オバデヤ書に見る「エドム根性」 - エドム人とパレスチナ人

オバデヤ書」は、現代のヨルダン南部にいたエドム人に対する預言です。彼らの特徴は、次のようなものでした。

1)父祖エサウが弟ヤコブから受けた仕打ちに発している。長子の権利を奪い取られた憎しみと恨みが、その子孫代々に受け継がれた。

2)ヤコブまたその子孫のイスラエルに対して神は、エサウが兄だから争ってはならない、その土地を取ってもいけないと命じられ、イスラエルはそれに従ったが、エドム人は戦争も辞さない態度で対峙した。

3)神が「兄が弟に仕える」と言われたように、エドムは基本的にイスラエルに従属していた。士師の時代から絶えず戦っていたが、ダビデとソロモンによて従属し、そこで劣等感が強くなった。機会のある事にユダを攻撃した。

4)ユダがバビロンに滅ぼされる時に、彼らはエルサレムの破壊を見て喜び、苦しみ逃げる人々を封鎖し、城内の財宝を貪り、またユダの地を我が物にした。

5)エドムは自分の自然要塞ボツラで高慢になっていたが、根こそぎ滅ぼされた。

現在「パレスチナ人」と呼ばれている人々はアラブ人であり、エドム人とは民族的に異なりますが、私が危惧するのは同じ気質をもってイスラエルに対峙しているのではないかと、いうことです。

パレスチナ人は、「自分たちの土地が48年の戦争で奪われた」という強い怨念によって動いています。けれども、そこには47年の国連分割案をアラブ諸国が拒否したことによる悲劇であり、一重にイスラエルのせいではありません。

そしていくつかの戦争を経て、ようやく進んできた和平交渉の席を故アラファト議長が蹴り、第二次インティファーダを引き起こしました。けれども、それをもイスラエルは乗り越えて、現在、直接の和平交渉の場に呼び入れようとしています。ところが、現在のPLOの議長のアッバス氏は、こんなことを言っています(7月6日)。

If all of you [Arab States] will fight Israel, we are in favor. Palestinians will not fight alone because they don’t have the ability.(あなた方みながイスラエルと戦うのであれば、私たちはそれに乗ずる。パレスチナ人は独りだけで戦わない、その能力がないのだから。)
http://www.palwatch.org/main.aspx?fi=157&doc_id=2543

まだ闘争路線を捨てていないのです。

今のパレスチナがこの闘争を行っていないから、イスラエルは経済的支援も惜しみなく行ない、西岸はこれまでになく経済的に発展しているのです。私も実際、そのパレスチナ人の人々の顔を見て、何か希望を見た気持ちでした。

けれどもパレスチナ人の誇り、またアラブ人たちの誇りは、未だ「イスラエル打倒」の考えに依拠しており、イスラエルの国の存在を本質的に認めていません。彼らは実に、「自国の建設に対する情熱よりも、イスラエルを抹殺するという情熱の方が勝っている」のです(「つのぶえ誌」2010年8月号より)。

私はこれまでイスラエル側の記事も追ってきましたが、ユダヤ人が帰還した「シオニズム」から始まり、イスラエルの独立宣言においても、そこの住民を排除するという考えは初めからありませんでした。(右派のイルグンにはありましたが、彼らが主流になることはありませんでした。)そしてこの国是は今でも変わっておらず、パレスチナ人との共存をイスラエルは基本的に望んでいます。

ユダヤ人が絶対に譲れないのは、「ユダヤ人主権の国家」と「その生存権」、また「首都エルサレム」です。それが壊されない限り彼らはパレスチナ人を排除しようという気は毛頭ありません。

このことと、エドム人の領土を、何の害も与えることなく通過だけさせてくださいと申し出たモーセたちと、それに敵愾心を露わにして対峙するエドムと通じるものを見るのです。

世界貿易センター跡地付近にモスク建設

このニュースはみなさんご存知でしたか?

