霊的復興とは?

(前記事「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の続き)

そこで紹介したい記事があります。カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師ブライアン・ブローダソンのブログ記事です。リバイバル(霊的復興)の定義と意義について書いています。日本にも必要な御霊の動きです。

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Revival Part2

(意訳)
リバイバル(霊的復興)の主題に入ります。初めに、霊的復興が何ではないかについて提起しましょう。霊的復興は、私たちが呼び起こすことのできるものではない、ということです。「今週のリバイバル集会 午後7時半より」という看板を掲げた教会を通り過ぎたことが、おそらくおありでしょう。リバイバルは確かに教会に関わるものですが、教会によって計画できるものではありません。神が霊的復興をいつ、どこで起こされか、私たち指図することはできないのです。私たちが自分を霊的復興に導かせるためにできる事はありますが、究極的には主権的な神の御業なのです。

霊的復興は、このように定義されてきました。「多くの信者が、聖霊による深い罪の自覚を同時に経験する時の、特別な回復の時であり、罪の告白と遺棄(時には公に捨て去る)をもたらす。最後には、主への献身を更新することになる。」リバイバルは、聖潔への新たな決意、新鮮な伝道の情熱、宣教の幻に導きます。

分かりますか、霊的復興は、私たちが信仰的に後退し、御霊に属する事柄について冷えてしまっているとき、神がご自分の民のためにしてくださる何かです。教会にはまだ通っているかもしれません、聖書を持って歩いているかもしれません、そうした決まった活動はしているかもしれませんが、心の中では、主イエス・キリストに対する親密さや全き献身から離れ去っているのです。

The Spiritual Awakeners(「霊的覚醒を与えるもの」)の中で、著者Keith Hardmanは、霊的復興に至らせる条件について、こう話しました。「霊的復興は、霊的沈滞、無気力、著しい罪の時期、名目上のキリスト者の大多数が、世俗社会の構成員と実質的にほとんど違わない時を経て、その後に普通続くものである。」

今日の私たち自身が、この状況なのではないでしょうか?多くの回心が起こっているように見え、新しい教会が始められており、ある時は、人々がぞろぞろとやってきます。けれども、実際の起こっていることを近くで眺めてみると、多くの教会が人々が来ていっぱいになっていても、その教会の中にいる人々の生活と、教会の外にいる人の生活が大きく違う、というわけではないことがはっきりしてきます。ですから、霊的復興が必要なのです!

さらなる霊的覚醒の必要

覚醒は、復興と並んでくるものであり、教会の外にいる人々に影響を与え、キリストへの救いの信仰に至らせます。一般的には、復興と覚醒は同時に起こります。神が御霊によってご自分の教会を動かし始め、新たな罪の自覚をもたらし、新たな決意を呼びかけられると、外の社会に対しても働き始め、人々に罪の自覚を与えられるのです。

これが私たちの世界で、大きな必要となっているのでないでしょうか?つまり、人々が罪の自覚の下に来ることです。人々に罪について話すとき、その考えを全て退けて、「そんなものはない」と言います。絶対真理を信じないで、真理は存在しないと思っている人に、すべての人が実は罪人であることをどのように説得できるのでしょうか?私たちは、論じる能力以上の何かが必要です。神の御霊の力が必要なのです!

Hardmanは、結論をこう述べています。「覚醒は、文化の歪み、個々人の深刻なストレスの時期に起こり始める。私たちが規範としているもの、制度の実存性、教会と国家にいる権威の正当性に信頼が失われるとき、起こり始める。」これは今日の私たちを描写していませんか?私たちは確かに、裁きを受けるに熟していますが、復興することにおいても熟しています。覚醒することにも熟しています。神の民として、このことを期待し、神がそれをもたらしてくだることを叫ばないといけません。
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参考文献:「第二次大覚醒」(ウィキペディア)

もはや保守派でも、リベラル派でもない

共和党候補がロムニー氏に決まり、その応援演説にライス前米国国務長官が駆けつけたとのことで、早速ユーチューブで探して閲覧しました。

とても分かりやすい英語で、共和党の基盤となる見方を、いや、アメリカがアメリカとして成り立っている存在意義、あるいはイデオロギーをきちんと述べているところに好感が持てました。そして私が好きなのは、彼女が黒人であるのにその思想が保守主義に基づいていること。「保守派は白人である」という日本でありがちな極めて陳腐な議論を、彼女の演説は粉砕しています。

