「聖書が教える恋愛講座」(原題はI Kissed Dating Good-bye「僕はデートにさよならのキスをした」)の著者、米国の元牧師ジョシュア・ハリスさんが、クリスチャンを辞めたっていう話で、心痛めている兄弟たちが次々とフェイスブックやブログなどで、投稿をしています。この本は、キリスト者の若い男女は、デートではなく、結婚までの交際期間(コートシップ)にすべきであるという趣旨の内容です(参照要旨)。
私が読んだそれらの投稿を紹介します。一つ目は、MGFの牧者、菊地一徳さんのものです。
そして次は、カルバリーチャペル国分寺の桜井知主夫さんの文章です。
この記事を読んで、自分のフェイスブックに以下の投稿をしました。
気になった「恵みの薄さ」
「聖書が教える恋愛講座」で知られていた、米国の元牧師ジョシュア・ハリスさんが、クリスチャンを辞めたっていう話、フェイスブックで心痛めている兄弟たちが、投稿をしていましたね。こちらの、知主夫さんによる記事にもその一つで、書かれていることに同意・同感しています。
私は実は本書を読んだことなかったのですが、その話題になっていることを聞いていて、「何かちょっと違うかも?」と感じていました。人々が本書を持ちあげているなかで、その概要を聞いて、また、自分の結婚のことを思う時に、何か足りないと思いました。確かに書いてあることは正論だと思うのですが、そういったことは、阿吽の呼吸ではないですが、大体そういった方向性に留めておけばよいものを、「規則」のようにして書いているのではないか?と感じていました。
つまり、「神の恵み」という部分が薄かったのではないか?と思います。
ゆえに、一つの聖書的保守の立場から、世俗的リベラルの立場に「悔い改めた」と言っていますが、実は「思想を転向した」ということなのだと思います。表向き、聖書にある保守の立場を取っていても、中身は神との人格的な交わりに支えられたものではなったのではないか?と思います。簡単にいうと、「神について知っているが、神を知らなかった」ということです。知主夫さんが、「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23章3節)」という言葉を引用した通りです。
ジョシュアさんが、真実に生ける神に立ち返ることをお祈りいたします。
~ 流行の本には、健全な距離を置く知恵 ~
ところで、私がずっと気になっていることなのですが、日本でのキリスト教会の問題はこんな感じです。
① 基本、御言葉によって整えられていない。
② アメリカや外来のものを、ありがたがって受け入れる。
③ アメリカには、白黒はっきりさせた本質的ではない神学議論がある。
④ アメリカに留めておけばよいのに、その議論まで日本に持ち込む。
⑤ 混乱した原因を、自分の霊的未熟さのせいにするのではなく、
相手のせいにして、しまいには「異端」までの勢いに。
⑥ 悔い改めないので、霊的成長の機会を自ら失う。
⑦ ①の繰り返し。
米国で聖書教育を受けたのですが、そこには豊かな霊的遺産が受け継がれていると思います。それと同時に、米国社会に中にある文化を守るために聖書が使われている面も否めません。その文化を反映しているものが「聖書の教え」として他のところに伝播されることがあります。
その一方、日本は異教的で、キリスト教的なものは何一つないと思われがちですが、実は聖書の背後にある考え方や文化は、非西欧の私たちのほうがもっと分かっている部分があります。これを難しい言葉を使うと、前者(西欧)はヘレニズム、後者(非西欧)はヘブライズムと言います。
ヘレニズムは人間中心で、要は「自分で神を把握しようとする試み」であり、ヘブライズムは、「神の啓示をそのまま受け入れる」ということです。前者は、神についての事柄を体系化し、整理して、「理解できるようにする」ことが目的になっていて、そこに人間的要素が入ってしまうのです。ヘブライズムは、「神が語られたのだから」という理由だけで受け入れ、「ただ神の前にひれ伏す」ことです。
繰り返しますと、神を知っているか、神に”ついて”知っているかの違いです。
