「ジェンダーサイエンス(1)「男X女 性差の真実」」を見て

 11月3日に、NHKで以下の番組がありました。下のリンク先で、5分の動画を視、番組内容のまとめを読むことができます。

ジェンダーサイエンス(1)「男X女 性差の真実」

 ジェンダーという言葉が、日本で一気にマスコミの中で広まっているように思われます。政府の中でも、男女共同参画社会と呼ぶものの中で取り上げられています。

 アメリカを中心に英語の情報も読んでいて、ジェンダー(gender)がいわゆる生殖器の違いを示す「性別(sex)」とは別の男女の定義として、頻繁に表れてきたのに気づいていました。いわゆる社会的な「男らしさ」「女らしさ」の男女の区別を表す概念です。「社会的性別」とも呼ばれるようです。

 最近のマスコミの風潮を見るに、環境保護運動や動物愛護運動などと似ていて、西欧社会で始まったものが一気に世界化している流れの中に、日本もどっぷりと入っていることに気づきます。今回のNHKの番組は、ジェンダー概念を取り入れている内閣府男女共同参画局も否定している、過激なジェンダー議論を展開させています。

性の中性化を目指す番組

 内閣府が目指している社会は、「男女別定年制の撤廃」「DV防止法の制定」「起業家、科学者、政治家など、従来女性が少なかった分野への進出」など、社会制度や慣行の見直しを目指しているものですが、「見直しが不要」なものとしての具体例として、「男女の服装に関する違い」「ひな人形、鯉のぼり」を挙げています。そして、以下のように、過激なジェンダー論を否定しているのです。

○「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭りなどの伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。
○例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。
○また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。

 これらような男女の「中性化」を社会が求めていくべきだとするのが、今回のNHK番組の志向です。

生物学の性別と社会の区別を混同

 「生物学的な男女の区別は、実はあいまいなのだ」というのが番組内の主張ですが、それを「社会的な秩序にある区別」と混同しているところで間違っていると思いました。

 女の染色体がXXで、男はXYなので、「男は女の、いわばスピンオフなのだ」というコメントが番組内ありました。しかし、聖書は「神は男と女に人を造られ、女は男から造られた」と述べています。一見、矛盾しているように聞こえますが、聖書の男女の創造の順番は、胎児の時の性の分化の話ではなく「秩序」の話です。’(そもそも初めの人は、母から産まれたのではなく、神の手に形造られ、初めの女も男から神によって造られました。)しかし番組は、こうした秩序(あるいは規範)を、性分化の話と一緒くたに語り、あたかも古今東西あった、人間の歴史の中で固定されていた男女の性差の認識が誤っているかのごとく、秩序や規範を変えていこうとしています。

 男と女の90%は「モザイク脳」であり、ホルモンの分泌が男性と女性のどちらも、男女が持っているからと言っても、やはり、番組で示されたデータは、圧倒的な割合で男女の違いがある傾向を示しています。

 やはり、男性のほうが女性よりも体力に優位があります。個々で見たら、もちろん、重量挙げの女性選手と私が比べたら、彼女のほうが圧倒的にいわゆるマッチョで、男である私が、なよなよしていることになります。けれども、それは男女の区別が間違っていることを意味していません。スポーツ競技で、「男子重量挙げ」と「女子重量挙げ」と分けていることによって、初めて公平性が保たれるのです。

社会的区別をなくすなら、秩序が一気に崩壊する

 もしそれを壊そうとすればどうなるのでしょうか?今や現実のものとなって、悲惨なものとなっています。自分が女性と自称する男性が女子重量挙げに出場し、他の女性の選手たちが圧倒的に不利になっています。そして、自分を女性だとする総合格闘技選手が、女子の総合格闘技に出場、相手の選手の頭蓋骨を折らすという事件も起きています。