彼女は黒人差別をまともに経験した人です。8歳の時に友人を、白人優位主義者の爆弾テロで失っていることが強烈な体験になっています。両親(父は牧師)が持っていた「教育こそが差別に打ち勝つ武器」という強固な信念を娘は具現化しました。今回の演説でも言っていましたが、次の言葉は感動的です。「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)ウールワースでハンバーガーを食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」(ウィキペディア参照)。ホワイトハウスに親が連れて行った時は、少女の彼女は「いつかここで働く」と言ったそうですが、事実、米国で副大統領の次に第三の権限を持つ国務長官になりました。(こちらに自叙伝のまとめ記事があります。)

(関連記事:「「感謝」の力 - ②私が保守的な訳」「 「感謝」の力 - ③アメリカに感謝している訳」

ここまで言いましたが、実は、私は演説に強い力を感じることができませんでした。共和党というか、米国の保守主義全体はもう色あせており、米国全体がタイタニックのように沈んでいく、いやまだ沈んでいませんが、どこか船底に穴が空いているけれども埋められていない、という感触を持っています。

それは何かと言いますと、ひとえに「霊的底力がなくなっていること」であります。リベラル派であるオバマ大統領が出る前、米国の福音派教会が強烈にブッシュ大統領を支持した時から、その流れを見てきました。私がショックを受けたのは、ブッシュ大統領自身は信仰的に成熟しているとはとても思えないのに、教会がまるでユダ国で霊的復興に用いられたヨシヤのように担ぎ上げられていたことです。

ブッシュ氏は、米国同時多発テロという建国以来最大の危機と言ってもよい国難であった時の最高責任者として、同情もし、よく頑張ったと思っています。しかし、福音派教会が持ち上げていた割には、対テロ戦の初期段階から宗教的に世界を一つにしようとする動きに積極的に付いていっていました。日本を訪問したときは明治神宮で参拝をし、イスラム世界においては、「私たちとムスリムは同じ神をあがめている。」と発言し、政権末期の時は「私は聖書をそのまま信じていない。」と進化論に関して答えるときに話していました。確かに政治的には保守主義と取っていますが、信仰的にはとても幼い人だという印象を受けました。

それでオバマ氏が大統領に選ばれたときには、「オバマが優れているからではなく、共和党が自らの基盤を捨てて、妥協したからに他ならない。」と思いました。そしてオバマに熱狂したアメリカ人も落胆しましたが、これまでの民主党政権にもない大政府的な政策、そして民主党を支持していたユダヤ票を無視するかのようなイスラエルの軽視など、アメリカをアメリカらしくしていたものを捨てていく政策を取ってきました。そして中絶を奨励、いや要求するような法制化、同性婚の支持など、ますますキリスト教価値観から離れています。

そして共和党が巻き返すのか、と思っていたところ、なんと出てきたのはモルモン教とのロムニー氏です。ある牧師が、こう書き記しています。「モルモン教徒であるロムニー氏はイエス・キリストは堕落した天使長ルシファー(サタン)の霊的兄だと信じている。天使のキリストが受肉してイエスになったと考える点はエホバの証人と同じである。ちなみにエホバの証人では天使のかしらのミカエルが受肉したのがイエスだと考える。モルモンは、イエスはマルタやマリヤなど複数の妻を持った一夫多妻者であったと教える(ヨハネ2章のカナの婚礼もイエス自身の結婚式であったと教える)。彼らは明らかに「別のイエス」(2コリント11:4)を宣べ伝えており、聖書はこのような「別の福音」を宣べ伝える者はのろわれるべきだと断罪している(ガラテヤ1:8−9)。」

同じ「イエス」を唱えているけれども、聖書の語るイエスは、全知全能の神の御子であり、神ご自身である方と、ルシファーの霊的兄弟という、比較できぬ雲泥の差があるのです。つまり、今回の大統領選挙は、ちょうど南北に分裂した時のイスラエル、北イスラエルのヤロブアムを選ぶか、南ユダのレハブアムを選ぶか、その二者択一に成り下がっているということです。

これは何を意味しているのか?神の裁きはこれから米国に下るのではなく、既に下っていることを表しています。国の指導者は、その民の霊的状態を映し出す鏡なのです。

米国に限らず、日本でもそうですが、私が政治論議を倦厭してしまう瞬間は、「神とキリストのみによって与えられる救済を、政治家に求めてはいないか?」という疑問が出てくる時です。実はこのことについて、米国キリスト教会の中からも声が大きくなってきました。今、アメリカに必要なのは優れた政治家ではなく、神ご自身であり、教会の霊的復興、国土の霊的覚醒であるという訴えです。次の投稿に、このことについて話したいと思います。

(次記事「霊的復興」に続く)

シリアはどんな国?

