、問題のある教えを持っているとします。けれども、作詞されたものそのものは、聖書的、神学的、霊的であるものだとみなし、採用します。しかし、Cは必ずしも、Bを支持していないのです。

下に、カルバリーチャペルの牧者が書いている見解を読むことができますが、私も全く同じ考えです。聖書の中には、いろいろな出所を主ご自身も含めて引用しているということ。実際に有名な讃美歌で、とんでもない不法を犯している人、カルトのようなグループの人が造ったものが、歌われている事例を挙げています。けれども、出所がおかしいから賛美は歌えないとする牧師の立場も尊重する、それぞれに個人的確信があるのだから、それを普遍化してはいけないということです。

ENTERTAINING DECEPTION
(A GREAT QUESTION BROUGHT UP BY THE BOOK: DO SOURCES DISQUALIFY?の部分)

人間的な論理では、「出所がおかしかったら、その作品もおかしいだろう!」と思われるかもしれません。けれども、これこそが教会の奥義、神の深い摂理です。神は、バラムの預言を呪いから祝福に変えました。その祝福の預言が、金に貪欲な偽預言者から出たからといって、その祝福が偽物であるとはしないはずです。民数記に記されているバラムの預言は、まさに神ご自身のものでした。

聖書は神の啓示、正しさを主張するのではなく、神をあがめる

「聖書的」かどうか?を検証する時に、私たちには大前提があります。その聖書の書かれた目的は、神が私たちにご自身を啓示するもののためです。つまり、私たちはその啓示を受けてひれ伏し、神を畏れることはしても、まるで自分が神の代理人になったのように、自分をその義の中に置いてはいけないのです。

主が何か過ちを示された時、それは一次的に「自分自身」に語られたものであって、そこでへりくだらないといけないのです。その新しく教えられたことを、人々に分かってもらうべく情熱を傾ける前に、「その教えを受けた、あなたを私たちは見ているよ」と、教えられた人々は思っているのです。自分の生活から、聖霊の実が結ばれているのか?キリストに、より似た者になっているのか?それを周囲の人々はじっと見ています。それによって、「確かに、この人が主から示されたことは、真実なのかもしれない」と、説得力を持つのです。

下手をすると私たちは、イエスを脇にお連れして諫めたペテロのように、自分の脇に神を引き寄せ、自己主張し、もっとひどい時は神を自分の足元のほうに連れて行き、神を踏み台にして利用することさえしてしまいます。「宗教は恐い」と一般の方々が思う時は、そのような時です。

悪魔の策略を知らないでいてほしくない

サタンの策略を知らないでいてほしくないということを、パウロが言いました。普通なら、ウィリアム・ウッドさんのような検証自体は、私は全面的に支持するのです。けれども、いろいろな人から相談や質問を受けるようになり、以上、語らせていただいた、また逆の意味での霊の惑わしも起こっているという懸念を抱きました。それで、敢えて批判・検証する本著を、批判的に論じてみました。

さらに精錬され、改定、改善された本著の再出版を期待します。

参考動画:マイケル・ブラウン博士のNARについての見解(リンク先

The Expositor’s Bible Commentary Jeremiahの執筆者でもあり、正統的な聖書信仰を持っている方が、NARを検証する人々にある問題を取り上げています。私が上で書いた話とそっくりでした。つまり、彼本人は取り上げられている指導者のやっていることとは意見は違うけれども、彼らについての検証の中には大きな事実誤認や誤解があるとのことです。

例1:Dr. Brown Brings Clarity to the NAR Controversy

ここでは、NARという言葉を使ったピーター・ワグナー氏が創始した団体の今の代表者は、NARの考えだとされる教えを批判しているという事実です。例えば、「使徒」を形容詞「使徒的」とするべきであり、それを使徒職にしてはいけない、と批判しているそうです。

例2:The Truth About NAR and 7 Mountain Theology

ベテル教会の牧師、ビル・ジョンソン氏自身が、支配神学についてどういっているのか、引用して、「キリストの支配が、悔い改めや癒しを通して、その人に及ぶことを願う」といういうことであり、「国を乗っ取る」ようなものではないとしています。ここでも、マイケル・ブラウン博士は、彼の神学的立場とは違うと前置きしながらも、実際と伝聞が違うことを明らかにしています。

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