グラウンド・ゼロ付近のモスク建設計画に反対意見続出(CNN日本語版)

このニュースの重要性は、イスラエル旅行に行ったことのある人ならば一目瞭然です。ユダヤ教とキリスト教のゆかりの地には必ず、イスラム教寺院が建っています。最大のものはもちろん、神殿の敷地に建てられた岩のドームと、アル・アクサ寺院です。

これは昔のものではなく、例えば数年前もナザレにモスクを建てようとして、バチカンも動いて阻止させました

イスラム教は自分たちが征服したところを、アッラーの勝利の証しとしてモスクを建てます。つまり、世界貿易センターの跡地付近に建てるということは、ムスリムであった犯人たちが、アッラーのゆえに殉教したことを記念したいだけなのです。(左の写真はハイジャックをした犯人たち)

反対団体によるビデオ

おそらく多くのムスリムの人は、上の主張に対して「我々はそんな風に考えていない。」というでしょう。それはもちろん、個々人が意識的に考えることは少ないかもしれませんが、イスラムの神学体系の中でこのようなことが起こっていることは、少し頭を働かせたらすぐに気づくはずです。

英語の分かる方は、「ハマスの子」の著者モサブ・ハサン・ヨーセフ氏による記事もお読みください。彼は、「そんなに『大きな貢献をしたい』というのなら、モスクではなく病院を建てよ。911の遺族に何か役立つものを作れ。」と主張しています。そういう発想ができないその精神構造がイスラム教の中で出来上がっているのです。

人というのは意識していなくても、一つの気質の中で動いていることがあります。昨日「オバデヤ書」を学びましたが、そのメッセージ題は「エドム根性」でした。次に、我々人間にある「エドム人の気質」についての記事を書きたいと思います。

恵比寿バイブル・スタディ 8月4日

お元気ですか?

先日、メンバーのいなさんが出演なさるコンサートに応援に行って来ました!
他の出演グループ・観客の全てがノンクリスチャンという中でたったひとり…恐れるのでもなければ特に力むのでもなく、本当に自然体でバンジョーを演奏しながら主を賛美しておられました。
イエス様が働いてくださっているのがよく分かって、感動して涙が溢れました。

「『委ねる』ってこういうことなんだよ」と神様が見せてくれたんだと思います。
「主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」(詩篇32:10)

では、今週の学びのお知らせです。

◇8月4日(水)午後7時~
◇田道住区センター三田分室 第2会議室
◇聖書箇所 詩篇第33~37篇の予定

♪ご持参の食事は、メッセージ前あるいはメッセージ終了後に、召し上がって頂けます。

☆8月の学びの日程
4日・18日・25日※全て水曜日です。

※可能な方は、下記のアドレスに、ご予定をご返信くだされば感謝です。
ebisu.bs @gmail.com
(bsと@の間の一マスを取ってから送信してください)

みなさん守られますように。

真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う

下の「靖国神社参拝」の記事は、主に、保守を唱える不信者の日本人に対して書いたものですが、今度は、キリスト教関係者の方々にお伝えするものです。

以下の文面は、下の記事に引用したホーリネス教会の牧師によるものです。記録のため全文引用したいと思います。

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真実に福音に生きるために - 戦責告白と「悔い改め」を問う

上中 栄
日本ホーリネス教団 鵠沼教会 牧師

 牧師家庭に育った筆者は、子どもの頃から劇的な罪の悔い改めの証しを聞いていた。十代の後半、それなりに信仰を得た筆者は、かつて万引きをした店へ行き、昔聞いた証し通りに謝った。

 しかし恥をしのんで告白するが、その時、自分の顔に「笑み」が浮かんできたことを覚えている。神に赦され、人にも赦されるであろう安堵感からくる罪の意識の低さが露わになった、実に軽々しい悔い改めであった。「キリスト者」を装った苦々しい思い出である。

 一 戦争責任の告白
 さて、戦時中に弾圧を受け、自らを被害者と理解してきたホーリネス系諸教派の中から、戦争責任を言い表す言葉が発せられた。筆者の連なる教団に関して言えば、その前身である日本聖教会の神社参拝や宮城遥拝、認可を得るための教義の変更、国家の圧力に屈しての日本基督教団参加、さらに弾圧時の裁判できよめ教会の牧師との違いを強調しての自己保身等を悔い改めた。

 それは天皇制に屈し、信仰告白を貫くことが出来なかったためであるが、現在の教会も、天皇制との対峙は避けられない日本社会にあって、信仰告白に生きるという同じ課題を負っているとの自覚の表明でもある。