日本人、非西欧人には、物事を敢えて白黒はっきりさせないで、「これは、こういうものだ」として満足する、健全なバランス感覚があります。けれども、西欧はそのあいまいさが到底、受け入れられません。ところがキリスト教が西欧から伝播してきたので、キリストを受け入れた者たちが我々のような非西欧人であっても、頭は西欧的になっていて、それで神学やキリスト者倫理についても、そうった整理の仕方をしてしまうがちです。
実は新約聖書時代、ユダヤ人でも、ヘレニズム化したユダヤ人たちが多くいました。ヘレニズムに対抗していたパリサイ派や律法学者にさえ、神の義と憐れみを主体とした律法を、細分化し、解釈し、「理解できるようにして」、その規則を実践しようとしていたのです。しかし主の言われた、「愛の律法」ほど、曖昧なものはありません。「すべては愛なのだから、律法は関係ない」というのは、「愛か律法か」という二項式になっていて実にヘレニズム的です。愛か律法かではなく、「愛の律法」なのです。愛しているなら律法を守るはずなのです。しかし、律法に拠って生きるのではなく、信仰によって、御霊によって生きるのです。これは矛盾していません、矛盾していると感じる時、それがヘレニズム的思考になっていると言えます。
参照記事:「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて
日本の兄弟姉妹に励ましたいのは、「御霊の語られていることに、自信をもって従ってほしい」ということです。巷に出て来るいろいろな書物や、流行っている教えも、自分で判断できるのです。額面通り、表面的に受け入れるのではなく、主が、ある本に書かれていることを通して、御霊で教えてくださるのです。全てを受け入れる必要はないのです。
そして知主夫さんがこの記事で語られているように、「地域教会」を大事にしてほしいと思います。地域教会こそが、絶対解が与えられないことばかり、体系化も整理もできない、理解できないことばかりです。けれども、体全体の調和を重視する神は、まるで西洋医学ではなく東洋医学のように、全体のバランスの中で、神の真理を知るようにされています。地域教会を離れると、「我思う」というのでしょうか、自分で整理しようとする思考が入って来てしまいます。
「偽善」というパン種
以上ですが、私が個人的に、そして最も衝撃を受けたのは、次の記事でした。
Why Joshua Harris Kissed Jesus Goodbye…for now
ジョン・ハリスさんとその周辺を近くで見ていた方の記事です。かなり具体的に書かれています。問題を三つにまとめていますが、一つは「あまりにも若かった」ということ。なんと、結婚についての本書を書いたのは21歳、結婚する前のことでした。もう一つは、自分が師事を仰いでいた牧師とその教会は、かなり律法主義に傾いていて、教会がエリート主義に傾いており、支配的で、異論者は排除され、その中で幼児虐待をしていた奉仕者がいたのに適切に対処しなかったことが書かれています。そしてもう一つは、ナルシスト(自己愛者)であったということです。自分が表舞台に出なければ何も行動に移せない人間になってしまったと言っています。
また、この中には、ジョシュア・ハリスさんが中核にいた、ホームスクーリング運動の中にある問題(筆者自身は、ホーム・スクーラーとして内部者として話しています)、キリスト教の保守主義が行き過ぎて、律法主義的になり、人を裁く傾向にある点が指摘されていることも、とても参考になりました。
正直、ジョシュア・ハリスさんに深く同情しました。「これでは、信仰が育つ前に潰されてしまった」と。また未熟であるがゆえに自分で潰してしまいました。実質は違うのに、周囲が彼を持ちあげたということが起こっていたようです。
どの運動であっても、本当に警戒しなければいけないものだと思います。いつも、その教えがたとえ正しくても、何か強い「教えの風」(エペソ4章)を感じることがあります。海水浴をしていて、深みに入り、潮流に流されてはいけないという感じで。
自分の群れでも、どれだけの人が健全な教えから離れていったり、不品行などで落ちてしまったか、また、分裂もあります。霊的で優れていると思われ、高い評価を受けている人物が大きな問題を引き起こすこともありました。「この人すごい!」として、何かちょっとした流行っぽくなり、そのイメージが実際と乖離していってしまうのです。