 同じように、性意識は圧倒的に生物的性差によって決まっているので、男女別のトイレ、男女別の更衣所、男女別の風呂に分けられて、秩序が保たれているのです。「ちょっと自分は女っぽいかな?」「草食系だ」という男性はいるでしょう、女の人も自分は全然女らしくないと思っている人たちもいます。けれども、男女の区別を撤廃するものなら、現実に、女を自称する男が女子トイレに入り性犯罪を犯す事件がどんどん起こっています。

 過激なジェンダー議論にある問題は、「差別は是正されなければいけない」というところにありません。差別は現に存在しますし、私も是正されないといけないと思っています。しかし、それは男女共に有する、アイデンティティー、つまり「人の尊厳」の上に立てられるべきで、男女の区別、順番にあるのではないのです。性に根本的なアイデンティーがあるのではなく、性の前に人として造られている人間性にあるのです。しかもそれを、「神のかたち」として、神にあるアイデンティティーに重きを置くべきです。

 これでもまだ、社会的な性の区別を差別だとみなすなら、では、大人と子供の区別を「差別」として是正されるべきとみなすのでしょうか?ここも、脳科学に照らしたら、男女の性差と同じような結果が出るのでしょう。大人っぽい子供もいるし、まるで子供のような大人もいます。しかし、法律で、未成年者と成人の間に区別を無くしたらどうなるのでしょうか?子供が罪を犯したら、大人と同じ罪をもって厳罰に処するのでしょうか?子供にも社会責任を負わせ、納税の義務を課すのでしょうか?今の社会秩序は一気に崩壊することでしょう。

 同じように、動物愛護運動でも、聖書は人は神のかたちに造られていて、被造物を支配せよとあるので、その秩序が問題であるとして、動物の権利を主張します。ここでも誤りがあって、動物は、同じ神によって造られました。だから、神に造られた生き物として、同じ神に造られた人と共通項はいっぱいあります。目、鼻、耳、口、手足、内臓もほとんど同じです。それをもって進化論では、人は動物から進化したという話になるのですが、そうではなく、人と動物に共通点があるのは、同じ神に造られているからです。だから、人が被造物を管理するという違いと秩序が間違っているのではなく、神に造られた生き物としての認識が薄くなり、それで動物虐待につながるのです。動物の権利を人と比べるのではなく、神に造られたものとしての大切さを養うべきでしょう。このように「秩序」と「区別」の中で、尊厳を求めるべきです。

 そうでないと、我が国でもありましたが、江戸時代に、綱吉の「生類憐みの令」のような愚法ができてしまうのです。動物の命を人の命と同列に考えることにより、今度は人間がどんどん牢屋行きとなる全体主義がはびこりました。かの有名な水戸黄門が、綱吉の前に犬の毛皮を持っていき、その愚かさを示したことは有名です。

「秩序」なしの「選択」は、自己の肥大化

 番組では、「選択」が強く指向されています。中絶推進派が「胎は女性の体、だからこれは自分の選択」という主張であるように、「性も選択するもの、性の自分の自由の権利」という考えです。しかし、選択は秩序があって、その中で自由な選択があるというところに意義があるのであり、秩序なしの選択は自己を肥大化させます。

 聖書は、「従う」ことを強調します。神に従うこと。神の立てた秩序に則ること。キリストは神であられたのに、それでも神に固執せず、人となられて、十字架の死に至るまでご自身を従わせました。この方にこそ、神のかたちの本質が完全に表れており、キリストによって霊的な人間性を取り戻した者は、従う生活が求められています。キリストにあって妻は夫に従い、夫は妻を愛することで自分を従わせ、子供は父を敬い、父は子を教育し、奴隷(しもべ)は主人に従い、主人は公平に奴隷を取り扱います。迫害を受けても、主に裁きをお任せします。従うところに、真実な愛があります。

 ところが、選択だけが強調されて、秩序さえも壊しかねないほど突き進むのであれば、それは自分自身が神と同じようになることです。選択があるのは、あくまでも「神」のかたちに造られたからであり、神の主権の中に自分を服させることによって初めて成り立ちます。聖書が予告する終わりの日は、その神の秩序に反抗する悪魔が暴れる姿を描いています。キリストの現れる前に、神に大言壮語する獣が現れ、ダニエル書7章には、「小さな角」とも呼ばれ、人間の目を持っていると書かれています。人間の知性が肥大化し、神にさえも反抗し、冒瀆を吐くのです。