 このような営みについて、被害者から加害者への意識の変化が注目されたり、好意的な評価や至極当然との辛辣な批判も耳にした。たしかに私たち自身も私たちに対する評者も、「当事者ではないから言える」という面はあるだろう。

 そこで日本の諸教会は、教会は時と場を越えた共同体であるという理解によって戦争責任を言い表した。先達の過ちを、現在の自分のこととして悔い改めた。それは神学的にも正しい教会観と歴史観であろう。

 二 問われる悔い改めの「質」
 しかし、先達の過ちを負うことの難しさは、時間的な開きだけにあるわけではない。教会の「悔い改め」の質に問題があると思われる。戦時下の教会の歩みを振り返る営みの中で、しばしば冒頭の筆者の体験と、似た経験をするのである。

 その一つは、当事者でないために、事実を知ろうとしなくても、おおよその情報だけで、自らの心を探られずに悔い改めができてしまうことである。教会は痛みも恥も感じずに、笑顔で悔い改め、謝罪することもできる。

 さらに悔い改めることで、自分たちが善良なキリスト者であると、無意識のうちに自負することさえできる。主イエスの譬えに登場するパリサイ人が自分が《この取税人のようではないことを、感謝します》(ルカ18・11)と祈ったように。

 日本の教会は、簡単に悔い改めすぎてはいないだろうか。それは何も自由主義史観の人々のように自虐的であってはならないということではない。むしろ真剣な悔い改めが必要であるが、しかし教会の罪の意識が薄く、それでいて罪の告白や謝罪の言葉が簡単に発せられているように思われる。

 例えば戦争責任の自覚によって、アジアや沖縄に目が向けられても、それらの多くは同情の域を越えているだろうか。日本伝道会議の沖縄開催の必然性は何だったのか。同じく政治や社会の動向に関心がもたれても、そこに教会の主体性はあるだろうか。日本の道徳や教育を憂えても、教会の固定した価値観と世との開きに教会は気づいているだろうか。

  三 福音の豊かさに生きるために
「悔い改めへのこだわりは、ホーリネスの教派的な特性か」と尋ねられたことがある。自己愛や「ありのまま」等、自らを肯定する言葉がはやる今日のキリスト教界にあって、悔い改めとは教派的特性でしかないのか。

 しかし《罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれ》(ローマ5・20)るとある通り、教会が神の恵みをどうとらえているか、その福音理解が問われている。今日、戦時下の教会の過ちについては何でも言える。しかしその本質的な問題は、誤った福音理解のゆえに、天皇制にすりより信仰告白を貫けなかったことであり、それはそのまま今日の私たちの課題である。

 安易な悔い改めは、安易な福音理解しかもたらさない。日本の教会の社会分析や人間理解が安易であってはならない。教会が福音に深く根ざす時、歴史と社会に対する目が開かれる。人間の価値は、その内面性だけでなく、社会性においても認められなければならない。これらは、本来一つの事だからである。このように私たちが託されている福音は、極めて尊いものである。

 それだから教会の戦争責任とは、多くの穏健なキリスト者が懸念するような社会問題ではなく、現在の自らの福音理解を問う信仰の事柄である。歴史を振り返り、自らの在り方を省みる教会の展望、すなわち福音宣教の道筋が、確かな福音理解に基づいて開かれるよう願わされる。
(http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0000017)
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これは、日本の福音派教会に対する極めて重要な問題提起です。

私は知り合いの韓国の牧師さんから言われました。彼は日本の神学校に勉強しましたが、「その時、日本のクリスチャンに、『(過去のした日本の過ちを)ごめんなさい。赦してください。』と言われました。でも私は、『自分のおっしゃっていることを、分かってそう言っておられるのですか。』と聞きました。」だそうです。

教会の指導層がいわゆる「戦責」について声を大きくして告白しているものだから、信徒たちも(特にこの場合、福音派の神学校ですからその神学生が影響を受けて)、このように謝る人々が多いのです。でも、本当に悪いと思って謝っているのでしょうか?

