「ネグレクト」と聖書命題

これまで、日本の政治やら世界の動きやら、いろんなことを書いてきましたが、身近な社会問題を考える機会が与えられました。一つは「家庭内暴力(DV)」そして、もう一つは「育児放棄(ネグレクト)」です。

しばしばニュースで出てくる問題ですが、たぶん皆さんの周りでも単なるニュースではなく身近の問題として感じておられるものと思います。

日本は非常に秩序があり、静かさを好む良い社会だと思いますが、それが裏目に出て、いろいろな問題が起こっています。もちろん世界的な問題ではありますが、日本の社会と文化でその出方が特徴的です。

次の英文の記事で、はっとさせられました。

the 68-year-old director spent 15 minutes issuing a stern warning about the dangers and delusions of living through virtual media. “All of our young people today derive their pleasure, entertainment, communication and information from virtual worlds,” he declared. “And all of those worlds have one thing in common: They’re making young Japanese weak.”

Miyazaki ticked off the usual suspects – cell phones, emails, video games, television – and he also included two more categories: manga and anime. “These things take away [young peoples’] inherent natural

strengths,” he continued, “and so they lose their ability to cope with the real world. They lose their imaginations.”
https://www.adbusters.org/magazine/86/private-worlds.html

宮崎駿と言えば誰でも知る人となりましたが、私は彼が「千と千尋の神隠し」を制作したとき、ものすごい警戒心を覚えました。外国の人にはわからない領域かもしれませんが、私たち日本人の幼い頃の、神社にまつわる原体験を使って、ただでさえ閉塞的な日本社会を、仮想の世界に引き込むつもりなのだ、と強い憤りを覚えました。

そして彼はそれを確信的に行っていたことを覚えています。ところが、今になって本人が「今の日本の若者が、楽しみや娯楽、意思伝達、情報を全て仮想世界から得ている。」との警鐘を鳴らしているのです。そして、「携帯、メール、ビデオゲーム、テレビ等が、彼らの内在する力を殺いでいる。その為に現実社会に対処する能力を失っている。想像力がないのだ。」と言っています。

最近、NHKスペシャルで、シベリア抑留者を帰還させるよう圧力を受けたソ連が、彼らを「赤」にしてから帰国させるという政策を取ったことを見ました。けれども、囚人間の競争が激化し、互いに吊るし上げをしている姿を見て、ソ連当局自身が大変憂慮した、という話を聞いて、「これは同じだな」と思いました。

私は、この秩序正しい、静かさを好む日本社会が好きです。けれども日本に戻ってくる度に異様に感じるのは、電車の中で、「携帯電話の使用を控えてください。」というアナウンスがある反面、誰も電話では話さないのですが、半数いやそれ以上の人が携帯の画面に向き合っていることです。携帯で大声で話してうるさいほうがよっぽど健康的ではないか?と思ってしまう程です。

これでは人の想像力を減退させます。自発的に何かをする力を減らします。人々との直接の接触によるストレスはある意味、とても人間存在にとって大事なのに、それから回避することによって「自我」を増大させています。

私たちが今いる所に引っ越したとき、互いの誤解で、実際に荷物を運んでいる若者が怒り始めました。私たちも言いたいことは沢山ありましたが、相手は自分が完全に正しいと思っており、別れ際は、目つきが変わって暴力でも振るうのではないかという恐れさえ感じました。最近の若者は「すぐに『切れる』」という言葉を思い出しました。

そして、ある人から、最近の若いお母さんは、子供に対してすぐに何かを与えることによって静かにさせる、子供に実践的な躾や教育をしない、という話を聞きました。例えば、電車で子供が泣いたりするのはある程度、許容されなければいけないのですが、それをひどくいやがる雰囲気が立ち込めているためか、すぐにお菓子などを与えて静かにさせようとする、とか。

「静か」なのは良いのですが、「煩さ」がないことはある意味、恐ろしいことだと思います。「静かさの中にある緊張状態」とでも言いましょうか、あのぴりぴり来ている姿は恐いです。

「自分」というもの以外の外の世界との接触の仕方が、分からなくなっている感じがします。そして、想像力を働かせて対処する力が殺がれているのです。

特に夫婦の領域、それ以上に子育ての領域は、聖書に書かれてあるとおり、最もこの外との世界の摩擦が多いところです。最も想像力を働かせなければいけない領域であり、そして自己犠牲が最も要求されるところです。もう結婚する時期だから、また結婚したのだから子供を生まなければ、という社会通念上それらを行うのですが、その外の世界との摩擦と接触に耐えられず、すぐに切れる、怒る・・・という風になっているのかなあ、と思います。

急に大声を出して怒っているお母さん・・・よく見ると相手はまだ乳児だったりします。

これと、これまで書いてきた日本の政治と社会、世界の国々の動きなど、一つのテーマが貫かれているように思えます。「自分」です。自分を愛し、権威といわれているものを侮るという世の終わりの兆候なのです(2テモテ3:2、ユダ8)。

読み応えがあった新聞記事は次です。

「児童虐待を考える」

しっかりしたルポ的な取材に基づいています。

そこに共通して出てくる児童虐待と放棄の原因が、「親から虐待また放棄を受けている」というものでした。この負の連鎖を聞いた時に、次の御言葉を思い出しました。

「父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:7)」

そして、その連鎖を断ち切る福音がエゼキエル書に書いてあります。

「しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。

しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。(18:10-17)」

たとえ親が愛情を自分に注がなかったとしても、御霊によって、キリストにある神の愛が心に注がれることによって、その連鎖を断ち切ることができるのです。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」