アップル、グーグル、マイクロソフトはなぜ、イスラエル企業を欲しがるのか?


ついに、楽しみにしていた本を完読しました。以前「ハイテクのイスラエル」という題のブログ記事を書きましたが、この深い骨格を表しているのが、この書物と言えます。書名が、イスラエルに興味の薄い日本人に何とか興味を持ってほしいという苦肉の策としての邦題になっていますが、本来は、”Start-Up Nation(スタート・アップ国家) ”であり、次に出てくるあとがきの言葉に集約されます。

この本の主題はテクノロジーやイノベーションそのものではありません。むしろ、イノベーションを生み出す風土、人材、教育や文化といった側面、そしてイノベーションを事業として、産業として育成していく上での諸条件について、イスラエルの多くのハイテク企業を例に多面的・多角的にわかりやすく紹介しています。(341頁)

ペレス大統領の前書きから始まり、内容は、建国物語、IDF(イスラエル国防軍)、キブツ、ディアスポラ(離散のユダヤ人)などからの切り口で、具体的な起業の例をたくさん挙げています。少し紹介すると・・・

「ハイブリッド車は人魚のようなものです」
(イスラエルの起業家の「電気自動車」の考案を聞いて出てきた、日産のCEOゴーン氏の本音)

「砂漠で魚を養殖することは道理にかなっている、と説得するのは骨が折れた。」
(種明かし:ネゲブ砂漠でやっとの思いで掘り出した地下水は、塩分入りの温水だった。しかし、それが熱帯魚の養殖に極めて適した水である。)

「善人はインターネット上に自分の足どりを残す、つまりデジタルの足跡を残すのです。なぜなら、何ひとつ隠す必要がないからです。・・・悪人は足跡を残しません。身を隠そうとするからです。」
(「足跡」を辿るのではなく、足跡が「無い」ことを辿る発想。ペイパルに、電子詐欺の技術を売った起業家の言葉。この会社は十万件の調査確認をわずか三日で高度な確率で処理した。)

ここはロゴス・ミニストリーのブログですから、聖書に関連したことに焦点を当てたいのですが、実に現代イスラエルは、次の預言の成就なのです。

わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。(エゼキエル36:10)」

これまで大いに勉強になった、現代イスラエルの書物として本ブログで挙げたのは以下の三冊です。そして関連する聖書箇所を引用したいと思います。

全般の歴史: 「イスラエル全史
私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。(エゼキエル37:7-8)」

イスラエル人の人となり: 「イスラエル人とは何か
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。 (イザヤ書43:5)」

産業: 本書「スタート・アップ国家
・・・今は人の住むようになった廃墟や、国々から集められ、その国の中心に住み、家畜と財産を持っている民に向かって、・・・(エゼキエル書38:12)」

そして本書を読むと、日本の危機も同時に感じます。以下の書評記事が参考になるでしょう。

今、生まれ変わろうとしないなら、日本は廃墟となったデトロイトのようになっていく。

最近、在イスラエルの日本企業の人が、第二次インティファーダ以降、日本企業はヨルダンなどに移動し、イスラエルには戻ってこないという現状を伝えていました。この傾向は対イスラエルに限らず、日本全体が自らの製品や技術をお客に売るという奉仕精神が著しく欠けてきたことの現れではないか、と私は懸念しています。

現代の日本を厚く覆っている雰囲気、すなわち危険を回避しようとする態度、安全志向にある背後には、実は自分自身が内部から崩れていく前兆ではないのか、と私は感じています。「少々、弾が飛んできても、私は商売をしますよ。」という気概こそが人間生来の姿であり、内部から物を創造する力が出てくるのではないかと思います。そして危機の中に自分を置くからこそ、目標が明確になり、それがさらなる開発につながります。

霊的な側面においては、「世界一評判の良い国 ― 日本 その3」でお話ししました。外からは大きく期待されている日本人キリスト者が概して内向きになっており、外が見えていない姿を説明しています。

最後に、イスラエルに対する後進的なイメージを未だ持っている方に、経済的側面から次の図表を紹介して終わりにします。本書からの抜粋です。(クリックしてください、大きくなります。)

LCFの活動予定(6月9日・10日)

明日と明後日のLCFの活動場所・日時をお知らせします。先週と変わりません。

9日(土)場所:足立区こども家庭支援センター別館3階

13:00 祈り会
14:15 聖書の学び会

10日(日)場所:「足立区勤労福祉会館」第三洋室

午前礼拝 11:00 ヨシュア記7章1-5節 「持続する勝利」
午後礼拝 13:30 ヨシュア記6-8章

新しい兄弟姉妹がさらに与えられ、また賛美にも奉仕者が与えられ、この教会も本格的に奉仕する段階に入りました。ぜひお祈りください。そして教会を探している方、またこれまで教会に来たことのない方も、ぜひいらしてください!歓迎します。

ソウル・サーファー 日本公開!

