自分が韓国のことについて意識し始めたのは、20年近く前のこと、自宅で伝道目的の子供英会話教室に、近所の韓国系教会の子弟たちが集って来た時でした。私たちは未信者のご家族への伝道を考えていたのですが、受け入れましたが、その子たちがその後の私たち自身の働きをも変えてしまうとは思いもよりませんでした。
そうこうしているうちに、その韓国系の教会の牧師さんの知り合いの牧師のつてで、第三国に導かれました。そこで2005年から2010年までの5年間半、いたことになります。私たちが不在の間も、その牧師さんにはいろいろとお世話になっていました。
日本に戻り、開拓を始めました。他の韓国系の教会とのつながりができたのですが、そのつながりの中で、なんとご本人は韓国人ですが、中華系の人々を牧会している方に会いました。そして、その方が「私たちは午後に礼拝を守っているので、午前を明石先生の教会の礼拝にお使いになりませんか?」というお誘いがあって、それで同じ場所を使うことになりました。それがかれこそ5年ぐらい続いたのでしょうか、ついにその使っている場所が使えなくなり、中華系の教会の人数が急増していたので、それぞれが別の場所を探し、定着しました。
その間に、その中華系教会の韓国人の牧師さんが、私を東アジア青年キリスト者大会にスピーカーとして招きました。第二回目から参加しましたが、遂に毎回参加することになり、実行委員となり、今は若い世代の方々が実行委員ですが、特に何もしていないのに運営委員として居座っています。(笑)
そういったことで、私と妻の福音宣教の働きの後半部分は日本だけでなく、韓国や中国とのつながりができたのです。
そういったところから、日韓関係について、一見矛盾したことを抱くようになりました。
①日本人として、国や民族の違いから生じる、必ずしも肯定的なものばかりでなく、負の感情が出て来て当然である。
②韓国人のためにも、神はキリストを十字架につけて、彼らを愛してくださった。
まず、①についてお話しします。
「当然である」と書いたことで、もしかしたら「それはクリスチャンらしからぬ感情だ」と言われるかもしれません。今は、嫌韓ブームが起こってから久しくなっており、ヘイトスピーチの問題もあります。そして感情だけの問題だったのか、ついに二国が具体的にぶつかり合うこととなりました。
それで、韓国が嫌だという感情に対してそれは悪とみなし、そう考えることを止めるべく、韓国の方々の主張や感情、思いに合わせる日本人の意見があります。しばしばそれを「反日」とも揶揄されます、嫌韓とも言われるように反日という言葉がありますね。そしてクリスチャンの中にも多く、その論調こそがキリスト者的であるとする傾向があります。
私は、果たしてその通りなのか?と思います。キリスト者は、感情まで押し殺して、そして相手の言いなりになることがキリストに従うことなのでしょうか?違うと思います、キリスト者は、「感情ではこう言っているにも関わらず、主の前に出て、聖霊に語りかけられ、それに従順になる人」だと思います。感情とは、いろいろなことを教える温度計のようなもので、それ自体は悪ではありません。喜怒哀楽は神の造られた賜物です。嫌な思いになるという自由も、神は許容されていると思います。
キリスト者は、土の器にキリストの栄光という宝を入れている者です。キリストの栄光なのですが、土の器はあくまでも土です。人間らしさがそこには多分にあります。体から来る欲求があります。例えば男性が、女性を見て、反応してしまうという事がある時に、その反応自体が悪だ、ということが言えるでしょうか?もしそうならば、男性は去勢するか、性犯罪者に対して、ある国々が実行しているように、性欲を起こさせないよう注射で薬剤を投与すべきでしょうか?そうではありません。
日本人として生きていて、そこにある考えや思い、教えられている歴史や国のあり方があるならば、韓国の人たちとの付き合いで、その違いから嫌な思いになるのは、ごく自然のことであり、それ自体を否定してはいけないと思っています。
しかし、次に②をお話しします。
日本人は日本人であることを捨てる必要はありません。キリスト者とて、日韓が対立した時に、韓国がかつて被害国だったからという理由で、韓国の主張に同調する必要は全くないと思います。しかし、キリストは我々、日本人のためだけでなく、韓国人のためにも十字架上で死んでくださったほどに、愛しておられる、というのは、キリスト者が受け入れた神の真理です。そしてこれが、良い知らせ、福音なのです。
