希望を食い潰した日本社会

先の記事「戦後の先人の辛苦を食い尽くした平成日本人」の関連です。

参院選で自分の感じたことと似たような感想が、この記事に書かれていました。「私たちは希望を食いつぶし、なおかつ生きていかねばならない。変わらないことへの苛立ちは、ワイドショー的話題に向けられ、批判は盛り上がっては流れていく。選挙もニュース炎上も、既存の秩序を維持するための「ガス抜き」として機能しているのではないかとさえ思います。」
(「希望が感じられない参院選に漂うかつてない徒労感」より)

日本社会が時々、怖くなります。それは、「いつまでも変わろうとしない」という強い力が働いていることです。確かに、日本は安定しています。安定は、社会にとってとても価値あることです。けれども、本当は決断しなければならないことを先送りにしているだけにしかすぎない「安定」なのではないか?と思います。

世界はめまぐるしく変わっています。香港では、二極化のすえ、天安門事件を思い起こさせるような気配も見えています、つまり香港における中国人民軍による弾圧の可能性もゼロではなくなってきています。韓国は事実は、「南南葛藤」と呼ばれる、韓国内の体制を問うている社会的不安の中にあります。米中の貿易戦争は続いていますし、英国がEU離脱もほぼ確実、ロシアや中国は拡張をやめることはありません。

そして中東はいわずもがな、です。イランはホルムズ海峡で拿捕するは、シリアでは、ロシア支援のアサド政権の空爆で、今日も子供が何十人と無残に死んでいくは・・。

しかし、その不安定で、根底を揺るがされているような世界の中で、日本だけが安定しているかというとそうではなく、「これまで安定していた日本の基盤を、ただ食いつぶしているだけ」にしか過ぎないです。その根底が、日本もまた揺るがされているのですが、それを頑なに認めなくない、ものすごい強い意志があります。

不安定だからこそ、人は活きるとも言えます。既存のものが破壊されるからこそ、新しい創造が現れます。ところが、安定に固執するために、まるで古い皮袋が新しいぶどう酒が注がれてちぎれるように、その固執がかえって日本を引き裂くのではないか?と心配しています。

「モアブは若いときから安らかであった。
彼はぶどう酒の澱(おり)の上によどみ、
桶から桶へ空けられたこともなく、
捕囚として連れて行かれたこともなかった。
それゆえ、その味はそのまま残り、
香りも変わらなかった。

 それゆえ、見よ、その時代が来る — 主のことば -。
 そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。
 彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、
 壺を砕く。」
 (エレミヤ48章11-12節)

これまでこういった社会現象は、教会とはかかわりがそれほどない、教会がすべきことは同じだと思っていましたが、しかし、教会とて社会の中に存在します。つまり福音に対しての頑なさにもつながっています。福音は、人に一新をもたらします。生活が一変します。それを変えたくないと思えば、福音を結局は拒むことになります。そして、既存の制度に依存します。ですので、いつまでもその殻から出てこようとしないことにより、その古い環境と共に自分の魂も死んでいってしまいます。

・・・なんか抽象的な事を書いてしまいました。要は言いたかったことは、「周りはどんどん変わっている、と思っているが、実は自分の立っているところも、どんどん切り崩されている。」ということです。

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