中東諸国について、私たちはどうしても分からない、もやもやした部分があると思います。けれども同時に、聖書の舞台になっている地域であり、かつ聖書預言の中心であります。このジレンマをどう克服するか、私も大きな課題として個人的に本を読んだり、勉強してきました。

以前、「イスラエル人の本音を日本人が話す」の記事で紹介させていただいた、在イスラエルの日本人のブログに、シリアについての説明が書かれていました。中東の各諸国の短い説明の中でシリアの位置を確かめているところが、とても分かりやすいです。彼女はゴラン高原に住んでいる人なので、シリアは目と鼻の先にあります。ぜひ下のリンクをクリックして読んでみてください。

「砂上の楼閣」

今のシリア情勢を神の目で見るには、つねに下のイザヤの預言を心に留めていてください。歴史上、未だシリアの首都ダマスカスが廃墟となったことはありません。ですから未来預言です。

ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。(イザヤ17:1)

そしてもちろん、シリアは聖書時代には沢山出てくる国です。古代名「アラム」として登場し、ダマスコは、アブラハムがロト救出のために敵を追跡したところであり、またパウロがダマスコに行く途上で復活のイエスに出会い、回心したという大きな出来事も起こっています。アブラハムに約束された「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。(創世記15:18)」というのは、シリアの北部にある上流地域のことであります。

そして激戦地になったアレッポは、旧約聖書の最古の写本「アレッポ写本」があった場所であり、聖書的にも、遺跡の上でもとても魅力のある国です。

さらに、先日、日本の女性ジャーナリストが銃撃戦で死亡したニュースが流れたこともあり、イスラエルの安全は大丈夫かと懸念する人もいるかもしれませんが、そのことについても現場からの報告を書いておられます。

「山奥は今日も静か」

イスラエルに限らず、マスコミから流れる映像と現場とはこれだけかけ離れているものです。(例えば、最近、中東旅行から帰ってこられたご夫婦がうちの教会にいらしていますが、テロ活動が展開されているシナイ半島でも、何の問題もなくシナイ山に登ることができたのこと。こんなものです。)ロゴス・ミニストリーは2013年にイスラエル旅行を企画していますが(今でも参加者募集中!)、そういう理由で現地旅行社からの情報と状況判断に依拠していきたいと思っています。

「愛-さらにまさる道」がCalvary翻訳サイトに掲載!

先日お知らせしていた、チャック・スミス著「愛 - さらにまさる道」の日本語訳が、カルバリーチャペルのホームページに掲載されました!お祈りありがとうございます。

Calvary Chapel | Japanese  (“Love”のDownloadをクリック)

ロゴス・ミニストリーの「翻訳メッセージ」にも紹介を追加しました。ぜひ、じっくり時間を作って熟読してください!

「イスラエル人/ユダヤ人」「パレスチナ」の定義

先週金曜日に、無事にイスラエル旅行準備会第二回を終えることができました。第一回目は「イスラエルの地形と地域区分」をお話しましたが、今回は「イスラエル全史」をアブラハムの族長時代から現代に至るまで鳥瞰しました。これは偶然の歴史でもなく、マルクスの唱えた唯物史観でもなく、まぎれもなく前もって神がモーセを通して予め伝えられた神の預言の歴史であることを確かめることができました。

旅行に興味のある方は、info @logos-ministries.orgまでご連絡ください。映像、音声、パワーポイント、資料などのリンク先をお送りいたします。

そこで、いくつかの質問を受けましたので、それを分かち合いたいと思います。

1.「ヘブル人」「イスラエル人」「ユダヤ人」は何が違うのか?

聖書の中ではこの三つはすべて同じ人々を指します。どの側面からその人たちを話しているかで、異なっています。

ヘブル人は「エブル」という名から来ており、「越える」という意味を持ちます。アブラハムが偶像の町からユーフラテス川を越えて、カナンの地に入りました。ですから、呼称としては一番古いものです。族長時代から使われていた名です。

イスラエル人は、ヤコブに対して神の御使いが付けた名から来ています。「神の勝利」であるとか「神に支配されている」という意味合いがあります。ヤコブの十二人の息子から部族が出てきて民族となっていった人々を「イスラエル人」と言います。

ユダヤ人は、最も新しい呼称です。ユダ族が割り当て地が与えられ、後にソロモンの死後、南北に王国が分かれました。ユダ族は最も大きく強い国だったので、「ユダの人々」と言われ始めます。そして北イスラエルがアッシリヤに捕え移された後に、少数の十部族の人々もユダのほうに移り住みました。それでバビロンに捕え移され帰還しましたら、多数がユダ族出身の人々であることから「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。

