イスラム思想研究者、飯山陽さんによる以下の著書を読みました。
「イスラム2.0
SNSが変えた1400年の宗教観」
いつもツイッターとNoteでフォローしている方々の一人です。以前、「イスラム教の論理」(拙ブログの書評)を読み、ここまで分かってしまっていいのか?という驚きを持って読みました。第二弾として、さらに突っ込んだ、今のイスラム教の世界を説明してくださっています。前の書と並んで、一般の日本人だけでなく、私のようなキリスト者にも必須図書に入れても良いほどです。いくつかの点で、日本のキリスト者に読んでほしい、という思いがあります。
教会の宣教と多様性を妨げる同質文化
一つは、日本にある同質を求める文化や考え方では、イスラム教徒と共生はできないという点です。こう言われています。「必要なのは「シンパシー(同情)」ではなく、「エンパシー(異なる価値観を持つ他者の感情に対する理解)」です。」(9頁)
日本の人たちは、どうしても、自分の考えと全く異なる価値観を持った人たちがいるという想像しにくい環境にいます。相手も自分と同じように考えているに違いないと思っています。それが、同調圧力を生む原因にもなっていて、イスラム教徒との共生を難しくさせるということです。
相手の価値観がどのようなものか、それを事実に照らして知っていき、その中ではどのような感情を抱くのか?ということを想像し、理解すること。それをエンパシー(empathy)と呼びます。しかし、これこそが文化や国、民族や言語を超えて福音を伝える「宣教」の基盤であり、イエス様が神であられるのに肉体を取られて、私たちの間に住まわれた動機であります。
日本の教会では、「宣教」と言えば同胞の民に対する伝道しか考えていません。自分の領域の中での伝道なのです。けれども、ユダヤ人たちが、主の御霊による強い導きと促しによって、越えがたき壁を乗り越えて異邦人に宣教したのと同じように、全く異なる価値観の人々の立場に立って、その中で福音を伝えることが、教会の使命として帯びているのです。
ですから、イスラム教徒との共生という難しい課題の留まらず、男も女も、ユダヤ人もギリシア人も、自由人も奴隷も、キリストにあって一つという、キリスト教会そのものの姿にどれだけ近づけるのか?ということにも関わってくる問題なのです。
イスラム教徒から受ける迫害
二つ目に、キリスト者が今、受けている迫害の多くが、イスラム教徒によるものだ、ということです。
もう一人、日本人のイスラム研究者で、池内恵教授の意見をフォローしていますが、彼の中東問題の指摘も大変参考になっていますが、けれども不思議なことに、キリスト教徒がイスラム教徒によって迫害されているという視点は、ほとんど出てきませんでした。イスラム国についての著書もありますから、私は講演会の後で、イスラム国がキリスト教徒を特定して殺している点について尋ねたら、きょとんとしていたのを思い出します。それでも、イスラムの世界のありのままの姿を、等身大で日本語で伝えている彼の論評はとても参考になっています。
けれども、飯山陽さんは、そのまんま、キリスト教会への攻撃を多数の事例を持って取り上げておられます。スリランカでも、インドネシアでも、教会を狙ったテロがあり、エジプトではコプト教徒に対する嫌がらせや迫害も取り上げ、「キリスト教徒とズィンマ(庇護)契約」という項目(205頁)まであり、詳細に、キリスト教徒がどのような仕打ちを受けて入るかを論じています。
参照記事:「エジプトのキリスト者:鉄のような赦しの力」
私は、世界のキリスト者に対する迫害を監視する団体や、宣教団体のニュースをフォローしていますが、ほぼ毎日、悲惨な状況がフェイスブックのタイムラインに入ってきます。いちいち取り上げたらきりがないぐらいです。けれども、これもまた、日本では、先ほどの同質の文化、あるいは島国文化と言ってもいいでしょうが、それがあるので、日本のキリスト教会は、まるでそんな迫害がないかのように生きています。一部が苦しめは体全体が苦しむ、はずなのですが、同じキリストの御体としてのつながりを、実感として持っていないのです。
また、「イスラム教による迫害」とはっきり言えない空気もあるでしょう。イスラム教への憎しみや敵愾心を増幅させるかもしれないという、悪い意味での気遣い、忖度で、現状を伝えない向きもあると思います。もちろん、「敵を愛しなさい」という命令があるのですから、神はこよなくムスリムの方々を愛しておられるのであり、私たちは福音を彼らにも伝えねばなりませんが、愛するというのは、相手が敵対しているという事実を無視することではありません。明確に、反キリスト教の教えであり、迫害を加える対象として、コーランの中にも銘記されているということを、知る必要があります。
SNSによる原理主義化
三つ目、キリスト教とは微妙に違う、SNSの影響がイスラム教の世界では広がっています。
