「隠された宝」(ヨセフ・シュラム著)

 今、カルバリーチャペル・ロゴス東京では、ローマ書9-11章に入っています。そこは、福音が初めに届けられたはずの、イスラエル人がそれを受け入れず、そうではない異邦人がかえって受け入れているという事実に対して、パウロが心の痛みを覚えて、イスラエルの救いを論じている箇所です。

 その中に出て来るのは、パウロ自身がそうであったように、イスラエル人でイエスが約束のメシアであると信じた、残りの民とも呼ばれる人々でありますが、当時から今に至るまで、綿々と、ユダヤ人でイエスを信じ、生きる人々はいました。ヨセフ・シュラム氏もその一人です。イスラエルにおける、ユダヤ人信者の集まる会衆(教会)の牧会者です。

 現代でこそ、「メシアニック・ジュー」という呼び名があり、ユダヤ性を強調する運動として紹介されていますが、特別な存在ではなく、いわゆるパウロなどが、「割礼を受けた者たちの中の兄弟」、キリストにある兄弟で、ユダヤ人の兄弟たちであります。

解釈学の基本の紹介

 前置きはそのぐらいにして、私が本書を読んだきっかけは、何といっても「聖書解釈」です。毎週、説教のために取り組む聖書本文があり、また日々、目にしている神のことばがありますが、そこに書かれてあることを、いろいろな角度から見ていき、その真意を知っていくことを、しばしば「解釈」と呼び、その体系化されたものを「解釈学」と呼ばれます。

 本書の副題が、「紀元一世紀のユダヤの聖書解釈法」とありますが、今、聖書を神のことばと信じる人々にとって、ここで紹介されている解釈法の多くをキリスト教会は導入していると思います。しかしながら、時として、現代人の思考で理解しようする過ちを犯しているのですが、その過ちに、ここで紹介されている解釈法を通して、気づかせてくれます。

基本の解釈

 「パルデス(Pardes)」と呼ばれる四つの解釈法が、紹介されています。一つは、プシャット(Pshat)と呼ばれて、単純に文法通りの言葉の意味を使う方法。二つ目は、レメズ(Remez)です。明白には述べられていないが、文章が暗示する間接的な意味を理解する方法です。三つ目は、ソッド(Sod)と呼ばれ、事情を知る者のみ理解できる隠された意味です。そして、四つ目は、ドラッシュ(Drash)であり、「連想」の意味です。解釈する本文だけでなく、それと関連する聖句も調べる、というものです。この四つの頭文字を取って、PRDSとなり、パルデスと呼ばれるそうです。

 私は、一つ目のプシャットを基本として解釈していますが、聖書は全体として相互に連関した書物であり、そこに神のご計画の全体が浮き彫りにされていると信じています。ですから、四つ目のドラッシュは非常に興味深く、確かに連想する表現に満ちていると思います。

 その他、新約聖書にあるヘブライ的な表現であるとか、聖書の霊感の捉え方の説明があり、込み入った議論を飛び越して、もっと平素なもので興味深いものでした。それから、ヘブライ語の写本にある、明らかに間違いであろうと思われる所にも、無視しないで、ミドラッシュ(注解)をする試みなど、すごすぎると思いました。そして、はっきりと命令になっていない事柄について、教会における指針を、実例を使って導き出す時の解釈は、とても参考になりました。

ユダヤ的聖書解釈の主な原則

 そして、聖書解釈における原則を七つ、紹介しています。

1.カル・ヴァホメル(軽い例と重い例、なおさら)
2.ゲゼラ・シャヴァ(共通表現 ー 「同じような切り口」)
3.ビニヤン・アヴ・ミカトュヴ・エハド(一つの聖書箇所から「群」を作り出す)
4.ビニヤン・アヴ・ミシュネイ・ケトュヴィーム(二つ以上の聖書箇所から「群」を作り出す)
5.クラル・ウフラト(全般的なことから個々のことへ)
6.カツツェイ・ボー・ミマコム・アヘル(他の箇所から類推すること)
7.ダバル・ハニルマド・メイニヤノ(文脈から得られる説明)

 一つ一つを聖書にある実例を出して説明しているので、分かりやすいです。けれども、込み入っているので、何度も本書を開いて、じっくりと咀嚼していくとよいと思いました。聖書を読む時に深みが出て来ると思います。

ヘケシュという解釈

 それから、「ヘケシュ」と呼ばれる、元々の意味は「二つの石を打ち合わせる」という意味の解釈を詳しく説明しています。同じ言葉を含む二つの節を吟味して、どちらの節にもの得られていない新しい教えが現れてくる、というものです。

 イエス様の、「情欲をもって女を見るならば、すでに姦淫を犯した」と言われたのは、第七戒の「姦淫してはならない」と第十戒の「欲しがってはならない」の「二つを打ち合わせる」ことにより、姦淫の行為以上の広範な罪を含んでいるという結論を出された、というのです。

イエスとパリサイ派の「近さ」のゆえの確執

 以上の様々な解釈法は、いわゆる「パリサイ派」の人たちの間でも、聖書を読んでいくことに熱心な人々の間で知られていた解釈法であり、イエス様とパリサイ派は決して遠い間柄ではなく、むしろ近かったために、その対立と確執が、あのように福音書に書き記されている、と言えるようです。

 実は、本書は解釈法だけでなく、現代のメシアニック・ジューの運動についても多くの紙面を割いています。これらは、また別の領域でしょう。しかし第一部の聖書解釈法は、別にメシアニック・ジューに関わるものではなく、むしろ、聖書信仰を持つ福音派のキリスト者たちに、良い学びの教科書になっていると思います。

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