現在は、若干使い方が異なります。なぜなら、イスラエルという国際的に認知された国家が設立したからです。「ユダヤ人」と言えば世界中に離散している人々も含みますが、「イスラエル人」と言えば、イスラエル国籍を持っている人々のことです。英語ではその違いがあり、聖書のイスラエル人はIsraeliteであり、現代のイスラエル人はIsraeliです。(厳密に言えば、アラブ人でもイスラエル国籍を持っている人がいるので、「イスラエル人」=「ユダヤ人」ではないですが、アラブ人は自分と現代イスラエル国を結び付けたくない人が結構おり、「イスラエル系アラブ人」であるとか、もっと嫌な人は「国籍はイスラエルだがパレスチナ人」と言ったりします。どこに帰属しているか、その意識の差であります。)

2.「パレスチナ」「パレスチナ人」「パレスチナ自治区」の定義は?

「パレスチナ」は、古来は「カナンの地」そして神がアブラハムに約束された地、そして「イスラエルの地」と呼ばれたところであります。ローマがユダヤ人をイスラエルの地から追放した後に、その地を「シリア・パレスチナ」と変更したのがその始まりです。ちなみにパレスチナは「ペリシテ人」から来ていますが、当時のペリシテとパレスチナは関係はありません。

そして「パレスチナ人」でありますが、時代によってその使われ方が変わっていきました。ローマが付けた「パレスチナ」が、イスラエル国が1948年に建てられるまで一般に使われていました。したがって帰還したユダヤ人も「パレスチナ系ユダヤ人」と呼ばれ、「パレスチナ人」の中に入っていました。アラブ人も同じように他の地域のアラブ人と区別するために「パレスチナ系アラブ人」と呼ばれていました。

けれどもイスラエルが建国しました。イスラエルに帰還したユダヤ人たちは、自分の民族に神が約束の地としてそこを「イスラエル」と名づけました。その時から、その地域に住むアラブ人がそれを受け入れる事はできず、自分たちの土地であることを主張するために、「ここはパレスチナだ」といい始めました。したがって今は「パレスチナ人」というと、そこに住むアラブ人を指すようになりました。

国際政治の中では、イスラエルとパレスチナの二国家構想が語られていますが、それは確かにイスラエル人の多くも認識していて独立するならしてほしいと思っていますが、そこに住むアラブ人の中にはそうではありません。私も東エルサレムで通りにいる若者から、「ここはイスラエルではなくパレスチナだ!」と叫ばれたことがあります。ナブルスからエルサレムへのバスの中でも、「パレスチナに来たのは何回目ですか?」と尋ねられたことがありますが、そのときもその若者は、今のイスラエルを含めてパレスチナと呼んでいました。かつては単純にローマによるその地の改称だったのですが、今はアラブ人がその地が我々のものであるという政治的主張を多分に含んでいます。

これはちょうど、お隣の国と似ています。韓国に行けば、地図の中では中国との国境の豆満江まで「大韓民国」になっています。また「北朝鮮」と呼ばず「北韓」と呼びます。そして言葉は同じなのに「朝鮮語」と「韓国語」を分けています。そして在日の人々も、故郷は地理的に韓国にあっても、北朝鮮政権に属しているならば「在日朝鮮人」となるのであり、必ずしも地理的なことを意味していません。イデオロギー的、政治的な呼称であります。

そしてパレスチナ自治区について説明しますと、1948年の独立戦争後の休戦ラインを基にして、ヨルダン川西岸地区とガザ地区において自治政府を置くことが、オスロ合意によって定められました。検問所等でイスラエル軍が駐屯していますが、基本的に警察も含め、行政機関はパレスナ自治政府に移譲しています。私たちが旅行に行くときに訪問するであろう、エリコとベツレヘムはどちらもパレスチナ自治区内にあります。

3.入植地の人々は誰ですか?

