水谷潔さんが、ブログで一連のシリーズを書かれました。
大変貴重な記事だと思いました。特に(5)の「自尊心に仕える教会生活」と、(6)の「傷つきやすさに現われる潜在的自己愛」が良いでしょう。今日の社会の病巣をよく示しており、これが霊的な装いをもって心の中に、そして教会の中にまで浸透します。
実は私自身が、以前、「エッセイ「神の戒めと愛」 」という記事を書いています。こちらもぜひご一読ください。キリストが私たちに仕え、ご自身の命を贖い金とするまで愛してくださったのですから、その愛に感動し、今度は自分がこの方にすべてを捧げ、愛をもって神、そして人に仕えていきたいと願います。愛への応答があるのです。それで、イエス様は「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。 (ヨハネ15:10)」と言われました。「そんなの、できないよ」という人は、できないのが問題ではなく、キリストの愛に留まっていない、というのがイエス様が言われていることです。
もしこの御言葉に激しい抵抗を覚え、心や思いの中で捨ててしまうのであれば、その人は自己愛者です。けれども水谷さんが、健全な自己愛者と不健全な自己愛者と区分けされています。健全なのは「痛い、私は自己愛になっている」と、聖霊から来る痛みを感じる人で、不健全なのはまるで無視する人です。
教会というのは、徹底的に自分を捨てるところです。自分ではなく、神の愛に満たされるところ。そして自分ではなく、他者に神の愛を分かち合うところです。喜びをもって主に仕える霊に支えられ、そして他者に対して愛をもって仕えるところです。自分を愛すると、教会は痛み、傷つき、不一致をもたらします。その原因となっているものを、列挙してみましょう。
他者の見下し、批判:「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(ピリピ2:2-4)」
自分の事情だけを主張・貫徹する:「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めているのではありません。(ピリピ2:21)」
自分と考えややり方の違う人を裁く:「たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 (1コリント12:15)」「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(ローマ14:1)」
他の人、また教会と比較して論じる:「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことです。(2コリント10:12)」
自分のやりたいことを自由にできるのがキリスト者らしいと思う:「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。(ローマ14:15)」
御霊によって、そしてキリストの十字架によって、「自分」という自分を縛る者から解放された喜びに満たされることができますように。
【補足】自己愛の反対語は「自己無関心」