私自身は決して簡単に「ごめなさい」と言えません。実は謝ったことがありません。なぜなら、まだ知らないからです。実際に戦時中、日本語を学校で習ったために日本語を話せる年配の韓国の方、在日の方にもお会いしたことがありますが、やはり「ごめんなさい」という言葉は言えませんでした。それよりも、その方々を知ること、その実体験の歴史を拝聴することで、心は精一杯でした。(概して、実体験をされている方のほうが『日本』という昔への思い出がいっぱいで、優しく、落ち着いておられます。)

そしてその韓国の牧師さんは、「韓国人も、今の日本について何も知らない。何も知らないで日本に宣教だ、と言って来るけれども、実際の日本を見て考えを変える。」と言われています。

そうなのです、日本人が過去の日韓併合を知らないだけでなく、韓国人もその後の日本を知らないのです。知らないもの同士が、一方で「ごめんなさい」と言い、もう一方はその言葉を聞いて気持ちを良くしているのです。(悪く言えば反日映画を鑑賞して、『すっきりした!』と思っているのに、毛が生えたぐらいのものです。)

私は、このような謝罪ゲームをして、韓国の兄弟姉妹と付き合いたくはありません。

「悔い改め」というのは「神の前」でするものです。そしてそれは、深い福音理解に基づくものです。普段から、キリスト者の歩みを確かなものとし、偶像礼拝に対しても敏感に、そして知恵をもって対処し、それから外や上からの圧力があっても、神からの良心を選び取ることをしていなければ、必ず同じ過ちを繰り返します。

私は、戦争責任の告白の前に、今の日本キリスト教にとって、キリストにあって堅く立った信仰を養い育てることこそが、真の告白であると信じています。

靖国神社参拝について その3

(「その2」からの続き)

「無知」が「凶暴性」へと

けれども、日本ではこのような宗教の「中身」にまでつっこんだ議論はほとんど皆無です。かつてオウム真理教による地下鉄サリン事件が、宗教へのアレルギーを増幅させましたが、では彼らが何を信じ、何を宗教的に実践していたのかについての議論はほとんどありませんでした。日本人は「教理」とか「教義」、そしてその「実践」について無関心、無頓着なのです。

これが単なる無知では済まされず、これが共産主義者と同じ「純粋になればなるほど残虐になる」凶暴性を持っています。それがキリスト教会に対して、戦時中に起こったのです。

ホーリネス弾圧事件

このことについては、クリスチャンの人もあまり知らないと思いますので、上のウィキペディアの記事の一読をお勧めします。そして彼らが罰せられた判決文を引用します。

1934年1月大審院検事局が3教派の共通定義を行った。「神は近き将来に於いて「キリスト」を空中に臨ませ義の審判を開始し戦争その他災厄の充満せるいわゆる患難時代を現出せしめたる後「キリスト」を地上に再臨せしめて我国を含む世界各国の統治権を摂取せしめ「キリスト」を統治者、携挙せられたる聖徒を統治に参与する王、神の選民と称するイスラエル人を支配階級となす千年王国なる地上神の国を建設し次で新天新地と称する神の理想社会を顕現すべきものなりとし、天皇統治が右千年王国の建設に際して廃止せらるべきものなりと做す国体を否定すべき内容のものなり」

もし私がその時に生きていた教会指導者であったなら、まったく同じ訴状で刑に処せられたでしょう。「ロゴス・ミニストリー」が信じている神学・教理体系と全く同じだからです。

「保守」を唱える日本人の人へ

日本国が愚かにもこんな判決を出したから、日本のキリスト教会が保守主義に対してアレルギー現象を起こしていることを、よく考えてください。自民党など保守政党の関係の方がこの記事をご覧になっていれば、(まだ少数派ですが)日本キリスト教会の人たちがなぜ拒否反応を示すかをご考慮ください。私は、他の争点においては保守政党のものと一致している「珍しいクリスチャン」ですが、神学においても保守主義を貫いている私としては、ここは絶対に譲れない「聖域」なのです!