ずっと前に本ブログで紹介しました、「ソウル・サーファー」がついに6月9日、日本全国同時公開となるそうです。

公式サイト「ソウル・サーファー」

すでに一般サイトでも映画紹介が数多く出て来ます。(例えば「『ソウル・サーファー』の片腕女性サーファーを直撃!「片腕よりもサーフィンを失うことの方が怖かった」」)

ネタバレは、過去の拙記事をお読みください。日本語による前宣伝には出てこない、この話の核心に触れています。三つの言葉、特に二つ目がこの映画の主題です。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

酷いことが時に起こってしまうのがなぜだが、私には分からない。けれども、このことから良いものが出てくることを私は信じなければならない。

サーフィンが全てではない。もっと大事なのは愛であり、それはどんな津波よりも、どんな恐怖よりも大きいのだ。

「苦しみ」という人間の最も大きな課題に、真っ向から対抗している内容です。ぜひぜひご鑑賞ください!

予告編

NHKスペシャル「オウム真理教 17年目の真実」

NHKスペシャルが「未解決事件」というシリーズを持っています。

File.01 「グリコ・森永事件」

去年は「グリコ・森永事件」を取り上げていました(動画)。観ましたが取材としては極めて優れており、ここまでの内部資料と当事者への取材を良くやったものだと関心しました。この事件そのものの報道を追ってきたわけではなくあくまでも当番組の感想ですが、「この劇場型犯罪は実は、犯人が警察・マスコミ・国民を巻き込んで操作していたのではなく、犯人本人もこの劇場の中で演じなければいけない束縛の中にいた。」ということでした。その縄目を断ち切ったのは、最後の高速道路に犯人が巻いていた白い布のガードレールの下の道で、この捜査のことを知らされていなかったので職務質問をした滋賀県の警察パトカーであり、そして退職時に焼身自殺した滋賀県警の本部長の無言の“抗議”であると見ました。(参照:ウィキペディア

File.02 オウム真理教

そして「オウム真理教 17年目の真実」はつい最近観ました(動画)。

こちらのドラマとドキュメンタリーの三部作も優れものです。ただ、麻原の声を何度も聞いていると、こびり付いて頭から離れず、異様で怪しい空気に苦しむことになるので、ご覧になる方は要注意です。けれども、古参信者で逮捕されなかった本人の視線から描いた初期のオウムを描いている点が極めて優れており、二つの教訓を得ました。

当然ながら一般社会はオウムの反社会性や犯罪性に注目しており、社会や公共の秩序に触れなければ文句は言わなかったでしょう。けれども私は、それではいけないと思います。彼らの連呼する「救済計画」という概念そのものに私は問題性を見ました。それを自らの修行で成し遂げる、というところです。その修行が瞑想から始まり、次に訓練へと移り、その訓練中に事故死する者が出て、そしてその隠蔽を行ないました。NHKの取材記者は、この事故死が原点であると迫っていますが、社会性としてはその通りですが、私は上で太字にした人間の恣意的努力による救済そのものが、そもそもの間違いであると感じました。

これはどの宗教、いや社会・政治運動、また経済活動でもいえることです。救済は、神がその主権によって行なわれることであり、人はその計画に服することによって関わることができます。「あと何人いなければ、救済計画は果たすことができない。」「我々は人を救う必要がある。」というところに、会社における業績達成に通じるものがあり、そして宗教そのものにある限界です。

特に1990年前後は、私自身も大学生で思い出すのですが、ドラマでも描かれているようにバブルの絶頂でした。人々が浮かれており、これがずっと続くはずはないと若い私もうすうす気づいていました。それで新・新宗教が数多く出てきたのを思い出します。そのような俗的なものから離れたいと思って宗教が起こっていったはずなのに、その宗教の中にさえ目標達成という企業活動と変わらない原理がその中に入っていて、それを宗教の名によって包んでしまっているということが起こっていたのではないかと思うのです。

人はどんなに霊的になろうとしても、キリストの十字架に肉をつけてしまわないかぎり、むしろ霊的装いをして肉が放置されていくということが起こります。今、毎週土曜日にマタイ伝の学びをしていますが、山上の垂訓で語られたイエス様の言葉は、律法学者やパリサイ人の義よりもまさったものでなければいけない、というものでした。そこに、人間のありのままの姿が炙り出されています。

「17年目の真実」とは「イラン核危機」

そしてもう一つ、NHKは正しく、これが初の化学兵器による無差別テロであるとしている点が重要です。けれども欠けているのは、これが「宗教の名のもとに行なわれている」という点を言及していないことです。ここがNHKに象徴的に表れている「穏健な日本世論」において著しく欠けている点であると思います。