先週ルカ11章を教会で教え、今日ルカ12章を教えましたが、群衆がどんどんイエス様のところに集まっているところで、弟子たちに対してとても強い警告を与え、パン種に気を付けなさいとか、忠実な僕でありなさいとか勧め、群衆には強い言葉で、そのイエス様を称賛するような言葉にも、真っ向から否定して、彼らの中にある罪をはっきりと示されました。
人々が集まると、何かパン種のようなものが入って来てしまいます。「偽善のパン種」です。人には良く見えるようにしてしまい、本当の自分ではなくなるのです。そして、人にどう見られるか「恐れてしまい」、神への恐れが薄くなっていってしまいます。
追記のコメントをフェイスブックでしましたので、こちらにも掲載します。
私が、ジョシュア・ハリスさんのことについて関心があるのは、その周囲にある環境です。ご本人の救いや信仰のことは神のみぞ知るですから、お任せして、それよりも、そこに至る環境に大きな関心を抱きました。
ここから話すことは、一部の人を不快にさせるかもしれませんが、思い切って書きます。
ジョシュア・ハリスさんの著書について、私は「恋愛ではなく、家族ぐるみ、教会ぐるみの結婚前提の付き合いを(courtship)」ということで、大方、その方向性には賛成しているということを前置きで書きました。そして、彼がホームスクーリング運動の先駆けともなった人を親に持ち、その運動の中ではとても大切にされた本であることも聞いております。
~ 「裁く」傾向 ~
ホームスクーリング運動については、アメリカにいた90年代から知っていました。その考えについてもすばらしいと思いました。けれども、「そのように導かれたら」という条件であり、また「かつては公立学校の教科書が聖書であった」というアメリカの教育の歴史があるし、「文化にもキリスト教の世界観を広める」という神学もそこにはあります。そして筆者のロン・カンターさんは、最も重要な要素として「両親がホームスクーリングに献身している」ということを挙げています。
http://messiahsmandate.org/why-joshua-harris-kissed-jesus-goodbyefor-now/
私は、いくつかの要素や条件さえあれば、すばらしい運動であると思うのですが、「運動」そのものが前のめりし、その中に入っていない人を裁いて行くようになっていく傾向が出て来てしまうのでは?と思いました。ロン・カンターさんが書いたことで衝撃的だったのは、そのことをずばり、当事者として指摘していたことです。運動に関わらない人たちを見下げる傾向があるということです。熱心な人々によって、関わっていない人たちが自分はホームスクーリングをしていないということに罪責感さえ抱くということです。
ここに、「一つの流れや運動」を安易に「普遍化」することへの危険があると感じます。
私自身の領域で話したほうがよいでしょう。私は、イスラエルやユダヤ人に関わることで、かなり調べて、関心を持っています。けれども、私の教会の人たちにこれを強要することもないし、ましてや東アジア青年大会のような超教派の集まりで、イスラエルのことを振りかざすこともありません。あくまでも個人的に示され、導かれ、行動しているだけです。
ところが、これを全ての教会や信者に対して、暗に圧力をかけ、「ヘブル的になること、それこそが本来あるべき教会の姿」であるかのごとく、運動を普遍化する強い力も感じます。そう思えない人たちが陰で傷ついています。私は、傷ついた人々の相談も受けてきました。なので、ロン・カンターさんと同じように、当事者であるからこそ、この運動の行き過ぎをむしろ牽制し、ブレーキをかけることがしばしばあります。
自分が、これこそが正しいと信じていることを行なっていない人たちに対して、どういった姿勢でいるのか?ということが問われるような気がします。自分の召しや確信を、他の人たちに押し付けてはいけません。
それが、彼が師事を仰いだ牧師とその教会についても、人を裁く傾向があることが指摘されていました。
彼の通っていて、師事を仰いでいた教会が、かつてはカリスマ・ペンテコステ派の教会だったところから、一夜にして、改革神学に転向し、カルビン主義者になったことです。そして一人の同意しなかった共立者を、高慢だとして戒規にしたということです。
そんな簡単に、神学を人は変えられるでしょうか?