靖国が日本人の「聖域」だと言うのであれば、私はキリスト者としての「聖域」を守ります。この国を愛し、この国のために殉ずる覚悟を日々の祈りでしていきたいと思います。それをキリスト者も追悼することのできる施設を造るのか、あるいは「迫害」という形で応答するかは、あなた(右派と称する人たち)のご決断です。

(「番外編 - キリスト者向け」はこちら

靖国神社参拝について その2

(「その1」からの続き)

日本人の「排他的多神教」宗教観

では、私は靖国に参拝するのか?絶対に「しません」。国とそのために殉じた人々を敬う気持ちがあるにも関わらず、創造主とそのキリストを信仰する者として、絶対に受け入れられないものであることを、特にこのブログを読まれている信者ではない方に知っていただきたいです。

韓国であっても、アメリカでもあっても、他宗教の人が訪問する時には、ある程度の尊重があります。しなくてもよいものをあえてやりなさい、という強要はありません。ところが靖国神社は列記とした「神社」です。それはキリスト者が、「唯一のまことの神のみをあがめる」という信仰として決して妥協できない一線であり、すべてを「神々」として「霊」として「祭る」ことに、聖書の教えの根幹に相反するのです。

日本人の宗教観では、死んだ人は「霊」となり「神」となり、それを「祭る」というのが全てだと思っています。けれども「日本の常識は世界の非常識」という言葉のように、それは日本にしか通用しない考えなのです。

アーリントン国立墓地の説明では、”Consoling of spirits”という単語は出てきませんが、日本語のウィキペディアでは「慰霊」と出てくるのです。そして「敬意を示す(honor)」という言葉は出てきますが、「参拝(going to worship)」という言葉は出てきません。「英雄(heros)」と言う言葉は出てきますが、「英霊(heroic spirits)」という言葉は出てきません。

日本語の死者を追悼し敬意を示すことは、日本ではすべて神道的宗教観から出てくる単語なのです。

聖書では、肉体は地に戻るが、霊は神のところに行くことが述べられています。霊がこの地にとどまっていることは決してないのです。そして神の手中に入った霊は、天に入るか、陰府(地の深い所)に下るかのどちらかしかないと教えています。そして肉体が復活すれば、義とされた者は永遠の至福の中に、そうではないものは永遠の忌みの中に入れられる、と教えています。

このように、あまりにもはっきりした死生観が、中心的教義としてキリスト教には存在します。

ここの部分について、靖国神社参拝を強烈に支持する人々の中に、何一つ考慮がなされていないのです。この無頓着は実は極端な排他主義につながっており、この国のために死んだ人々に敬意を表したいと願っている私みたいな人を、「非国民」と叫ぶのですから、愚の骨頂と言わざるを得ません。

真の右派(保守派)とは?

キリスト者の間で「天皇制」の是非についての討論会に参加したことがあります。キリスト教の伝播のためには天皇制を受容しなければいけないという論者が一方におり、反対している人がもう一方にいました。

反対している人は、参加者全員に尋ねました。「明治天皇の名前を知っている人はいますか?」挙手したのはごくわずかで、なんと賛成派論者本人が手を挙げられなかったのです。答えは「睦仁(むつひと)」です。

「天皇を敬まえ!」と声高々に言っている人が、同じように、天皇家について、また祭事、その意義など尋ねられたらどれだけ答えられるでしょうか?ちなみにこの反対派の牧師さんは、教会では文語訳の聖書を使い、確か俳句なども嗜めておられる方です。「私のほうがよっぽど右翼だ。」と冗談を仰っていました。

それで尋ねます。日本の文化、伝統についてどれだけ分かっていますか?そんなに大事にしなければいけない靖国の神道にある体系にについてどれだけ分かっていますか?そして、それをすることはできないと拒む人々(政治的理由ではなく、宗教的理由で)が、どうして参拝できないのかを、その信仰の理論体系まで考えたことがありますか?

自分の信仰と宗教について大事にする人は、その中身を勉強し、熟知し、それから相手の信仰や宗教も調べ、(同意はしなくても)尊重することを知っている人、これが真の右派です。

靖国神社サイトの英語版の説明にはこうあります。

Shinto Faith
Japan still maintains the culture and tradition of respecting and worshipping the deceased. The Japanese have long believed that spirits of the deceased remain eternally on earth and guard their descendants. Even in today’s Japan,people consider their ancestors as their “guardian deities,” and thus as an object of worshipping because such traditional way of thinking along with the belief of Shinto is still inherited.
http://www.yasukuni.or.jp/english/about/history.html

Worshipping
The difference between Yasukuni Shrine and other foreign memorial institutions for war dead is that the shrine enshrines the spirits of those who died on public duty of protecting their mother land.
http://www.yasukuni.or.jp/english/about/worshipping.html

これを読むまでもなく私の靖国神社理解と一致していました。理解した上で、「私にはここで手を叩くことはできない。」と決めているのです。あなたは、いかがでしょうか?

