カルバリーチャペル国分寺の牧者、知主夫さんが、インターネット情報で悩んでいる、新しくクリスチャンになった人に答えています。
アメリカの大統領選の不正選挙疑惑の時から反ワクチン情報まで、私も、こうした情報に距離を置きました。マスクやワクチンに関することも同じです。このことで、私のフェイスブックの友達関係も切ってきた方々が何人かいる、ということに気づいていました。
同じように主イエスが地上に再び来られると信じ、同じように、その前に獣の国が来ると、聖書預言により信じていても、そのように信じている人々の中から、不正選挙疑惑や反ワクチンのことと、その終わりの日の生き方を説いていることに、強い違和感を抱いています。
理由は、知主夫さんが明確に二つ答えています。
一つは、ワクチンのことだけでないでしょ?ということです。獣の数字「六百六十六」は、他にも数多くの現象がその前兆として見えます。スマホやクレジットカードでさえ、いや、こっちのほうがよっぽど、獣の国の体制に利用される蓋然性が強いと、確かに私も感じます。
今回の大きな世界の流れ、ワクチン義務化も、その、ごくごく一部でしょう。全体主義的な動きは、以前よりもいっそう色濃く表れています。けれども、ワクチンだけを取り上げるのにとても違和感を抱くのです。バランスを崩しているというか、獣の国、終わりの時の患難を、むしろ安価にしていると感じます。
獣の国に向かう欺きは、もっともっと狡猾で、私たちがよかろうと思っていることの、いろいろなところに既に深く浸透しています。それらをすべて避ければ世から出て行かないといけません。けれども、世から守られることをイエスは祈られても、世から出ていくようにとは祈られていません(ヨハネ17章)。
だから、ワクチン反対運動を終わりの日に結びつけることは、その悪の現実をまだ表面的にしか見ていないか、あるいは、また別の目的があって、聖書的な終わりの姿ではなく、むしろ、それを別の目的のために結果的に利用しているのでは?と思うのです。
もう一つは、まさに「神の救い」についてのことです。キリスト者として、反ワクチン運動に関わることはその人の自由ですが、それと「終わりの日の獣の国の体制に反対する」という意味合いを付けることに、警戒心があります。
キリスト者に与えられている務めがあり、それは時が良くても悪くても行います。終わりの日には、既に命じられている神のみこころを、ますます励むように、自分たちの行いを確かめるためにあると思います。「目を覚ましなさい」「用意していなさい」という主イエスの命令は、そのことを話しています。
コロナ禍になって、集中させなければいけないのは、「それでも宣教をどう進めるのか?」ということでしょう。ことばによる宣教があるし、また、この動画で強調している、行いによる宣教があります。コロナ禍で貧しく、苦しんでいる人たちがいます。そういった人々に助けの手を差し伸べるとか。また、世界ではコロナ禍で、ますます、キリスト者が迫害で苦しんでいます。その人々のために祈るとか。そっちのほうに焦点を合わせるべきです。
私たちの救いは、ワクチンから人々を救うことではなく、罪から救ってくださるキリストを、ことばと行いによって示すことです。このような状況にになっているからこそ、ますます、これらのことを行うように励まないといけないでしょう。
これらの反ワクチン運動が、終わりの日の幻とキリスト者としての務めの基本から外れる強い流れを感じるので、書かせていただきました。
「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。」(Ⅰテモテ1:5)
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