私は、改革神学やその教師や神学者の言っていることで、とても恵まれるところがあります。けれども、やはり自分の召しではない、聖書理解も異なると思っていました。けれども、神学的な違いを超えて聖書信仰で一致するということが最も大事だと思っています。事実、私のとても親しくしている韓国系教会は改革神学を基本にしています。
しかし、それにはまらないと、あたかも異端であるかのような勢いさえ持っていくのであれば、私はとても警戒します。それが、カルバリーチャペルに対しても行われました。非カリスマ派の改革派神学を中心にした人々による「異なる火カンファレンス」というものが、チャック・スミスの召天直後に行われて、その主催者であるジョン・マッカーサー氏が、全ての聖霊派をキリストの体に属していないかのような発言をし、カルバリーチャペルもその範疇に入れたのです。
しかし、同じジョン・マッカーサー氏はかつて、カルバリーチャペルが同じカリスマ派であるにも関わらず、その流れの行き過ぎに対して警鐘を鳴らしていることについて、高い評価をしていました。
「神学バランスにあるキリスト者の成熟」
「改めて「聖霊の働き」について」
なぜ、全く同じカルバリーチャペルの歴史なのに、そのようにころころ立場を変えられるのでしょうか?御体に属していないぐらいの発言を平気でできるということは、不変であるはずの聖書が、可変的なものなのでしょうか?その人のそもそもの「聖書理解」は、何だったのでしょうか?
私は、ホームスクーリングにしろ、イスラエルやユダヤにしろ、新しい改革派の運動にしろ、最も大事なことは「その信じていることによって、いかに自分がキリストに似た者になっているか?」であると思います。行いによって示し、それで他の人たちが「どうしてそんなことができるのか?」ということで、こういったことを信じている、ということです。
偽りの教えに対して警戒は必要ですが、それを何でもかんでも振りかざす時に、実は自分自身が警戒されるべき、パリサイ人のパン種を抱え始めているということを知らないといけないのではないでしょうか?私も、その非を免れないものです。強い自戒とともに、以上のことを書きました。
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~ 誰でも罪に陥り得る、ということをどこまで受け入れられるか? ~
私が、この問題を深刻に思っているのは、もう一つあります。この改革神学に変わった教会の主任牧師C・J・マハニー氏とその教会が、長年のこと幼児への性的虐待を隠蔽し続けていたことです。その他、様々な支配的体質、カルト性も帯びている点も指摘されています。
そして、ジョシュア・ハリスさんは、このマハニー牧師の第一の弟子となり、30歳にてその母体となる教会の主任牧師となったということです。
それで彼は、教会に対する数々の告訴について対処に圧倒されて、大学院に進むために牧師を辞任したのです。そしてかつて自分の書いた本について否定し、謝罪し、そして自分がクリスチャンではなくなったという結論に至ったのです。
こちらのクリスチャンプレスの記事で日本語で、マハニー氏の南部バプテスト連盟からの除名について読むことができます。
https://www.christianpress.jp/southern-baptists-sbc-expel-churches-abuse-investigation-jd/
ジョシュアさんが、自分がまだ結婚もしていなかったのに、結婚についての本を書き、それはホームスクーリング運動の先駆けとなった親を持っていたという影響が強く、そして彼の信仰や神学体系もまた、周囲の人々によって形成され、自分の信仰がどこまで育っていたのかよく分からない中で、教会に対して数々の告訴がもさらされ、そりゃあ、信仰捨てたくなる気持ち、(これいったらタブーですが)分かりますよ。