ある記事でアメリカのことを紹介するのに、デーブ・スペクターとある政治家M氏が説明していました。M氏はアメリカの保守の基盤であるキリスト教についてよく知っていました。キリスト教の背景があることを踏まえて、個々の質問に対して答えていました。デーブはかなりリベラルな人で、むしろM氏のほうがよくアメリカというものを知っているな、と感心したことがあります。私はその人の信仰やまたその生活についてはよく知りませんが、政治家としての見識・発言においては、「保守性」を見ました。

保守や右派の元々の定義は、人間に元々備わっている宗教的側面を大事にする人たち です。

(「その3」に続く)

靖国神社参拝について その1

続けて社会的・政治的なお話を致します。「靖国参拝」についてです。まずお断りしたいのは、具体的な政治的争点において、神はすべての啓示を与えられているわけではないことです。ですから個々のキリスト者によって意見が異なります。私がこれから述べる意見も、必ずしも受け入れなくて構いませんし、反対意見のお持ちの方は適当に流していただければと思います。

終戦記念日(8月15日)が近づいてきました。盆の時期でもあり、この時になると正月と同じく仏教・神道に関わる儀礼が多くなってきます。その中で靖国参拝は、避けて通ることのできない問題です。

私の靖国神社

私が初めてその敷地内に入ったのは、不思議なことに韓国からの兄弟たちの案内をする為でした。日本の人たちは驚くかもしれませんが、韓国人の日本観光名所の一つが靖国神社です。そして二回目には妻と一緒に「遊就館」も訪ねました。まるで戦時中に後戻りし、軍国少年になった気分になりました。

私は他の日本の人たちと同じように、元旦参りやお墓参りなど、神仏に囲まれて育った人間です。大学生の時にその参拝にどのような意味があるのか分からず悩み、そしてキリストの福音に触れて、そこに命に対する明確な解答を見出して信仰に入りました。自然そのものを崇拝する日本の習俗信仰とは違い、自然にある創造主の栄光の輝きを知ることができ、今は本当に幸せです。

けれども靖国神社は、幼い頃から原体験として残っている神社と大きく異なっていました。鳥居も何もかもが黒ずくめで、まるで焼け打ちにあったのではないかと感じてしまいました。

国の戦争に殉じて死んだ人々

けれども、これを「偶像崇拝」というだけで一蹴はできないという気持ちが今はあります。初めは考えたこともなかったことですが、「国のために死んだ人を敬う」というのは、一つの国に生きている人ならばごく自然に湧いてくる感情であることを気づきました。

過去に日本軍が行なったことのみに集中し、そしていわゆる「戦犯」も出した戦争ですから、なぜ敬うのか?と思われる人もいるかもしれません。けれども実戦で戦った個々人の死は、国が責任をもって追憶していくべきです。それがたとえ間違ったと言われる戦争であっても、「国の義務を果たす」ことを行なった人は「国」が敬う義務があります。

聖書の中にも、死者を葬ること、またその人が代々、記憶されていくことは、特に旧約時代において重視されています。むろん新約においては復活の希望が明確になりましたが、その人を追悼するのは「再会」の希望も含まれるようになりました。

靖国参拝に反対する韓国でも「顕忠院」と呼ばれる施設で戦争の殉死者は高く敬われています。キリスト者なら、そこで偶像礼拝に直結する儀礼には関わらないでしょうが、それでもその施設の是非は問題にさえならないはずです。政治的見解がたとえ異なっても、「国のために命を捧げた人」を敬うのは、人間であれば当たり前の感情だからです。

アメリカではもちろん「アーリントン国立墓地」があります。

果たしてこのごく自然な感情を抑えるところまで、神は御言葉の中で禁じておられるのでしょうか?人がどんな宗教を持っていたとしても、これは、人間であれば神が与えられた感情であると私は考えます。

ゆえに、日本のキリスト教会での「靖国参拝反対」の議論の中で、この部分が話題に上げていくべきではないかと感じます。

(「その2」に続く)

