信教の自由がたとえなくとも

(フェイスブックの投稿から転載)

 「信教の自由(Religious Liberty)」について、ジョン・マッカーサー牧師が批判している発言について、多くの批判があるというニュースを読みました。私はむしろ、彼の真理に基づく発言に、その勇気と明白性に強い好感を覚えました。

Clip Of Pastor John MacArthur Had Critics Pouncing…Turns Out It Was Edited

神の民は常に少数派

 我々キリスト者は、信教の自由について、神に感謝すべきことだけれども、それに頼るべきではない、ということを知らないといけないと思っていました。聖書には、常に神の民は少数派です。イスラエルの民が、ヤコブの家族から始まり、エジプトでも奴隷となっていました。そこから救い出されましたが、多数派になったのは、ソロモンの治世の時だったでしょうか。しかし、そのまま世的になり、分裂します。

 神の教会が生まれました。ローマの支配で、キリスト者は少数派であり続け、迫害される人々でした。その中で神の御国は着実に進んで行ったのです。それが変化したのが、皇帝コンスタンティヌスが信教の自由を認めた、ミラノ勅令を出してからであり、そしてキリスト教は国教化して、政治的に守られ、むしろ多数派として迫害者の側にさえ回ったのです。

 今の宣教状況を見ても、戦後は、教会は非西欧圏で一気に広がりました。そこは信教の自由が認められているのではなく、むしろ迫害下にいる国々が多いのです。けれども、その国が繁栄していく時に、そうした教会も挑戦を受けます。韓国の教会が経済成長が止まった時から教会の内部で多くの課題が生まれたように、繁栄の神学が最も大きな問題となっています。

 個々人を見ても、苦しみによって神の教えを学び、信仰に至ります。試練があって、それで信仰が純化されます。それは教会も同じであり、神は試練を許されて、そこで神の前にひれ伏し、従い、御霊によって強められます。国の政策においても同じです。

感謝はするが、頼る対象ではない

 もちろん、信教の自由には、神の一般的な恩寵が働いています。それに深く、感謝して、尊ばないといけないと思います。つい最近でも、第一波の時に、政権の中枢に近い政治家の方から、「明石さんの教会では、三密を避けながら礼拝を続けておられるのですか?」と問われ、政府が宗教に関与しないという立場、憲法を順守する立場をはっきりさせていたことに、神に感謝しました。

 しかし、たとえそうでなくとも、神は教会を清めて下さいます。迫害がかえって、御国を広げるということ。イスラエルの民の時から、それは真実でした。私たちが何に頼っているのか?を問わないといけないでしょう。イエスの御名になっているか?それとも、自分の都合や状況に合わせるだけになっているか?

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