 私が憂えるのは、今の動きが世の終わりの預言と重なるからです。(第四の獣は)「いと高き方に逆らうことばを吐く。いと高き方の聖徒を悩ます。彼は時と法則を変えようとする。」(ダニエル書7:25)古今東西にある秩序、つまり時と法則を変える動きが、今、起こっています。

福音的信仰は、自分の出自をわきまえるべき

 ところで、この記事を書こうと思ったきっかけがあります。キリスト教会で、聖書を神のことばとして信じることを強調するグループを、しばしば「福音派」と呼びますが、その福音派の教会で長いこと出版や新聞の編集で携わって来られた方が、この番組を見て喜び、教会のあり方や聖書の読み方までの変更を示唆する投稿がフェイスブックで掲載されたことです。脳科学の見識で、今の社会現象を、ましてや聖書の解釈や教会のあり方まで論じているところに、飛躍があると感じました。

 この方が主張するには、伝統的な聖書解釈を優先させる反知性主義の傾向があり、科学の解明による知見と照らし合わせる必要があると言われるのですが、この番組で語られていることは、真新しいことでもなく、ある意味で、使い古された内容のようです。私が見ても、初めのドミニカ共和国サリーナス村の例は、性器の未分化の問題であって、その他に出てくる性自認とは全く別物だと思いました。こちらに、性器の未分化の方々のための団体が、当該のNHK番組に対して声を挙げています。

ネクスDSDジャパン 日本性分化疾患患者家族連絡会【男女にある様々な体の性のカタチ】

 けれども、「目からうろこ」と新奇の驚きを述べられています。問題は、伝統的、保守的な解釈ではなく、むしろ、ご本人が今の科学への知見に乏しいことなのではないでしょうか?

 また、現代の思想的潮流にも疎いと私個人は感じます。今の問題は、以上述べたように、アイデンティティーのイデオロギー化です。例えば人種問題。これ自体は悪いことですが、構造的に人種を批判し、白人であればそのまま悪であるとする理論が公教育に入り込み、米国では問題視されています。環境問題も同じです、取り組まないといけないでしょう。けれども、先の投稿で書きましたように、純粋な環境問題への取り組みではなく、善悪の二元論になって一種の近代宗教と化している状況です。いわゆるLGBT運動についても、日本にも世界にも、同性への指向、性への違和感などは歴史で長いこと存在していましたが、サブ的な文化の中で、静かに保たれていました。ところが、すべての秩序をそこに集中させるべきだとする動きが全体にあります。共通しているのは「秩序への挑戦」という恣意的な志向、イデオロギーなのです。

 自身も、福音的信仰を持っている者として思うに、私たちの出自を確かめないといけないのではないでしょうか?「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。」(Ⅰコリント1:26-27 )自分がいかに知性に乏しいのか、その中で、世には愚かと思われる十字架のキリストを信じて、救われたのではないでしょうか?自分は知見を得たと思った時点で、すでに時代遅れの知見をつかまされているような気がします。(関連記事

分からないことは分からない、とすべき

 世は、分からないことだらけです。分からないことは分からないことにする。一緒に悩む、ということが大事なのではないでしょうか?しかし今の潮流はその反対で、分からないことをサイエンスという名で、分かりやすく分析せしめ、それに基づいて世界をまとめあげようとする動きがあります。そのような流れに安易に飛びつかないことが大事だと思います。

他の方々の意見を紹介します

 下のコメント欄に、この番組について、またフェイスブックの当投稿について感想を述べた、仲間のクリスチャンたちのコメントを、了承の下で掲載させていただきます。それから、下のブログは、キリスト者のみる世相を紹介している良質な記事が多いです。

クリスチャン世相分析

「「ジェンダーサイエンス(1)「男X女 性差の真実」」を見て」への5件のフィードバック

  1. クリスチャンの仲間1:

    科学というよりも「哲学」「イデオロギー」的な番組と感じました。

  2. クリスチャンの仲間2:

    平均的な男性より体格がゴツい女性がいたり、平均的な女性より筋力が劣る男性がいます。平均的な男性よりも、モノに興味があって、理工学を学ぶ女性がいたり、平均的な女性よりもヒトに興味があって、秘書や看護士になる男性がいます。

    でも平均的な男性、女性はこうでは無いので、極端な例を持ち出して「誰しもがLGBTQIの要素を持っている」と論ずるのは、論理的誤謬です。

    男性にはXY染色体と男性生殖器、女性はXX染色体と女性生殖器という絶対的な境界線があります。

    染色体異常の人や両性具有の人がいるじゃないか!も、同じ極論を用いた論理的誤謬です。絶対的な生物学的「壁」があるから、染色体異常だと診断できるのです。

    創世記の創造の記述において、つくられたものの区別化は大切なサブテーマだと思います。創造主と被造世界との絶対的な線引き、そして創造主なる神様による被造世界の中の線引き。大空と海。海と陸地。「種に従って」区別される動植物、そして最後が「男と女とにつくられた、人間」です。

    「誰しもがLGBTQIの要素を持っている」と論ずるのは、LGBTQIを「普遍化」したい心の声であって、LGBTQIを「普遍化」したいのは、神様が良い意図を持って設定した区別を超越したいのが元にあり、その元にあるのは、創造主なる神さえも超越したい、「あなたは神のようになる」というサタンの声に拐かされた人の心です。

    神様はそもそも、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造」ったので、サタンに耳を貸さなくても、最初っから人間は「(被造世界に対しては)神のよう」であるのです。でも皮肉なことに、「あなたは神のようになる」というサタンの言葉を信じ、「私は男と女とにあなたがた人間をつくった」という創造主なる神様の言葉を信じないので、男とは、女とは、果ては人が何なのか分からないが、分からないなりに(創造主なる神様に対してすら神となったと勘違いしている)自分らで再定義しよう、という動きがあるのです。

  3. クリスチャンの仲間3:

    LGBTとジェンダー論は、リベラリストやグローバリストの発明した思想だと私は思います。

    彼らは男と女の区別、国境、国家といった個人を形成するアイデンティティを破壊しようとします。その方が支配層が一般庶民を管理しやすいからです。

    行き着くところは「普遍化」された「個」のない管理社会。社会主義や共産主義に近い考え方でしょう。

    今のリベラルが左派ととても親和性が高いのはそのせいでしょうね。
    よって聖書(引き合いに出すことはあっても)とも、福音主義ともまったく関係ないと私は考えています。

  4. クリスチャンの仲間4:

    内容的には知っていることばかりで特に目新しいことはなかったですね。

    しかし、この番組は科学的な側面を強調しつつも、ある政治的な意図をもって制作されたというのが率直な感想です。

    その政治的な意図とは「LGBT解放運動」に共感した左翼リベラリズムです。

    彼らの狙いは「男女の性別を絶対的なものではなく、極めて移ろいやすい相対的なものである」と人々を再教育したいのです。

    こういったことが正当化されるならば、同性愛、同性結婚は当然のことですが、性転換などありとあらゆることに免罪符を与えることになります。

    逆に同性愛、同性結婚などに反対する人たちは「非科学的な守旧派」として非難を受けることになります。

    「数字は嘘をつかない」と言われていますが、それこそ嘘であり、数字を利用して人を騙すことが簡単なように、都合の良いデータのみを使用することで科学を利用して人を騙すことは簡単にできます。

    Kさんが「目からうろこ・・・」と言われたのは、彼が自然科学や性科学についてのリテラシーがなかったことが大きいと思います。

  5. いつも、世界情勢など、わかりやすくご説明下さることを感謝しております。以前私は鳩のように素直にという事だけを意識し、騙されてばかりおりましたが、蛇のように賢くという事がどれだけ大切なことなのかを思い知りました。本当に感謝しています。心から祈っております。

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