韓国・朝鮮関連の書籍 その4 呉善花氏の著書

「続・スカートの風」 呉 善花著

私が韓国の人々に触れ始めたのは米国でのこと、そして日本に帰ってからもたまたまそこが韓国の人たちがたくさん住んでいる地域とあって、聖書と英語を教えていた子供たちに韓国や在日の子息が多かったことがあります。それからは本格的に韓国との付き合いが始まりました。

もしこの直接的な触れ合いがなければ、呉善花さんの著作は「日本びいき、母国嫌い」という風に捉えたかもしれません。事実、今でもそこまで極端になることはないのではないか、という事例や文面はあります。(これもまた韓国の人の特徴で、極端から極端へぶれることが多いです。)

けれども言いたい要点は、他の著者には見つけることのできない本質的なものが多く、実に的を射ています。特に本書の「恨(ハン)を楽しむ人々」という副題は、今でも私の頭から離れません。

韓国のことを話している私と会った人は、私が感情的になっていくのを知っています。それを私自身も気づいています。今まで使ったことのない感情を使います。そこで自分自身が韓国に影響を受けていることを知ります。それは、他の民族には存在しない「恨(ハン)」という情念なのです。

「二度と付き合いたくない!」激しい嫌悪感から、「やっぱり韓国語を聞かないと落ち着かない。」という親近感に簡単にぶれる、いや共存していると言っても良いでしょう。

先ほどYoutubeで、彼女の外国人参政権に反対する演説の動画を見ました。先に私が書いた要点とほとんど同じことを仰っています。

http://www.youtube.com/watch?v=7uYlVheb76c

在日の人たちのありのままの姿と苦悩を説明しています。つまり、文化的、言語的、社会的にはほとんど日本人であること。けれども韓国人も日本人も、それぞれ単一民族国家意識が強いこと。それで韓国人は米国市民権取得を栄誉に思うが、日本国籍を取ろうと思えば母国を裏切るのではないかという気持ちになること、などです。

帰化手続きがとても簡単だという事情も言及しています。私も、ある韓国の知人が最近帰化したのですが、その事情を聞いて本当にびっくりしました。私が聞いてきた米国や他国における国籍取得手続きより、あまりにも簡易なのです。最近は「日本国民の人口減少対策」という背景もあるとか。

私も実は、反対に、韓国の人々に対する「恨(ハン)」を楽しんでいる日本人なのかもしれません。(笑)

ちなみに彼女の著作の書評を集めたサイトがあります。
http://o-sonfa.bk-1.com/

韓国・朝鮮関連の書籍 その3

「日韓誤解の深淵」西岡 力著

日韓関係の「もつれ」について取り扱っています。西岡力さんと言えば、救う会の会長として有名になっていますが、小泉首相が北朝鮮訪問をした10年以上前から拉致事件があったことを小論文の中で主張していた人で、本書にも掲載されています。

彼は日本の右派の人たちと協調している部分があるので、彼が福音派のクリスチャンだと言ったら驚く人もいるかもしれません。けれどもかつてリバイバル新聞で彼に対する取材記事が載りましたが、真実を限界がある中でも最大限追究するその姿勢は、黙示録20章にある「最後の審判」で自分が申し開きをしなければいけないという信仰が原動力になっているという記事を読みました。

彼のこの著作で感銘を受けたのは、「日本と韓国が経済的な協力と交流、協調をこれだけやってきたにも関わらず、なぜいろいろ関係がもつれることがあるのか?」という問いかけです。あまりにも身近になっているために、韓国の人も、日本の人も、既に持っている友好関係を見逃しているのではないか、ということに気づきました。

そしてこれは日本国内についても言えます。韓国にとっての日本への反発と、日本の中でのアメリカへの反発には似たものがあるからです。そして韓国がかつての独裁政権に批判的なのと、戦後日本の自民党政権に批判的なのがとても似ています。かつての韓国独裁制の中に大きな評価を見出すことのができるなら、今の日本も、かつての保守政治とその指導者に一定の評価を下さなければいけないのは?と思った次第です。