もともと、わずかにいたユダヤ人を除きほとんどが帰還した民でイスラエル全体が入植地なのですが、今使われている「入植地」という言葉は、1967年の六日戦争以降に、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に入植のことを指しています。(ガザ地区は、シャロン政権時に完全撤退)

そこは、独立戦争の後はガザはエジプト領、西岸はヨルダン領だったのですが、六日戦争によってイスラエル管理下に置かれました。(ただ東エルサレムとゴラン高原は、少し後で併合しています。)その地は、特に西岸は、聖書の「ユダヤ・サマリヤ」地方であります。ヘブロン、ベツレヘムなどがあるユダの山地、またシェケムなどがあるサマリヤ山地であります。六日戦争によって、神が確かに約束の地をユダヤ人の中に入れてくださったという宗教的覚醒が、ユダヤ人の中、特に宗教的な人々の中に芽生えて、それでそこに住み始めたのが入植地です。

4.ゴラン高原における自衛隊は今、どうなっているの?

今の様子を伝えるよい記事を見つけました。

イスラエルで自衛隊員を元気づける日本の民間人
ゴラン高原派遣部隊にとって欠かせない存在に

この中で、今のイスラエルの安全保障の成り立ちを、旅行者の観点から具体的に説明している部分があります。私たちが訪ねるベツレヘムやまたエリコのことも出て来ます。とても参考になる内容です。

日本人クリスチャン・ヒップホップ (Mamiya / Shin)

皆さんも、ご自分の好きなゴスペル・ミュージック、ワーシップ、プレイズがあると思いますが、私はこの頃、何度も聞いていて、ちょっと応援したいなと思っているアーティストがいます。

Mamiya(松浦真実也 オフィシャルサイト)

Bioによると「平成生まれのアーバン、R&B、ヒップホップアーティスト。圧倒的な個性で人々を魅了する。幼少期より7年間アメリカ西海岸で育ち、ネイティブ英語、日本語、タガログ語を操るマルチリンガル。

10歳でドラムとエレキギターを始め、抜群なリズム感を持つ。この頃、図書館貯蔵音楽CDを棚から棚へとオールジャンル聴きあさり、自身の音楽センスを磨く。中学校・高校時代はオリジナル曲をMDレコーダーを2つ用いて多重録音する。青山学院大学中退後、本格的にDAWソフトをもちいて作詞作曲を始める。個人でアルバムを3枚製作する(2009年、2010年、2011年)ほか、作詞作曲などのプロデュースも手がける。」とのことです。

最近知ったアーティストなので、どのような方が分からなかったのですが、いろいろな歌の歌詞に証しが盛り込まれているのですが、そこから分かってきたのは一度信仰から離れたけれども主に立ち返り、今はフィリピンを拠点に、音楽活動を通して熱心に主に仕える兄弟です。

技術的にはプロです、生半可ではありません。最近、福音に日本人の人をつなげたいとのことで、以下のビデオを作ったそうです。

Discographyは”Kari-Tai”(2009) → JESUS(2010) → Revelation (2011)となります。(この題名からして「(主のもとに)帰りたい」→「イエス様!」→「黙示録」という暗示があるのは明らかです。)

Youtubeチャンネル “MamiyaMusic’s channel

Facebookページ “Mamiya

Twitter “MamiyaMatsuura

そして同じMamiyaさんですが、自身をクリスチャン・アーティストとしてShinという新しい名で活動を始めました!

Youtube “TheShinTV

Facebookページ “Shin

新しく出した”Jesus Beat Vol.1″が・・これが、凄い!!!!

これは無料でダウンロードできます。→ ここからダウンロード
(.rarという拡張子の圧縮ファイルですが、解凍ソフトを使えばよいです。)

全部気に入ったのですが、特に良かったのは”The Salvation Story”(救いの物語)です。下がその歌の一部ですが、Youtube(右下のボタン)を開けば下に歌詞も出て来ます。実際は、今の世界の問題から人の罪を語り、そして創世記の話に入っていき、そして下のビデオにあるイエス様の話になっていきます。


(私個人はただ歌詞だけ聞いて、思いを巡らしたほうが良かったですが、初心者の人には映像があったほうが助かるでしょう。)

次は「復活、昇天、聖霊降臨、それから再臨」までの壮大な神の救いの完成を歌ってほしいなと思いました。

私の家の近所に公園がありますが、若者たちがいつも、ラジカセを使いながらヒップホップ・ダンスの練習をしています。ぜひMamiya / Shinの音楽を若者に紹介してみてください!