この番組の第三部の「オウムVS警察 知られざる攻防」で、一連のオウムによる秘匿捜査であと一歩というところで踏み出せない警察関係者の取材があります。その人たちの反省は、「宗教団体が具体的な社会的破壊行為をするのだろうか?」という想像力の欠如にあった、ということです。それまでは赤軍を代表する唯物思想の過激派しか取り扱っていなかったのですから理解できます。また、戦時中に治安維持法によって国家権力が宗教団体内の教義にまで踏み込んだという過ちがあるので、そのような歴史的経緯から「宗教」そのものに対して権力が踏み入ってはいけないという思いが、関係者の間にはあったことでしょう。

しかし、戦後日本が政教分離の原則を社会的側面にまで極端に推し進めたために、日本では宗教に入信している人々が現実に極めて多いのにも関わらず、マスコミなどの公の場において宗教を一切論じないという空間ができあがりました。

その反動として、宗教の健全性を推し量る免疫がまったく付いていません。私が1999年頃初めて韓国に行ったとき説教奉仕が目的でしたが、同乗していた日本の若者に教会関係の働きであることを告げると、本人である私を目の前にして嫌悪感を露にしました。私は、「夜に降り立ちますから、ソウルに輝く、赤いネオンが着陸するときに見えますよ。それは全部、教会の十字架ですよ。」と話しました。公の空間から宗教を押し出してしまった結果、その初歩知識さえも知らない幼稚な状態に閉じ込めてしまっており、オウムに入信する人たちのように、その純朴な思いは歪んだ教義を見分けることができなかったのです。

オウムの中にあった「ポア」の教義は、イスラム過激派のジハードと類似点をみます。ポアの定義は単なる殺人ではないと彼らは言いますが、そして確かにもっと広範囲で使われていますが、イスラムの「ジハード」も全く同じように使用されています。

ウィキペディア「ジハード」

ジハードの語は元来アラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」を意味する。この「努力」の語の元来の意味には「神聖」あるいは「戦争」の意味は含まれていなかった。しかしコーランに於いてはこの言葉が「異教徒との戦い」を指すことにも使われており、これが後に非ムスリムとの戦争を示す所謂「外へのジハード」として確立した。

ウィキペディア「ポア」

本来の意味の「ポア」とは、「死に際して、その魂を高い世界に移し変える(転生する)こと」を意味していた。ところがオウム真理教では魂を高い世界に転生させるためには、積極的にその魂の持ち主の生命を(実際に)奪っても構わないという「殺人正当化の教義」を意味することになった。

そしてイスラム過激派の数多くのテロ行為の直接的動機とオウムは酷似しています。そして、宗教国家を作り上げるという麻原の野望は、まさに1979年のイランで起こったイスラム革命の概念と同じであり、今のイラン政権の核開発はこの思想を基盤にしているのです。


1995年に現イスラエル首相のネタニヤフ氏は既に、「テロリズムとはこう戦え」を書き記し、その中で、地下鉄サリン事件を取り上げています。これら世界、特に自由・民主主義圏を脅かす要因になる警鐘を鳴らし、その後の世界はまさにその通りになりました。この事件が今の化学・生物テロ危機の拡散につながったのです。けれども日本や世界のリベラル界は未だに、イスラム世界で起こっているテロ行為を貧富の差、アメリカ覇権主義とか、新マルクス主義に基づく話を展開させています。(そうした意味でアラブ地域研究家の池内恵氏の洞察は優れています(「現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義」「中東 危機の震源を読む」)。彼は、テロを引き起こしたイスラムの内部構造を抉り出しています。)

したがって、「オウム真理教 17年目の真実」とは「イラン核危機」でもある、という世界的視野を持つ必要があります。

恵比寿バイブルスタディのお知らせ(6月6日)

今週の学びのお知らせです。

日時:6月6日(水)午後7時から
場所:目黒区立 田道住区センター三田分室 / 2階 第一会議室
聖書箇所:サムエル記第一25章以降
(次回の予定は、6月27日になります。二週間空いているのでお気をつけください。)

<近況報告>
明日、来年のイスラエル旅行の正式決定を、旅行社の方と行ないます。大阪からわざわざ東京に飛行機で来てくださいます。どうかお祈りください。先ほど恵比寿BSにいらっしゃっている姉妹から、お母様と一緒に行く意思表明のメールをいただきました!感謝、これで合計16名になり最低催行人数の15名を上回りました。

LCFの活動予定(6月2日・3日)

