異端審問とマラーノ(隠れユダヤ教徒)の歴史

先月、この勉強会に行ってきました。

フェイスブック上ではお知り合いだった方々が講師で、「ポルトガルのユダヤ人を襲った苦難」という題名で聞きました。「シオンとの架け橋」のフェイスブック・ページで、味わいのあるイスラエル国内情報をアップしてくださり、大変感謝していることと、超正統派ユダヤ教徒であったのにイエス様を信じた方に、顔を合わせてご挨拶と、感謝の思いを伝えたかったのと、この勉強会のトピックに、興味を持ったからです。

内容としては、まさにホロコーストを知ることと同等の、非常に重みのあるもので、このような講義を、一キリスト教団体が無償で提供してくださっていることに、どれだけ感謝すればよいか分かりません。しかも、イスラエルからわざわざいらして、奉仕活動として行なっておられるのですから、頭が下がります。

マラーノ(ヘブライ語ではアヌシーム)は、「新キリスト教徒」とも呼ばれますが、キリスト教(カトリック)に強制改宗させられたユダヤ人が、表向きキリスト教徒を装いながら、隠れてユダヤ教を守っていた人々のことです。

その背景となる歴史は、スペイン異端審問です。

強制改宗させられても、正しく信じていない者を審問にかけ、答えられない者は、流血以外の拷問で(流血はキリストの血潮が相殺されてしまうからという、極めて奇妙な考え方)殺していきました。その生活はまさに、隠れキリシタンのそれと似ており、キリスト教徒を装いながら、秘かにユダヤ教を保持した痕跡を、まるでマリア観音のごとく残しており、ポーランドにある写真を見ながら拝見しました。

しかし、強制改宗といっても、守っていく中で、自然とその内容にも信仰を持つ、つまりイエス・キリストに対する信仰もその子孫には与えられるようになってきました。つまり、モーセの律法を守りながら、矛盾なくイエスが神の子キリストであるという信仰も保持していたことを、イスラエル図書館に新たに置かれている異端審問についての書物から、その時の証言から拾って来たものです。霊的なルーツの一つとして、彼らとのつながりを感じたそうです。

マラーノにルーツを感じたメシアニック・ジュー

これがまさに、メシアニック・ジューの人たちの立場に似ています。つまり、ユダヤ人であることを保持しながら、イエスを信じる信仰を持っている人々は、キリスト教からも十分なキリスト者ではないと見られ、ユダヤ教からは敵視され、警戒されるという立場に置かれているからです。

今世紀に入ってから、宗教間の対話が盛んにおこなわれています。ユダヤ教の中でも多くあり、キリスト教側からもあります。イスラム教側からもあるでしょう。しかし、その対話は「距離を置いて、それぞれの立場を認める」という前提があります。そこで犠牲となるのは、その置かれている「距離」の狭間に生きる人々です。どちらのアイデンティティーも有する人々、中間にいる人々です。例えば、イスラム教とキリスト教の対話をしていく中で、犠牲者はムスリムからイエスを信じたアラブ人であったりします。ユダヤ人であれば、イエス・キリストへ回心する人々です。

これは、私が予てから問題に感じていたことでした。宗教間の対話の限界です。それは、宗教的寛容や多様性を唱えている人々が、自分の理解している宗教の定義に合わない人々に対しては、排他的になり、攻撃的になることです。

強制改宗を経たイスラエルが、逆強制改宗

イスラエル社会では、異邦人がキリスト教であることは大いに歓迎され、その信仰は認められます。そして、もちろんユダヤ教を国是とする国です。そして、イスラエル政府の宣伝文句は、「中東で唯一の民主主義国であり、宗教の自由が認められている。」ということです。であれば、ユダヤ人がイエスを信じることは認められるか?と言いますと、話は別なのです。

マラーノ(アヌシーム)は、イスラエルに帰還する時に、当局からユダヤ教への改宗をしなければいけないとされるそうです。これは、過去に強制改宗させられたその改宗を再び彼らに強いることになり、苛酷な仕打ちです。

強制改宗と異端審問というテーマなので、重い内容になってしまいましたが、しかし希望もあります。それぞれが異なる道を歩み、互いを見たら相違点だけが見え、受け入れられないようなものがあっても、実は神は何かを考えておられて、今の自分たちには理解できないが、終わりの日には思いもよらない方法で、キリストにあって全てを一つにするということです。これは、万民救済論の話ではありません。云わば、ヨセフが兄に売られることによって、むしろヤコブの家族がみな救われるというようなどんでん返しを期待できる、ということです。

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