(3月26日にフェイスブックに掲載)
イスラエルで起こっていることを、長いことフォローしてきたつもりですが、近現代に建国されたこの国は、ホロコーストのトラウマによってできているとまで言われているほど、民族絶滅の危機からの救出使命を負っている運命共同体と言えます。まだ、死亡者が数名であっても、イタリアよりも厳しい鎖国・隔離対策を取り、ちょうど総選挙後の連立の動きも相まって、国会が機能していないという事態にまで至りました。
私個人にとってショックだったのは、シンベトが持っていた対テロの技術を感染者や隔離者の情報を追跡するために使っていることです。それは私にとっては、「敵からユダヤ人を守るための武器を、同じユダヤ人に向けた」というぐらいの衝撃でした。その判断は、主ご自身にお任せしていますが、ただならぬことが起こっていることだけは確かです。
疫病を敵と区別したダビデ
敵からの救いを、神の選びの民として種のように植えられているイスラエルは、けれども、疫病に敵としてみなして戦うことはできるのだろうか?と悩みます。疫病は天災の一つで、神の御手の中にありますが、敵は人間によるものです。
ダビデが、人口調査をする罪を犯した時に、預言者ガドに、三つのことの選択を迫られます。飢饉か、敵に追われるか、それとも疫病があるのがよいか?ダビデはこう言いました。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私は人の手には陥らないようにしてください。」(Ⅱサム24:14)ダビデは、疫病を人の手ではなく、主の手から来たもの、そしてそこには主の深い憐れみがあるのだとしたのです。
そこに、私がイスラエルの現在のコロナ対策で違和感を抱いている理由です。しかしながら、同時に、私の感想は当然、小さなもの、不完全なものです。明日になったらもしかしたら、この考えは、ころっと変わっているかもしれません。ずっと、政府関係者の方々、イスラエルの方々のために祈っています。
一度、受けて、それから調整
日本の人たちは、天災に慣れているせいか、それを完全に制圧したり、敵対するように見なしていないと思います。心のどこかで、自分自身は自然に支配されている一部で、その中に生かされているから、せめて、自分たちの生活の領域が守られてほしいという、控えめな姿勢であると思います。
しばしば、危機管理がなされていないと批判される日本ですが、自然には完全に抗わない、むしろ全体を調整して戦う、という思いが深く根付いていると思います。東日本大震災の時に、渋谷の歩道橋にすべて通勤者で埋め尽くされていたのに、がまんして、将棋倒しにならなかった姿は、今でも目に焼き付いています。今回のコロナ対策も、遅すぎる、後手だと思われながら、なぜか、いつの間にか巻き返している、誰にも主張することなく、黙々と戦っていくところに、日本らしさが現れているような気がします。
FB友がシェアしていた、お医者さんのコロナ考ですが、このような「自然の驚異をいったん受け止め、それから調整していく」という考えがよく表れています。
「コロナウィルスによって、病死がむしろ減ったのでは?」「病気になるのにも目的がある。病気は人がいる限り続く」「動物は、病気になったらひたすら休む。だが人間は、病気だろうと何が何でも突っ走る」という内容です。事実、世界の中で、コロナが始まって、全く動じずに自然が美しく輝き、公害がなくなってきれいになっている姿さえ見ます。心のどこかで、「このウィルスも我々とずっと付き合っていくことになるのか?」と、自然の驚異として受け取ってしまっているかも?しれません。
西洋=聖書的、東洋=非聖書的、とは限らない
イスラエルと日本、対照的ですが、イスラエルが必ずしも聖書的であり、日本が非聖書的、異教的とは限らないのではないか?と感じる時があります。
新約時代のユダヤ人の世界は、ギリシア文化が色濃く入り込んだために、その考え方が人間中心的にさえなり、そこに宗派間の戦いがあり、最後はローマによって潰されてしまいました。ヘブル思想は、「神がご自身を啓示し、人はひれ伏す」のに対して、ギリシア思想は、「人間が神を知る」という方向であり、人間中心的です。欧州で離散生活を長年過ごしてきたイスラエル人、その考え方が非常に合理的であり、時に、ギリシア的であることも感じます。
一方で、日本やアジア人は、偶像礼拝にどっぷり使って、まるで創造主、まことの神から遠くかけ離れているようにさえ見えます。しかし、これまでお話ししてきた自然の驚異は、聖書の中に初めから終わりまで、神の栄光を現わすものとして無数に出てきます。詩篇には、雷が落ちて、そこで主が賛美されているというような表現されあります。神は自然を超越した方であると同時に、自然によってご自身を現わす方でもあります。
神は自然を超越しているから制圧するものだとする人間中心主義も非聖書的ですし、神は自然の一部であり、埋没していると考えるのも非聖書的です。その中間が、聖書の啓示している神のお姿です。