「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」横田 早紀江著

この本については、多くの人がご存知だと思います。拉致事件を知るためだけでなく、彼女の信仰の証しとして読むことができます。ヨブが通った苦しみを、自分が娘を失った苦しみと照らし合わせて、そしてそこにある神の深遠な御心を知り、信仰に至りました。だから彼女の信仰は深い神の主権に拠っています。周囲の人々がああだ、こうだ言っている中でも決してぶれない強さを持っています。

彼女が引用している御言葉で、西岡力さんも確か引用した聖句と同じものがありました。「主よ。私の心は高ぶらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(詩篇131:1)」

私たちの周りで起こっている事は、不思議なことが多いです。ぜんぜん理解できないと思って悩むことがあります。けれども、それは神の領域であり、「私はあなたの中にとどまっています」という決意が必要です。単純な信仰の中に生きることの必要性を学びました。

韓国・朝鮮関連の書籍 その2

「北朝鮮大脱出 地獄からの生還」宮崎 俊輔著

これはホーラー小説より、恐ろしいと感じました。全体主義の国家がどれだけ恐ろしいのか、私たちが得ている「自由」が空気の酸素のように、「当たり前にはなっているけれども、人間存在のためには絶対に守らなければいけない」尊い価値観であることを知りました。

これも、日本の過去の歴史の清算の過程で、それを利用して悪を行なう者たちに利用された空しい記録です。敗戦後、居残った在日朝鮮人またその家族を北朝鮮に帰還させる「帰国運動」がありました。これを日本政府もマスコミも後押ししましたが、「地上の楽園」と呼ばれていた当地の生活はまさに黙示録の地上の地獄絵の姿でした。

読んでいた時は、ブッシュ大統領が対テロ戦を行なっていました。そして調べていくうちに分かってきたのは、韓国内での対北強硬派、米国内の強硬派の急先鋒には、これらの亡命者らが数多くいるということでした。「自由」という酸素の重要性を一番知っている人々です。

「北朝鮮拉致工作員」安 明進著

同じく北朝鮮国内事情の話です。こちらは底辺で苦しんでいた人ではなく、エリート層で何が起こっていたかを知ることができます。けれども、こちらもあまりにもおぞましい姿を見てしまいました。究極の物質主義、唯物論の中で、人間そのものも武器の一つとして非人格化されていく過程を読みました。

ちなみに彼は、金賢姫と並んで日本人拉致事件の解明に向けての道を切り開いた人です。そして卒業した工作員養成大学では彼女の後輩に当たる人です。ですから、金賢姫の「いま、女として」をまず読まれると、時間的な流れを追っていくことができると思います。

そして彼は、麻薬所持と密売でいつしか逮捕され、日本国内では彼の証言そものに対する疑問が出てきました。けれども政治的謀略の中で起こった逮捕であることを、拉致事件に取り組んでいるジャーナリストが明かしています

「収容所に生まれた僕は愛を知らない」申 東赫著

北朝鮮内にある強制収容所の実態の記録です。以前「強制収容所」の看守であった安明哲の本を立ち読みして、あまりにもおぞましくて読むのをやめた覚えがありますが、この本は強制収容所で生まれて囚人として育った本人の証言です。安明哲氏の話は創作であってほしいという思いがありましたが、やはり事実であると確認しました。

ナチスによる強制収容所の話はその残虐性は世界に知れ渡っています。けれども現在進行形でそれと類似することが、まさに東京から飛行機で2時間程度しか離れていないところで起こっているのです。そして共産圏で起こっている犠牲者数のほうが、ナチスのよりもはるかに上回っているという統計もあります

ここから私は、「国際世論」というもの、マスコミの一般情報に対する公正さを疑い始めました。イスラエルを取り巻く情報は前から歪んでいることは知っていましたが、この世全体が歪んでいるのだと分かりました。「善」を主張している人々があえて取り上げない「悪」があるのだと、そしてその悪と戦っている人たちを悪人よばわりする事実です。イザヤ書の「悪を善、善を悪と言っている者たち(5:20)」の世界です。

ところでブッシュ米大統領が、なぜ北朝鮮を悪の枢軸国に入れたのか、その原動力になった本が「平壌の水槽―北朝鮮地獄の強制収容所」(姜 哲煥著)と言われています。彼は最も人気のない米大統領にされたみたいですが、彼についての再評価が必要でしょう。