恵比寿バイブル・スタディのお知らせ(8月29日)

ご無沙汰しております。みなさんお元気でしたか?恵比寿BSも長い夏休みを終え、学びを再会したいと思います。

日時:8月29日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第二7章以降
(その後の予定は9月5日で来週水曜日になります。お間違えのないよう、よろしくお願いします。)

話はダビデがエルサレムに自分の町を作り、神の箱を動かしたところから始まります。礼拝を第一にする彼の姿には多くを学びます。そして次回は、神ご自身が彼のために家、いや家系を立ててくださることを学びます。これが、まさにキリストによる神の国の約束であり、これゆえに新約聖書の言葉が、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」で始まっている所以です。

イスラエル人も罪人

今朝の妻とのデボーションは黙示録11章でしたが、そこにこう書いてあります。「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。(黙示11:8)」この「ソドムやエジプト」と呼ばれているのは、もちろんエルサレムのことです。イザヤ書から引用した言葉であり、イスラエルが贖われたはずのソドムやエジプトと霊的には同じぐらいになっている、堕落している状態になることを、聖書は終わりの日に起こることとして預言しています。

次のニュースが興味深いことに、日本語のニュースサイトには一切報道されていませんでした。以下はイスラエル・ニュース翻訳サイトからの引用です。

8月20日(月)
*先週の木曜の夜にエルサレムで、ユダヤ人少年らが集団でアラブ人を暴行する事件が発生。今日までに5人の容疑者が逮捕されているが、警察は現在も捜査を続けており、逮捕者は増える見込み

8月21日(火)
*エルサレムで発生したアラブ人に対する暴行容疑で逮捕されたユダヤ人少年が「もう一度、あいつをつかまえたら、殴り殺す」と発言。他にも7人の未成年の男女が逮捕され取り調べを受けている。(P,Y,H)
http://www.zion-jpn.or.jp/news/jd0821.htm

いつもは、イスラエル国防軍がハマスのロケットによる攻撃への報復として、ガザにいるテロリストを標的に攻撃したりすると、日本語では、どんどんニュース記事がその出来事で埋まるのですが、あまりにも不公平な報道であると思って読み流していることが多いですが、これは絶対に見逃せない記事です。

私は「三つのPro」というエッセイ記事の中で、イスラエル・パレスチナ紛争の本質は「領土」ではなく、「在留異国人へのいたわり」へと焦点を当てるべきであると述べました。ジョエル・ローゼンバーグ氏もその律法の言葉を引用して、今回の犯罪を強く非難しています。ネタニヤフ首相も、このリンチになりかねなかった恐ろしい暴行を強い言葉で非難し、容疑者を厳罰に処することを発表しています

ここでやはり、私たちが神の愛で人を愛するということは、どういうことかを考えなければいけません。イスラエルは神に選ばれた民です。(その選びを基盤として、異邦人信者をも選びの器としてくださったことをローマ9章は教えています。)それはイスラエル人が正しいことを行なっているからでしょうか?いいえ、彼らはたくさんの不正と悪を行なってきました。私たちの教会の学びは士師記を終わりましたが、ベニヤミン人はソドム人と変わりない集団同性愛レイプを行なおうとしたのです(結局、一人の婦人を集団レイプ、死に至らせる)。

それらの悪にふさわしい裁きを神はイスラエルに下されます。流血や暴力について、忌まわしい行ないや汚れについて、神は預言者によって何度も警告されましたが、言うことを聞きませんでした。それでバビロンによって捕え移されます。それでも、神はイスラエルをあきらめませんでした。ここに愛があります。愛は真実に基づくものであり、人間的には絶対に好きになれない相手を、それでも愛していくのです。そしてそれは悪を容認する愛ではなく、その悪を裁き、懲らしめ、その悪から離れることを願うところにある愛です。

私はこの事件を見て、イスラエル人も終わり日に起こる困難な時代の例外を免れないと思いました。米国における当り構わずの乱射。日本における、あまりにも陳腐な動機による通り魔。そして諸外国における“愛国心”“公平な社会”等、もっともらしい名を使っての暴徒。「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、・・・」(2テモテ3:2‐4)

「怒り」「憎しみ」「非寛容」という空気がこの世を立ち込めています。また、「恐れ」「不安」という敵にも目を向けるべきです。私たちは恐れると、自己防衛反応から、本当は愛するべき人から離れたり、避けたり、時には被害意識によって攻撃的にさえなります。

イスラエルが清められますように。そして私たちキリスト者も世の汚れから守られますように。

【追記】
私がこのニュースで衝撃を受けたのは、私も旅行中は必ず通ったエルサレムの繁華街「シオン広場(Zion Square)」で起こったことです。パレスチナ人による自爆テロが・・・というのが第二次インティファーダの時にはありましたが、まさかその反対のことが少しでも起ころうとするなんて・・・という衝撃です。

