(3月21日のフェイスブック投稿)
この言葉は示唆に富みます。
「新型コロナウイルスとの闘いを「短距離走ではなく、1年は続く可能性のある長いマラソン」と表現。「疲れたり油断して止まってしまうと、感染が一気に広がり、医療崩壊や社会混乱が生じます。一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じたペースで走り続ける必要があります」などとメッセージを記した。」
山中教授、コロナのHP開設 闘いは「長いマラソン」
山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信
教会は、礼拝や集会で、もはやコロナ対策で多くの時間や神経を使ってはいけないと感じています。しなければいけないことは、ほぼ固まっています。手洗い、換気などです。今、心配するのは、委縮して、必要以上に気を使い過ぎて、教会が本来しなければいけないこと、また今だからこそ行いなさいと命じられてることを、おろそかにしてしまわないか?と感じています。
もっともっと、「私はこうやって主との交わりができた」という証し、ある程度の制限の中にあっても、制限の中で与えられた新たなアイディアなど、そういったことを分かち合っていくべきではないか?と感じます。
例えば、うちの教会では、聖書の体系的な学びをしっかりとできるようになったという方がおられました。中国の家の教会も、多くのクリスチャンが聖書を読む時間が増えたらしいです。アメリカでは、オンライン礼拝や集会で、これまで御言葉に触れたことが全くなかった人々がアクセスするようになった、とか。
それから交わりを教会堂の中で持たなくとも、外に出て、自然に触れながら交わることも、暖かくなってきたのでできますし。
そして、医師で牧師の方によると、聖餐式を止める必要はないという意見を読みました。これは教会にとって死活的な礼典です。私たちの教会では、自分がパンを裂く時、直前に消毒液を手指に付けて予防しています。
あまり極端な対策をすると、ちょうど長距離走なのに、初めに全力を出して、途中で断念するようなことになってしまいます。これこそが危険です。持続的な緊張感で臨むべきであり、騒いでいる時間はありません。
私は、日本政府の出すコロナ対策が、このような長距離走のための対策、つまり、全面的な封鎖のような極端なことではなく、クラスター対策など、ピンポイントで封じ込め、最低限の経済活動や社会活動ができるようにさせている方針なので、神の憐れみを感じています。