キリスト教は、私は、「宣教などの、外への働きかけにおいては、常のその時代の最先端の技術を利用してきた」と思っています。パウロは、当時、パピルス紙や羊皮紙など手紙を書く手段として、最も進んでいた手段を使いました。グッテンベルグの印刷機が世界初の印刷機ですが、初めに印刷されたのは聖書です。そして、プロテスタントの宗教改革は、まさにそれまで聖職者しか読むことのできなかったラテン語ではなく、一般民の読むことのできるドイツ語に、ルターが翻訳したというのが始まりであり、当時のIT革命があってこその宗教改革だったのです。直接、私たちは、聖書の文言に触れることができ、プロテスタントまた福音派は、聖書本文をじっくり見ることを信仰生活において大きな部分を占めています。そして今のIT革命、SNSの普及なども、キリスト教会は積極的に活用しています。
けれども、イスラム教は宗教改革のようなもの、つまりコーランやハディースの原文に触れたのは、つい近年のことなのです。本書の帯には、「法学者よりも”Google先生”の時代 「啓示」は宗教エリートの手を離れ、原理主義化が加速化する」と書かれています。これを飯山さんは、「イスラム1.0」から「イスラム2.0」になったと形容しているのです。
そして、ここからが問題です。聖書は原点に触れて、イエスご自身の生涯に触れて、本気になって従うのであれば、敵を愛する、敵のために祈る、剣を持つ者は剣で倒れる、悪に対して善に報いる。憐れみ深い者は憐れみを受ける。義のゆえに迫害を受ければ幸いである。などなど、良い実を結びます。
けれども、コーランとハディースには、イスラム国が行った数々の残虐な行いを正当化する、いや、イスラム国こそがコーランの原点を忠実に行おうとしていた実例であるとうことが分かってきます。また、聖書を読めば、カイサルはカイサルへ、神のものは神へ、という政教分離の原則が書いてあり、かつてのキリスト教国の政教一致は聖書的ではないことを知っていますが、コーランは政教一致を教えています。私たちは、「戦い」と言えば血肉の戦いではなく、悪魔や悪霊ども、それらの勢力に対する戦いであることを知っていますが、イスラム教はまさに血肉の戦いになっているのです。
そもそも「原理主義」とは「根本主義(fundamentalism)」という意味で、キリスト教が、目に見える者を信じない近代主義が侵してきていることを危惧して、信仰の根本に戻ろうという運動だったのですが、それは良いことである反面、イスラム教の原理主義は、イスラム国のような姿を求めているということです。
イスラム教の近代化の努力
四つ目、イスラムにおける「宗教改革」を取り上げています。ここでの宗教改革というのは、近現代に合わせたイスラム教の改革の必要性を説いている、エジプトのシシ大統領などの働きを紹介しています。私もそのニュースを聞いた時は非常に驚きました。イスラム教に詳しい人は、「もうこれしか、解決方法はない」と言っていました。テロ組織を解体しても、イスラムの思想やイデオロギーは生き生きと残っているのだから、また形を変えて出てきます。根本の見直しが必要だということです。コプト教会が、アラブの春の後、軍部の逆クーデターを全面的に支持したのをよく覚えていますが、本書にその理由が詳細に書かれています。それでも、困難が山積していますが、アラブ諸国こそが、ヨーロッパ諸国よりも、カリフ制を目指す団体や原理主義組織を非合法にして戦っているようです。
これは、キリスト教会にとって大歓迎の流れです。穏健になってくれることは、その地域に住んでいるキリスト教徒の悲願であろうし、また平穏な環境があってこそ、福音宣教も着実に進んでいくからです。
伝道しなければ、伝道されている
五つ目、「イスラム教の論理」の書評に書きましたが、世界宣教に重荷のある方は必ず、こういった問題を取り上げるとコメントしてくださる一言があります。「だから、ムスリムに伝道するのです。」キリスト者の大きな問題は、ムスリムというと、以上の性格から怖いという思いが先行して、神がこよなく愛されて、キリストが死なれるほど愛されたということ。隣人を自分自身のように愛されたという命令を忘れてしまっているという問題があるそうです。そのために、キリスト教会がムスリムに伝道するのではなく、逆に伝道されているという現況がある、とのことです。
私も正直な話、世界宣教と言えば、いくつかの民族や国々の人々との関わりがあるのみで、ムスリムの人々に対する働きかけはできていません。実は、日本人でムスリムになろうとしている人や、なった人との関わりはありました。私も福音を伝えたい重いですが、逆に相手が私にイスラムを教えようとする勢いさえあり、一筋縄でいかないです。
日本人のそばにいるイスラム教徒
六つ目、最後に、日本にも確実にイスラム教徒が増えているという事実です。第一章は、実に日本に帰化した人で、イスラム国のジハードに関わって、シリア入りした事件から始まっています。最後は、日本人がイスラム教徒に対してしてはいけないこと、気を付けることを、具体的にアドバイスしているところで終わっています。
私も、なんと日本人でムスリムになる人たちに会っていますから、身近なことになっているのです。飯山さんは「共生」の課題を取り上げていますが、私たちは共生だけでなく、いかに隣人になるのか、つまり福音をもって近づき、付き合っていくのか?という課題があるのだな、と思いました。