ある記事では被害者は「アラブ人」と書かれており、また「パレスチナ人」と書かれているのもあります。1967年にイスラエルがヨルダンから東エルサレムを奪取しました。イスラエルはそこを併合したのですが、そこのアラブ人住民には無条件でイスラエル国籍を提供する準備をしました。けれども拒むこともでき、ほとんどが拒んでいます。

彼らはエルサレム在住ビザが与えられており、エルサレムを自由に行き来できます。旅行に行けば、西エルサレムがとてもユダヤ的で東は昔からの町、アラブ人の多い地区であることをすぐに感じ取ることができるでしょう。けれども、西エルサレムではユダヤ人もアラブ人も互いに通りかかることはあっても、職場以外は共に何かすることは希薄になっている、という現状です。(参照:New York Times

2010年の聖地旅行では、そのシオン広場の近くにある教会の礼拝に参加しましたが、東エルサレムからのアラブ人兄弟が奉仕していて、ユダヤ人兄弟と肩を組んで代表の祈りを捧げていました。

「イスラエル旅行準備会第二回」のお知らせ

こんにちは、お元気にしておられますか?
聖地旅行準備会、第二回目のご案内をしたいと思います。

8月24日(金)午後7時から9時頃まで
場所:東京日暮里国際教会 内
東京都荒川区西日暮里2丁目29-6 秋山ビル4階
(一階にファミリーマート(西日暮里二丁目店)があります。)

地図と行き方:LCFの教会案内のページをご参照ください。
(LCFの午前礼拝の場所になります)

今回の学びは、「イスラエルの時代史の概観」になります。聖書時代にある歴史は、聖書通読をされている方は理解しておられると思います。

1)アブラハム等の族長時代
 (注:出エジプト時代はイスラエルはカナンの地にいなかった)
2)ヨシュアから士師記まで
3)ダビデによる王国イスラエルの始まり
4)バビロン捕囚による離散とその後の帰還
5)中間期(ハスモン朝)
6)ローマ支配下のイスラエル(新約時代)
 (唯一、5)はダニエル書などの預言にしかありません。)

そして紀元70年にローマがエルサレムの神殿を破壊して、世界に離散してからの歴史は、信仰者は教会でほとんど学ぶ機会がありません。けれども、聖地旅行をする時には必ず出てくる時代区分なので、ぜひ覚えておく必要があります。そして近代における帰還運動、現代のイスラエル建国へと続きます。

以上、「シオンの架け橋」にあるイスラエル史をご一読ください。

お話しする内容としては、すでに当ブログに連載して一部を書き記していました。こちらも時間があればご一読ください。

初めから物語る歴史 - イスラエル その1

【旅行参加を随時募集中】
旅行参加は、今も募集しております。ぜひご参加ください!まだ申し込まれていない方も、興味があればこの準備会への参加可能です。詳しくは案内ページを見てください。

イスラエル旅行2013年2月

「愛 - さらにまさる道」チャック・スミス著

以前、「チャック・スミスの日本語訳サイト」を本ブログ紹介させていただきました。実は、私の妻と教会の何人かで、次の本を翻訳・校正してきていました。

Love: The More Excellent Way

私たち夫婦が、アメリカにいたときから、「Pastor Chuckから何を教わっているのか?」ということを考えるときに、これぞと思われる本がいくつかあるのですが、一番大きいものの一つは「恵み」です。「恵みはなぜすべてを変えるのか」という本がサイトに出ています。

そしてもう一つは「愛」です。当時の若いヒッピーの世代に、どうして保守伝統を重んじるクリスチャン家庭で育った彼が、福音をもって彼らに届くことができたのか?現代の流行っている考えであれば、「今の時代に合わせていかなければいけない」という答えでしょうが、彼は云わば「ふり」をしませんでした。けれども、愛を持っていました。これは元ヒッピーのクリスチャンが口を揃えて証言することです。ヒッピーは反権力的で、年上の権威的存在に反発心を抱いていましたが、その壁を通り抜けることができたのは、他でもない、彼から流れる神の愛でした。

今、アメリカの若い世代のクリスチャンに広まっているのが、「人々を愛していこう」という動きです。その急先鋒に立つ本が、物義を醸した”Love Wins”という本だそうです。福音を受け入れなければ地獄に行く、という教えに対する反発が色濃い本になっており、そこで「正義」なのか「愛」なのか、という問いかけを、多かれ少なかれ、アメリカにいるクリスチャンはしているのだと思います。(参照サイト:ブライアン・ブローダソン(Brian Brodersen)牧師による”Love Wins”の検証

