在イスラエルのアメリカ人のクリスチャンでもあるジャーナリストが、西側諸国におけるコロナ対策について、大きな疑問を投げかけています。「封鎖しているけれども、解決の糸口がない」という題名です。
主旨としては、発生源である中国や韓国、シンガポールなどで採用された都市封鎖による感染の抑制に倣って封鎖しているけれども、それらのアジア諸国が経済的活動の最小限のことを保ちながら、完全な封鎖はしていないのに何とか踏ん張っているのに対して、西側諸国はさらに厳格な封鎖をしているのにかかわらず、感染は広がっていく一方であるという疑問を挙げています。
まず、準備していなかったこと。封じ込めればいいと思っていること。家に閉じこもれとばかりいって、でも、田舎に行くとか、公園に出ても距離を保つとかすればいいのに、締め付けていくばかりだとのこと。どんどん感染が拡大するから締め付けるけれども、拡大の速度は落ちないこと。また落ちても、解除したら増えていくとの予想もあること。解決なき、出口なき、封鎖ということを話しています。
そして自由民主主義体制であるにもかかわらず、市民に対してウィルスの現実を知らせていなかったこと、封鎖がうまくいかないのは、待ちすぎて、封鎖を破っている市民に処罰を与えているだけだ、ということです。ハイテク技術の監視にも触れています。また、封鎖を解除して、感染が再び広がることも予測されており、封鎖が延々と続いてしまうことを懸念しています。
私が違和感を抱いていることを、このようにアメリカ人自身が話しています。ここに欠けているのは、「どうしてバランス持てないの?」なのです。シェア元は、山中伸弥先生のブログですが、そこに対策の図があります。「社会経済の崩壊」と「医療崩壊」を天秤にかけ、そのどちらにも傾かないような、取り組み方でなければいけないと教えています。そして、こう言われます。
「ウイルスとの闘いは、有効なワクチンや治療薬が開発されるまで手を抜くことなく続ける必要があります。1年以上かかるかもしれません。マラソンと同じで、飛ばし過ぎると途中で失速します。ゆっくり過ぎると勝負にならず、ウイルスに負けてしまします。新型コロナウイルスを制圧することはもはや困難です。受け入れるしかないと私は思います。社会崩壊も、医療崩壊も起こらない形で、ゆっくりと受け入れる必要があります。」
「制圧は困難」ということを正直に認め、「ゆっくり受け入れる必要がある」と仰っています。先の投稿で書きました、「自然の驚異を制圧しようとせず、いったん受け入れて、それから調整しながら戦う」という考えです。
欧米での新コロナが、最初の武漢発のコロナと変わってきているということもあるかもしれませんが、アジア諸国と欧米諸国の取り組みと効果の違いは、ここら辺から来ているのではないか?と、なんとなく感じています。白黒をはっきりさせるだけで、対決姿勢しか持たない方法よりも、全体を眺めながら調整するという、ちょうど西洋医学と東洋医学の違いのようなものを感じますね。
都市封鎖のこと、大きく取り上げられていますが、日本政府は緊急事態宣言も慎重だし、宣言しても、たぶん、かなり細かく、人権に配慮しながら地方自治体は要請してくると思います。都市封鎖しても、例えば公園に行くのをとめたりしないでしょう。日本の教会も、その中で主に用いられる可能性があるような気がします。中国や韓国の兄弟姉妹は、すでに主に用いられ、証を立てていますから!