明日と明後日のLCFの活動場所・日時をお知らせします。先週と変わりません。

2日(土)場所:足立区こども家庭支援センター別館3階

13:00 祈り会
14:15 聖書の学び会
※前々回から「1時に祈り会、2時以降に聖書の学び会」の時間帯に変えてみました。

27日(日)場所:「足立区勤労福祉会館」第三洋室

11:00 午前礼拝 ヨシュア記3章14-17節 「新しい御霊の生活」
13:30 午後礼拝 ヨシュア記3‐5章 ※聖餐式があります。

新しい兄弟姉妹がさらに与えられ、また賛美も奉仕者がどんどん起こされて豊かに祝されています。今、教会を探している方、またこれまで教会に来たことのない方は、ぜひいらしてください!歓迎します。

“不自然な”御霊の動き

教会にあるべき姿について、エッセイを書きました。長くなったのでブログではなく、違うところに掲載しました。

“不自然な”御霊の動き」 ルカ10章の「良きサマリヤ人」から

「快適」であることは、御霊の動きではなく、御霊が働かれる時は「愛」の動機が働き、愛していくのは労苦を伴い、違和感を乗り越えるものである、という内容です。よかったら読んでみてください。

山東さんのメッセージ「教会はキリストの体」

本日は、二週間ぶりに自分の教会で説教することができました。新たにヨシュア記に入り、午後礼拝は94分かかってしまいました!みな元気そうで感謝です。こちらに説教の原稿と音声を掲載しています。

そして先週の日曜日の説教壇交換でカルバリーチャペル西東京の山東さんがLCFで説教をしてくださった録音ファイルを、本日、受け取りました。今、聞き終えましたが、とても良かった!「教会」とは何について話してくださいましたが、神様のシナリオ全体の中で呼ばれた者たちが集まった所であり、団体プレーであることを強調しておられました。そしていつもの関西弁のお笑い系で話してくださったのも、嬉しいです。

「教会はキリストの体」 - 教会が分かると信仰が変わる エペソ1章23節から

光あるうちに ― 道ありき第3部 信仰入門編

本の紹介ですが、これは私が大学一年生の三月頃に読み、二年生に入る直前に信仰を公にした、大きなきっかけを与えてくれた本です。かなり前に読んだ本であり、もう手元にないのですが、自分にとっては記念すべき本なので、ここに書き記しておきます。

この本についての推薦が次のブログ記事にあるので、内容はそちらでお読みください。

「光あるうちに-道ありき第三部 信仰入門編」を読みました

私にとって、そしておそらくは多くの日本の人にとって、キリスト教信仰に対するつまずきは「罪」であろうと思います。これまで、「聖書には良いことが書いてあるが、どうしてキリストだけなのか?」「十字架を強調しているが、どうしてなのか?」「自分が本当に駄目になったのであれば、信じるかもしれない。」など、いろいろな疑問や質問を聞いてきましたが、それは行き着くところどれだけ「罪」を理解しているかにかかっています。

三浦綾子さんの本書における説明が、私の罪概念を一気に変えました。そして、はっきりと「私は罪人だ」と断言できるようにしてくれました。

罪とは、義のものさしについて二重基準を持っていること、そのもの。」という趣旨が書かれていました。この本は元々、主婦向けの雑誌に掲載されていたものらしいのですが、それで主婦の視点になった例話が多いのですが、井戸端会議で、ある奥さんが他の女性が浮気していることについて、「なんと汚らわしいことでしょう。」と非難しているくせに、たいした月日も経っていないのにある男と付き合うようになり、「こんな愛、初めてだわ。」と言って、ぜんぜん矛盾を感じていない姿、ということです。

今となっては、ローマ2章1節の言葉の内容であることが分かります。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」その他のいろいろな例えも読み、聖書の言っている罪とは、単に何らかの行為ではなく、人の体の中に染み付いている性質そのものであることが分かりました。まさに、自分が「救いようのない存在」であることが体感できました。

彼女は、他の小説「氷点」において、これを原罪として描いていますが、原罪は私たちの償いによっては拭い去ることができません。原罪は、完全な方が罪人として罰せられることによって、つまりキリストが十字架に付けられたことによって、取り除きえるということです。ゆえに、やはり「キリストのみが救いの道」であり、他の宗教でも善行でも道徳でもない、ということです。

ちなみに三浦綾子さんは、男女関係、結婚についても数多くのエッセイを残しておられます。MGF教会の牧者、菊池一徳さんが、三浦夫婦の結婚観について詳しく紹介しています。

三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論

LCFの活動予定(26日・27日)

26日、27日の教会の活動予定をお知らせします。

26日(土)場所:足立区こども家庭支援センター別館3階

13:00 祈り会
14:15 聖書の学び会
※前回から「1時に祈り会、2時以降に聖書の学び会」の時間帯に変えてみました。

27日(日)場所:「足立区勤労福祉会館」第三洋室

11:00 午前礼拝 ヨシュア記1章1-2節 「神に用いられる備え」
13:30 午後礼拝 ヨシュア記1‐2章
※ヨシュア記の学びに入ります!ぜひ、新しい学びシリーズに参加してください。