どこまでが自分自身の信仰か、それとも周囲から着せられた信仰なのか、分からない状態になったのだと推測します。ダビデはゴリアテと戦う時に、サウルからの鎧を拒みましたが、その鎧をずっと着続けたのではないか?と。そう言った意味で、自分の投稿には「深く同情する」と書きました。
Together For the Gospelという、改革派や保守的なバプテスト派の人々が主にいる、大きな大会が二年ごとに行われています。そこにC・J・マハニー氏が2016年の大会まで出ていて、南部バプテスト神学校のアルバート・モーラー校長もいますし、ジョン・マッカーサー牧師やジョン・パイパー牧師も一緒にいます。アルバート・モーラー校長は、上の記事にあるように、彼への支援を後悔し、虐待を受けた被害者たちに謝罪しました。
https://baptistnews.com/article/al-mohler-says-he-was-wrong-about-c-j-mahaney/
私は、上にあげた著名な牧師や校長は尊敬しています。カルバリーチャペルを批判したジョン・マッカーサー氏でさえ尊敬しています。しかし、聖書信仰に堅く立ち、福音をきちんと信じていくこれらの人たちの中心人物に、「”正しい”教えの中でも、犯罪を隠蔽してきた教会のカルト的体質を見抜けなかった」ということです。
偽りの教えはキリスト教の世界に蔓延しています。しかし、「それを指摘する側にも、同じ問題があった」ということです。先に自分の領域について話しましたが、神学的には同調している人々に対しても、かえって距離を置き、牽制することさえあるのは、そのためです。これをすると、あたかも、その教えに私自身が支持しているように見えるのですが、信じていることは全然違います。
しかし、「偽りの教え」を追及している人々、聖書的根拠まで出して追及している動きの中で、実は背後では同じことをしているというのを見聞きした者としては、自分が同調しているのではないか?と見られるリスクを負ってでも、指摘しなければいけないと思い、筆を取っています。
参考記事:「検証・批判サイトを敢えて、検証・批判する」
こちらに、水谷潔牧師が、私のフェイスブックの投稿に呼応して、的確なコメントを入れてくださっています。
「ハリス師の背後に見えてきた本当の問題」
初めまして、コメント失礼しますm(_ _)m
身内(キリスト者)が結婚に対して本気になっているので、ジョシュアハリス(以下彼)さんの本を買おうと思い検索していたところ、離婚のことを知りました。
彼のことを詳しく解説してくださり、また私のイエスキリストへの信仰への向き合い方、他の教派への向き合い方も教えてくださり感謝いたします。
私は福音派バプテスト教会に所属しているものです。
私は自慰行為と性的欲求に悩んでいた時に、彼の「誘惑に負けないために」の本に出会い、感動したキリスト者です。
悩みに悩み続け祈りによって与えられたbookでした。「女性の体は神様の造られた素晴らしいものとして見ればいい意見、牧師は自慰行為は悪くないetc」など間違った意見に紆余曲折しながら与えられた真理でした。
聖書が教える恋愛講座。の本も出されていることを知り、身内に買ってあげようかと思っていたところ、少し悩んでおります。
祈り、答えをいただきたいのですが、どうしてもコメントしたくなり記入させていただきました。
2019.11.17
にコメントしました(名無し)です。
その後、そのジョシュアハリス氏の「聖書が教える恋愛講座」
の本は買わず、聖書から教われば良い(御霊に導かれ)と思っていたところ
なんと、お知り合いの教会で「水谷潔牧師」がクリスチャンの恋愛講座をされるとのことで、拝聴させて頂きました。
感謝で、一つまたイエス様に近づく=結婚を教えられました。
また、私の知人に「誘惑に負けないために」と言う本を貸したところ、かなりの高評価でした。
その時に感じたのは、ジョシュアハリスさんが今どのような信仰に立っているかいないかにかかわらず、主はすべての人を用いてくださる(ヨハネの福音書11章のカヤパの予言を思いだしました)
のだなと、その中に「真理」も含まれているのだなと感じました。
失礼しますm(_ _)m