(前記事「もはや保守派でも、リベラル派でもない」の続き)
そこで紹介したい記事があります。カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師ブライアン・ブローダソンのブログ記事です。リバイバル(霊的復興)の定義と意義について書いています。日本にも必要な御霊の動きです。
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Revival Part2
(意訳)
リバイバル(霊的復興)の主題に入ります。初めに、霊的復興が何ではないかについて提起しましょう。霊的復興は、私たちが呼び起こすことのできるものではない、ということです。「今週のリバイバル集会 午後7時半より」という看板を掲げた教会を通り過ぎたことが、おそらくおありでしょう。リバイバルは確かに教会に関わるものですが、教会によって計画できるものではありません。神が霊的復興をいつ、どこで起こされか、私たち指図することはできないのです。私たちが自分を霊的復興に導かせるためにできる事はありますが、究極的には主権的な神の御業なのです。
霊的復興は、このように定義されてきました。「多くの信者が、聖霊による深い罪の自覚を同時に経験する時の、特別な回復の時であり、罪の告白と遺棄(時には公に捨て去る)をもたらす。最後には、主への献身を更新することになる。」リバイバルは、聖潔への新たな決意、新鮮な伝道の情熱、宣教の幻に導きます。
分かりますか、霊的復興は、私たちが信仰的に後退し、御霊に属する事柄について冷えてしまっているとき、神がご自分の民のためにしてくださる何かです。教会にはまだ通っているかもしれません、聖書を持って歩いているかもしれません、そうした決まった活動はしているかもしれませんが、心の中では、主イエス・キリストに対する親密さや全き献身から離れ去っているのです。
The Spiritual Awakeners(「霊的覚醒を与えるもの」)の中で、著者Keith Hardmanは、霊的復興に至らせる条件について、こう話しました。「霊的復興は、霊的沈滞、無気力、著しい罪の時期、名目上のキリスト者の大多数が、世俗社会の構成員と実質的にほとんど違わない時を経て、その後に普通続くものである。」
今日の私たち自身が、この状況なのではないでしょうか?多くの回心が起こっているように見え、新しい教会が始められており、ある時は、人々がぞろぞろとやってきます。けれども、実際の起こっていることを近くで眺めてみると、多くの教会が人々が来ていっぱいになっていても、その教会の中にいる人々の生活と、教会の外にいる人の生活が大きく違う、というわけではないことがはっきりしてきます。ですから、霊的復興が必要なのです!
さらなる霊的覚醒の必要
覚醒は、復興と並んでくるものであり、教会の外にいる人々に影響を与え、キリストへの救いの信仰に至らせます。一般的には、復興と覚醒は同時に起こります。神が御霊によってご自分の教会を動かし始め、新たな罪の自覚をもたらし、新たな決意を呼びかけられると、外の社会に対しても働き始め、人々に罪の自覚を与えられるのです。
これが私たちの世界で、大きな必要となっているのでないでしょうか?つまり、人々が罪の自覚の下に来ることです。人々に罪について話すとき、その考えを全て退けて、「そんなものはない」と言います。絶対真理を信じないで、真理は存在しないと思っている人に、すべての人が実は罪人であることをどのように説得できるのでしょうか?私たちは、論じる能力以上の何かが必要です。神の御霊の力が必要なのです!
Hardmanは、結論をこう述べています。「覚醒は、文化の歪み、個々人の深刻なストレスの時期に起こり始める。私たちが規範としているもの、制度の実存性、教会と国家にいる権威の正当性に信頼が失われるとき、起こり始める。」これは今日の私たちを描写していませんか?私たちは確かに、裁きを受けるに熟していますが、復興することにおいても熟しています。覚醒することにも熟しています。神の民として、このことを期待し、神がそれをもたらしてくだることを叫ばないといけません。
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参考文献:「第二次大覚醒」(ウィキペディア)