愛し合うのではなく、裁いてきたことへの悔い改め
「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるからです。(マタイ7:2)」
本当に、裁かなければいけないことってありますが、しばしば、裁いている時、まさにその裁いている根拠が本人にそのまま当てはまることが多いです。
ある教会運動が教会に与えられた権威を逸脱していると警鐘を鳴らす人が、諸教会の上に自分は権威を持っているかごとく横暴にふるまって、声にも出せず傷ついている人々が大勢います。また、ある動きが、神の栄光を人間のレベルに引き下ろすと言いながら、実は、神をあがめている人々を、人間的な思いに満たし、言い争いのレベルに引き下ろしています。
今朝、あるクリスチャンから「毒麦」(マタイ13章24節以降)について尋ねられました。それは、自分の中に罪があることを意味しません。そうであれば、すべての人が毒麦になってしまいます。
毒麦は、神の憐れみによって立っている教会またその聖徒たちを、「あなたはそれではだめだ」として貶め、神の恵みではなく、何らかの霊的状態にいなければいけないとして、焦らせ、罪意識を持たせ、何かを行わないと義に到達しないと急き立てるものであり、他者の意見をうんも言わせず、自分の言っていることこそが神からのものだとして正しいと主張しているものです。「教会に毒麦がある」と言いながら、自分自身が毒麦になってしまっていることに気づきません。
批判ではなく、「執り成し」を!
それから、ローマ13章に言及、上の権威は神からのものだから、政治家のために祈るべきだ。適切な批判はしかるべきですが、自分がたとえ好きでなくとも、祈るべきだ、とのことです。