そして、私が日本で奉仕の働きをしていて、「人」に触れるということは、「愛する」っていうことを絶えず自問自答していくことなのだ、ということに気づきました。Loveの紹介サイトの副題にも、こういう言葉があります。

every person craves it, only God can supply it.
(誰もがこれに飢えている。神のみが満たすことができる。)

そこで、calvarychapel.comで紹介されていた本書の一部抜粋の記事を、そこだけすでに翻訳した部分を紹介します。一見矛盾する「正義」と「愛」が、実はその正義の中に愛があることを上手に説明しています。

これから、そのサイトの日本語訳のところに翻訳を掲載してもらうようお願いをしていきますので、どうか無事に掲載できるようお祈りください。よろしくお願いします。

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神の正義の中の愛(原題:Love in Justice)

正義においてでさえ、神は愛を示してくださることを言わずにはおかれません。愛をもって、危害が及ぶような決定や行動に対し、神は警告をお与えになります。自分を破滅させる方向へと導く私たちの堕落した性質から、私たちを守ろうとされます。

行動の中には、それに伴う裁きをもたらすものがあります。もし何か邪悪なことをするなら、当然の帰結として、それがもたらすひどい影響に苦しむことになります。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ六章七節)。行動や行為は、自動的にそれに見合った結果をもたらします。

聖書の中で与えられている神の律法を学ぶと、結局神は、破壊的な選択をすることを禁じておられることがわかります。その選択とは、健康、配偶者や家族、友人との関係を破壊するもの、そして神との関係を破壊するものです。当然ながら、あなたをだめにしてしまうものを神は不法とされました。一方で、神はあなたの徳を高めるもの、よりよい人にするもの、他の人との関係を良くするもの、神との関係をほめたたえることを命じておられます。

ですから、神の律法を咎めることはできません。聖書はこのように言っています。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(詩篇十九篇七節)。神の律法を咎めることはできません。それなのに私たちはとかくそれに反抗します。私の肉は神の律法が禁じていること、それ自体の性質のゆえに、自分をだめにしてしまうことをしたがります。神が私に命じておられるにもかかわらず私がそれをするなら、必然的に自分の反抗の結果に苦しむことになります。ですから、神はみことばの中で、もし私たちがそれをするなら、しかじかのことが起こると警告しておられるのです。神はご自分の律法を犯した結果をはっきりと私たちに警告しておられます。しかもそれは神が恵み深くないからではなく、恵み深い方だからです。

私はとかく、自分をだめにするようなことをします。それなのに、神は続けてあわれみをかけてくださいます。神は奮闘の渦中にいる私をご覧になります。私が悲しみのうちにいるのをご覧になります。悲嘆のうちにいる私をご覧になります。私が自分を破滅させるようなことを避けてほしいと神は願われました。そして、それを私が回避するのを手伝ってさえくださいました。しかし私は反抗したのです。結局、私はそのようなことをする選択をします。それで、私はその結果に苦しむのです。

しかし、そうであっても神は恵み深く、あわれみ深く、同情心に満ちておられます。「ああ、かわいそうに。なんでそんなことをしたんだい。」と神はおっしゃっているようです。そして、手を差し伸べて、私を穴から引き揚げ、再び私が自分の足で立つようにしてくださるのです。

これまでに、自分の子が深刻な間違いを犯すのに指をくわえて見ていなければならなかったことがあったでしょうか。それは両親が直面する苛立ちの中で、最たるものだと思うのです。 青年が自分で物事を決めていかなければいけない年齢に達したとき、その青年が取ろうとしている選択が間違っていて、その子をだめにしてしまうとわかっているなら、胸が張り裂けます。その子の決断が痛みや傷をもたらすことがわかっています。ですから、できる限りのことをして、その子がそうしないようにします。法律が許す目いっぱい、できる限りあらゆることをします。けがや破滅を未然に防ぎたいのです。来るべき恐ろしい痛みや悲しみから、その子を逃れさせたいのです。そのようなすべてのものから、その子を必死になって守りたいのです。しかし、ときに子どもは強情を張ります。意固地になり反抗して、あなたのよい判断に反する、あなたの願いに反する、あなたの忠告や助言、脅しにさえも反する行為をします。自分の計画を実行し、その子を止めることができるものは、何一つないのです。

ただその恐ろしい悪循環がひとりでに完了するのを傍観し、待つしかないのです。

計画が全くだめになり、その子がひどい痛みの中にあるのを見るときは、それはまさに避けてやりたいと思っていた苦悩です。介入して、バラバラになった人生を拾い上げ、回復するのを助けます。人の話を聞いてさえいれば、そのようなことはすべて避けることができただろうに!