福音というのは、私たちが肉で出来ないことを、キリストが代わりにしてくださったことを意味します。でなければ「良い知らせ」ではないです。自分が愛せないからダメなのだではなく、元々、愛せないのです。愛せないことを告白したのがキリスト者です。僕は、「自分の愛が枯渇した時にこそ、キリストの愛に満たされるチャンス」ということが分かりました。
ですから、そのまま自分の力では愛せないことを告白するところから始まります。そのようにして自分を無にする時、キリストが罪人を愛されたそのお姿が信仰の中で、はっきりと見えてきます。そして自分自身がキリストに結ばれた者であり、新しく造られた者であることが見えてきます。
そして、聖霊の力が、自分のうちに働きます。神のかたちに造られた相手を見ることができます。それはあたかも、良きサマリア人と同じであり、長い歴史的経緯があり互いに敵対関係であったのに、半殺しにあった、おそらくユダヤ人であった人を助け、手当てをし、宿代を出したのと同じです。
私は、ゆえに日本にいる韓国人の宣教師の方々の働きを心底、尊敬しています。例えば上野公園にて定期的にホームレスの人々に給食し、伝道している韓国系教会の方々がいます。日本の教会でも、そういうことをするのは少ないのに、頭が下がる思いです。
使徒の働きを読めば、ユダヤ人たちが、ピリポによってサマリア人に伝道しました。その前にイエスご自身が、サマリア人の女に伝道しておられたので、その種がまかれていたところを刈り取ったのでしょう。そして、ローマの百人隊長コルネリウスへの伝道には、ものすごい葛藤をペテロは覚えていましたし、ユダヤ人の兄弟たちも同じように葛藤しました。
ついにアンティオキアにいたパウロとバルナバがエルサレムに来て、教会指導者たちでこの問題の解決を語ったほどです。それは、異邦人がイエスを信じるために「ユダヤ教徒」にならないといけないのか?という問いでした。つまり、イエスの御名によって救われるためには、異邦人を捨ててユダヤ人にならないといけないと言われているのに等しいです。答えは「NO」でした。
そういったパウロでさえ、自分の陣地である小アジアでの宣教を、御霊によって禁じられて、マケドニア人の呼びかけによって、ギリシアへの道を歩み始めたのです。それぞれに葛藤があったのであり、その葛藤までも神は許容して、なおのこと聖霊の導きに従うように導いておられます。
異邦人がイエスの御名を信じて救われるために、ユダヤ人になる必要はありません。同じように、ユダヤ人がイエスを信じるために異邦人になる必要はないのです。共に民族的特質を維持しながら、「キリスト」にあって一つになって交わることが、私たちの召しです。
ですから、日韓の友好のために日本人が韓国人に寄り添うために韓国人のようになる必要もなければ、韓国人が日本人のようになる必要はないのです。宣教の幻が与えられ、召しを受けて、結果的に現地の人のようになっていくということはあるでしょう。長年、宣教の地にいると宣教師はその国の人のようになっていくものです。けれども、自分が韓国人である、あるいは日本人であるという民族意識まで変える必要は全くありません。
「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し・・(エペソ2:14)」
私たちの内におられるキリストが、心の中にある壁を打ち壊していかれる、その経験を聖霊によって私たちはしていくのではないでしょうか?
人それぞれだと思います。ある人は、聖霊に導かれて、今の対立してしまっている日韓関係のために、主の前に出て執り成すようになるかもしれません。ある人は、韓国人を避けていたが、自分の近くにいるこの人に声をかけてみようと思われるかもしれません。ある人は、実際に韓国のクリスチャンと会って、交わってみようとするとか。漠然と、この問題に近づきたくない、恐いと思っていた人が、導かれて、「いや、こういう時だからこそ、両腕を広げて民間交流しないといけない。」と思ったりとか。
怒りやいら立ち、憎しみがある所に、キリストを架け橋として、平和と喜び、愛を持って行けるようになればいいな、と思っています。