(フェイスブック4月28日に掲載)
ネット礼拝・ネット信仰生活の是非をガチで考えてみた⑤「ネット礼拝の神学的側面:受肉・聖礼典・グノーシス」
ちょっと牧師さん向けの内容になってしまいますが、でも、すべてのクリスチャンに考えられる内容になります。ネット礼拝において、大きな誘惑は、まさに、ヨハネ第一に最も明確に書かれている、反キリストの霊、グノーシス主義です。齋藤牧師は、これをガチで語ってくださっていて、私も強く感じていた部分です。
あるところで、私はこう書いていました。「けれども、オンラインでいくら顔を合わせても補うことのできない、直で交わることが、主の命令であり、聖書に書かれていることであり、そうでなければ、イエス様は「仮現」しても、肉体を取られる必要はなかったのです。「仮現」は、まさにグノーシス主義者の主張でした。最近のデジタル礼拝が、生身の人間が会って礼拝しないことが通常のこととなれば、そうした異端の霊の中に引きずられていってしまうことでしょう。」
外に対する働きかけであるが、取って替わるものではない
彼は、ネット礼拝シリーズの動画配信を連載しておられますが、①でも大きくうなずく話をしておられます。
「ネット礼拝の聖書的・歴史的根拠?」①
外に向かう働きにおいて、その時代においていつも、最先端の伝達手段を使っていたということですね。パウロなど使徒たちは、羊皮紙という媒体で伝えていきました。それによって、パウロがたとえ牢獄にいても、福音のことばはつながれることなく、広まりました。次に、グーテンベルグの印刷機によって聖書の配布が可能となり、後の宗教改革につながります。
そして、アメリカでは大衆伝道が大きく広がった時、テレビという媒体が使われました。そしてIT革命が起こりました。福音宣教、主が、出て行って弟子を造りなさいと命じられたことを守るのに、その時の最先端の伝達手段を使うことは自然の成り行きどころか、使徒たちから続く歴史的教会のある姿であると言えることです。
私も、2000年頃から「ロゴス・ミニストリー」によって聖書講解の説教を音声と原稿を共にウェブ上に掲載していく働きをしてきました。当時は、アメリカでは既にそれぞれの教会にウェブサイトがあり、カルバリーチャペルでは普通に行われていたことなので、私も単に真似しただけだったのですが、これほどの広がりを持つとは、考えてもいませんでした。主は、ご自分のみことばに対して責任を持っておられて、一人一人の人生を変える御霊の命と力であることを知りました。
しかし、大きな課題を感じました。身体を持って行かずに、知識のみで済ませることができる「信仰」とは、果たして本当に信仰なのか?ということです。その試行錯誤の中でもがきながら、9年半前に教会を始め、今に至っています。
外に対する働きとしては、ネットはまさに有用、いや、歴史的教会の延長としてあるべき姿です。しかし、キリストの受肉、神への礼拝という内の働きに取って変わる、仮の姿にはなりえないということです。
私たちの教会でも、実際の礼拝の他にライブ配信も始めました。三種類の方々がいます。第一に、すでに礼拝に集っておられた方々。そうです、身体をもって共に礼拝を捧げた兄弟姉妹です。第二に、身体的に障害を持っておられて外出できない方です。主は、このような方々には特別な恵みが注がれていると信じています。そして第三に、まだ一度も教会に行ったことのない人々が、特にすでに教会に集っていた方々、第一の方々の家族が初めて礼拝を視た、という証しを聞いています。
これらが一つの教会の中で行われているわけで、神の恵みと憐れみの中で健全な動きだと思います。けれども、どこの教会にもつながっていないで、それでネットだけで自分はクリスチャンだと思わせる教えは、危険な異端的流れだと感じています。